15.
溢れかえる人の海。その中に、どこか見覚えのある黒髪を見つけた。夏生の髪をそのまま短くしたような、艶やかな光沢をもった漆黒の絹糸。
さっぱりとしたショートカットが、晴れ晴れとした健康的な美しさを感じさせる。つんと澄ました横顔に、人目を引くメリハリのきいたプロポーション。年齢の読めない美しい人。
――すぐに、悟った。
「九条さん! では、ないんですよね、もう。ええっと、……すみません、なんとお呼びしたらいいのか」
驚いたように振りかえる、その仕草さえ様になっていた。こころなしかつり上がった、きつめの目尻が描く弧は、冬也の切れ長のまなざしとよく似ている。
「あなた……。渡部さんのところの」
丸く見開かれた瞳の中を、俺の姿がたゆたっている。たしかな血のつながりを感じる、引きこまれそうな深い夜の色。
やはり、この人は、冬也と夏生の母親だ。記憶の中の面影と、ぴったりと重なる。
「おひさしぶり、です」
緊張感に声が震えた。思わず呼びとめたのはいいけど、なにを話したらいいのかよくわからない。
ガチガチに固まりながら、必死で脳内に検索をかける。話題。話題。話題。なんでもいいから早く! このままじゃ、あんまりにも不自然だろう。
お母さん――たしか、美冴さん、は、そんな俺の様子に、くしゃり、と表情をゆがめた。夏生とよく似た笑顔に刻まれた笑い皺に、はっと息をのむ。
若々しく見えるけれど、彼女はもう、三十代の半ばを過ぎているはずだった。過ぎさった歳月を、そこに感じる。
「大きくなったわね。夏生をみても思ったけれど……本当に、早い」
噛みしめるように呟かれた言葉に、声を失った。
まるで、数年ごしに対面したかのような口ぶり。どういうことだろう。一緒に暮らしているとばかり思っていたけれど、違ったのか?
二人で仲良く、手をつないで帰路を歩く兄妹の背中が思い浮かぶ。
「夏生に、……会ったんですか?」
「ええ。少し前に」
慎重に、渡すべき言葉を探る。
「それは、夏生から――?」
プレイヤーになった夏生が接触したのか、それとも。下手な探りに、しかし美冴さんは疑うこともなく首をふった。
「あの娘を呼んだの。私が」
そう言って、彼女は苦い笑みを浮かべた。
「無理をしてでも連れていくつもりだったんだけどね、ふられちゃったみたい。返事もよこしてくれないなんて、嫌われたかな」
「連れて……?」
「そう。あの娘を引き取れなかったのが、どうしても心残りで」
寂しげに言う美冴さんを眺めながら、うっすらと、状況が見えてくる。
二年前。隣家はバラバラに引っ越していった。家としての交流は深くもなくて、離婚した、という事実を、後から風の噂できいた。
同時に、浮かびあがる疑問を禁じえない。気づいてはいけないことなのではないか、と疑いながらも、勝手に言葉がこぼれ出してしまう。
「冬也、は」
なぜ、もう一人の子どもの名前が出ないのだろう。
まるで、ないものとして扱うかのような態度が、あまりにも不自然で。それを当然のものとしていることが、余計に不可解で。
「冬也には、会われないんですか」
実際、今の二人には、どちらにも会うことは叶わないのだけれど。試合も終盤に差しかかった今、昔のままの彼らだとも、言えない。
苦い現状を思い返して、つい、眉をひそめてしまう。表情を取り繕うことは苦手だ。ポーカーフェースなんて貫けない。
でも、美冴さんは、そんなことは知らない。周りをとりまく人々が、不自然なまでにこちらへ興味を示していないことにも、まだ気づいていない。
はっ、と息をのんだ彼女は、斜め下に視線を外した。形の良い唇が、小刻みに震える。
伏せられた目もとへ、長いまつげの落とす影が醸しだす愁い。途端にこぼれる匂いたつような色気さえ、冬也に引き継がれた彼女の痕跡だというのに。
「ごめんなさいね。……私、あの子苦手なの」
「苦手って、そんな」
とがめるような声をあげてしまってから、すぐに後悔した。これは、九条家の問題だ。ろくに事情さえ知らない俺が、踏みこんでいい領域じゃない。
「でも、お互い様なのよ。私たち。冬也は、あの人に似すぎたから……きっと、どうあっても、うまくかみ合わないの」
「後悔……されているんですか?」
でも、止まらない。踏みこむべきでないとわかっているのに、どうしても追及せずにはいられない。
「どうして今更になって、夏生を引き取ろうと思ったんですか」
「どうして、って……」
「二月の頭、一度だけ、冬也が学校に遅刻してきたことがあったんです。あいつ、規則には真面目で、結構、外面良いから、そんなこと滅多にないのに」
美冴さんの細い肩が、微かに揺れる。すらりと伸びた肢体は優美な曲線を描いて、幼心に、なんて綺麗な人なのだろうと思っていた。
華奢な彼女に抱く印象は、いまは、ただ――小さい。
確信していた。確たる証拠なんてどこにもないのに、もう俺は、ひとつの答えしか導けだせなくなっていた。
「貴女に、会っていたんですね」
黒々とした昏い水底のような瞳が、いまいちど俺の姿を映す。あまりにも深くて、そのなかで溺れてしまいそうだ。
兄妹にも受け継がれた、蠱惑的なまなざしにぴったりと合致するイメージを、不意に思いついた。
漆だ。純和風の、引きずりこまれそうな奥行きを感じさせる、品格ある光沢を備えた黒。職人の魂とも言うべき、生命の脈動を感じさせる深みがそこにある。
それは、触れることを思わず躊躇するような、圧倒的な風格だ。
目を合わせたものを引きこんで放さない、悪魔的な魅力を持った瞳だった。散々射抜かれ、耐性を持った俺でさえ、くらりと酩酊感が湧くような。
――九条冬也って、お偉方の隠し子らしい。
それは、忘れさるほどの昔、たった一度きり聞いた幼馴染の父親に関する唯一の情報だった。なぜか、唐突に思い出した。
本人がまるでとりあわなかったこともあって、瞬く間に鎮火した下世話な噂だ。俺自身、気に留めてもいなかったから、存在さえ忘れていた。
魔性としか形容しようがない美しい人を目の前にしてしまうと、そんなふざけたホラ話ですら現実味を帯びて響くから恐ろしい。
「あの子は……」
高校二年の息子がいるとはとても思えない、年齢不詳の麗人は、引き結んだ唇をかすかに開いた。消え入りそうな声が、大気を震わす。
「許しては、くれないもの」
「え?」
「手を離したのは私。彼を選んだのも、無垢な瞳を裏切ったのも。あの子たちに与えられるはずだった選択肢を、奪ってしまった」
凍てついた氷像のような美貌に、自嘲じみた翳りが落ちる。
「冬也は、私を許さない」
「違う!」
それは、反射にも近い衝動だった。
話を遮って声を張り上げた俺に、美冴さんの目が丸く見開かれる。
「――それは、貴女が決めることじゃない」
待て。
「あのときああしていれば、なんて、後からだから言えるひとりよがりな感傷だ。そんなもの、いくら重ねたって現実には届かない!」
待てよ。俺は、なにを口走っているんだ。
美冴さんの言葉が、表情が、苦い実感を伴って胸を突いた。喉を、胸を、めちゃくちゃに掻きむしって叫びだしてしまいたかった。
なにを重ねた。なにを思った。わからないけど、ただ、苦しくてたまらない。
数多の贖罪を積み上げたって届かない。罪は重なり山となり、気が遠くなるようなくり返しの中で、俺を着々と蝕んでいった。
「あなた……」
星を抱いた黒曜石のような瞳が、震える。その奥に、かすかな意志のくすぶりを見つけたとき、目の前が弾けた。
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