20.
僕は付いていけなくなった。どうやらこの分野は、僕には向いていないらしい。彼女の図画工作の教育は彼に任せ、僕はランの散歩に出ることにした。実のところ、今朝はまだ、僕も瀬戸田はともかく、恵里菜もバタバタして家を出る前に軽く食べた程度で、きちんと朝食を食べていなかった。その買い物も兼ねる。
午前六時。朝からあの二人は元気だと思いつつ、もうすっかり明るい夏の朝の中を歩く。途中、近所の犬仲間に会い、挨拶を交わし、いつもの散歩道を歩いていたが、普段は直進する曲がり角で、ランは右に曲がろうとした。
「わんわん!」
「ラン、そっちじゃないよ」
「わんわんわん!」
しかし、彼女はどうしてか、真っ直ぐ行くことを拒み、右折しようと僕を引っ張る。その方向を見ても、よく見かけるご近所犬の姿は見当たらない。どうしたのだろうか、と思ったが、ふと、今取り組んでいる案件が脳裏に浮かぶ。
――もしかすると、この先に『キューブ』が?
ランに従い、僕もその方向に歩き出すと、彼女はしきりに地面の匂いを嗅ぎながら僕を従えていく。散歩の時、犬に先行される飼い主は、犬から舐められていると言われるが、普段はランも、きちんと僕か瀬戸田のすぐ横か後ろを歩くのだ、今日は例外である。
しばらく、彼女はそんな感じの歩みを続けていたが、僕の知らなかった、少し広い公園を見つけると、僕をそこへといざなった。彼女にも彼女なりの、一種の直感があるのだろうか。それを信じて、素直に僕はそれに従ったが、公園に入った瞬間、彼女はあまり手入れが行き届いていないらしい、草藪の方向へと走り出した。そのあまりの勢いに、僕はリードを持つ手を離してしまった。
「これっ、ラン! 待ちなさい!」
「わん! わんわんわん! わんわんわん!!」
しかし、彼女は公園の外に出てしまうようなことはなく、草藪の中の一本の木のたもとで急停止。それから、僕の方を向いて、あまり吠えることがない彼女にしては、珍しく激しく吠えた。僕はその様子に、「普通ではない何か」を感じ取った。僕は藪をかき分けて、何とか彼女の元に辿り着いた。
「どうしたの」
「わん!」
彼女は頭上を向いて、今度は一度だけ吠えた。その視線の先には。
「……あっ」
「ええっと、あなたが第一発見者の野島さんですか」
「はい、そうです。正確には、うちの飼い犬が先に気付いて、激しく吠えたのですが」
「犬は鼻が利きますからねえ。死臭か、身体の穴から出る何らかの臭いに気付いたのでしょう。首吊り遺体ほど、見た目が醜くなるものもありませんよ」
ランが見つけたものは、『キューブ』ではなく、木の枝にロープを引っかけ、首を吊った老年男性だった。僕はすぐに警察に通報した。救急車も来たが、既に心停止後、蘇生が不可能なだけの時間が経っているらしかった。現れた警察官は、近くの交番から来たという中年の男性だった。僕の知らない顔だった。
「自殺、でいいんですか、これは」
「どうですかねえ。踏み台にしたような箱もありましたけど、あの箱が彼の体重を支えられたのかどうかを考えないといけませんねえ。自殺の線が高いですけれども」
警察官はしゃがんで、見つけてくれてありがとう、と言いながら、ランの頭を撫でた。彼女は尻尾を振った。
もし何か用があったら、また連絡するかもしれないが、今日のところはいいと言われたので、僕たちはその場を離れた。公園の近くにコンビニがあったので、そこで適当なパンを数個と、果物を売っていたので、バナナを一房買った。
帰り道、僕は今回の件の不自然さに気付いた。いくら、犬が人間よりも遥かに鼻がいいとはいえ、ランがいつもの散歩コース通りに進むのを拒んだ地点から、不自然な遺体を見つけた公園までは、歩いて五分以上かかっている。そんなに遠くまで、警察官の言っていた死臭などは届くものなのだろうか?
あの公園に引き返して、そのことを伝えようと思ったが、相手は超常現象担当ではなく、普通の警察官のようだった。何の特別な訓練も受けていない、普通の愛玩犬が、散歩中にいつもと違う行動を取った、と言っても、相手をしてくれない可能性が高い。
――今度の月曜でいいか。




