第三章 3話 サマエルとバルサ
それから、しばらくの時間が過ぎた。
病院の廊下には、夜特有の静けさが満ちている。
人の気配は薄く、機械のわずかな駆動音だけが、規則的に響いていた。
その中を――
サマエルは、楽しげに歩いていた。
まるで散歩でもしているかのように。
「ふ〜ん……こっちみたいね」
軽い足取り。
だが、その瞳だけは違っていた。
――何かを“見透かしている”。
突き当たりの角を曲がる。
その瞬間。
空気が、わずかに沈んだ。
「うん……この奥ね」
迷いはない。
そして、ある扉の前で止まる。
――副理事長室。
「あっ……ここね」
軽く扉に触れる。
鍵など意味を持たないかのように、静かに開いた。
室内は薄暗い。
机の上には書類が散乱し、その奥に――
ひとりの男が座っていた。
頬杖をつき、ぼんやりと虚空を見つめている。
その目には、覇気がない。
「だれかな……?」
反応は遅い。
声にも力がない。
サマエルは、軽く肩をすくめた。
「あっ……お構いなく」
「たいした者じゃないので」
まるでこの場の価値そのものを軽く扱うような口調。
男は、それに特に反応することもない。
御堂 恒一。
かつて副理事長として権力を持っていた男。
――今も肩書きは同じ。
だが、その中身は、すでに抜け落ちていた。
意思も、判断も、ほとんど残っていない。
サマエルは興味なさげに近づく。
「失礼……」
軽く言いながら、額へ手を当てた。
触れた瞬間――
空気がわずかに震える。
「……ふ〜ん」
目を細める。
何かを“読み取っている”。
「なるほどね……」
「ある程度の情報は見えたけど……」
「肝心なところが抜けてるわね?」
その言葉が落ちた瞬間――
空気が変わった。
『……当然でしょう』
低く、静かな声。
それだけで、空間の密度が変わる。
気配が、ひとつ増えた。
サマエルは振り返る。
そこには――
何の前触れもなく、一人の男が立っていた。
「そんなに簡単に、情報は渡せませんよ」
白衣。
整った姿勢。
穏やかな声。
だが、その存在は明らかに“異質”。
山地 春佐。
――いや。
バルサ。
「ふっ……あなたは?」
サマエルがわずかに笑う。
「山地 春佐。ここの外科医です」
自然な名乗り。
だが、その“自然さ”が逆に不自然だった。
「普通の外科医は、ドアも開けずに現れたりはしないでしょ?」
「……堕天使、バルサ」
一瞬の間。
バルサの口元が、わずかに緩む。
「ええ、そうですね」
「サマエルさん」
互いに名を呼ぶ。
それだけで、空気が張り詰めた。
静かに、しかし確実に。
「で……私に何かご用?」
サマエルが先に動く。
「いえ、特には……」
バルサは肩をすくめた。
「まあ、強いて言えば……」
一瞬だけ視線を細める。
「昔馴染みの顔を見に来た……といったところですかね」
サマエルから、微笑みが消えた……
「あなたとは、初対面のはずだけど?」
「ああ……そうでしたね」
軽く笑う。
その笑みに、わずかな含みがある。
「少し、勘違いしました……」
沈黙。
重い。
音が消えたかのような静寂。
「では……ひとつ質問を」
バルサが視線を向ける。
「天使長補佐のあなたが――」
「なぜ、こんな場所に?」
「しかも単独で」
サマエルの目が、わずかに細くなる。
「それ、力づくで聞くつもり?」
「それとも……ただ言ってみたかっただけ?」
バルサは肩をすくめる。
「さあ……半々くらいですかね」
「ただの私用ですよ……」
「これで満足かしら?」
「ええ、まあ……」
肩をすくめる。
だが、その裏で何かを測っている。
そして――
「……私はここで、騒ぎを起こすつもりはありません……」
「それだけは、お伝えしておきましょう」
その言葉と同時に。
空間が、わずかに歪む。
――次の瞬間。
バルサの姿は消えていた。
最初から存在しなかったかのように。
静寂が戻る。
だが――
先ほどとは違う。
何かが残っている。
サマエルは、小さく笑った。
「さてと……引き上げますか」
軽い口調。
だが、その瞳には興味が残っていた。
「帰るのかい……」
御堂がぼそりと呟く。
「ワシも……そろそろ帰る時間なんじゃ……」
虚ろなまま。
変わらぬ声。
部屋には――
抜け殻と、余韻だけが残っていた。




