第8四半期「口座開設」
なんのへんてつもないコーヒーカップ。ガラもない。とくにしゃれたかたちでもない。
それがジョオに凝視され、ジョオの感性がみがかれていくあいだ、リョウはきのうみた変な夢のことをまた考えていた。
「……見えてきたぜ……」
ジョオはつぶやく。
部屋にもどり、支度をすませて、ホテルを出る。
滞在期間も折りかえしをすぎ、ジョオは、いよいよ熱心にリョウをご指導ご鞭撻するようになっていた。
リョウは計画性もなく、危機感も行動力もゼロなので、一日のスケジュールもこまかくきめてやっている。
それをリョウは無視することもあるが、無視しつづけるのもなんだかもうしわけないような気もしてくるので、いちおうそれ通りに行動する日もまあとってみることにしてはいる。今日はその日だった。
バスを降り、某社ビルにはいり、エントランスでお辞儀して、控え室に通される。
先にきていた志望者たちが一瞬だまる。
喉がからからだ。
しかし水をのむにはあのひとたちのあいだを通る必要がある。渇き死ぬリスクと、話しかけられるわずらわしさとを天秤にかけているうち、けっきょく採用担当のひとがきて、リョウも、みんなにあわせてお辞儀した。
そのひとは三十代くらいの男性で白いワイシャツにグレーのズボン、ネクタイはなくて社員証をさげていて、挨拶をすると参加者たちの声に覇気がなく、何度もやり直させたあと、参加者代表として不運にもリョウは指名され、前にでて、そのひとの目をみて腹から声をだし「おはようございます」をいうはめになった――。
――ヨータ。土星出身。輪っかうまれで、学業優秀なサッカー少年だった。教師の推薦で本星の学校へすすみ、ほんとうはミュージシャンになりたかったのだが両親の反対にあいこの会社に就職した。いまの仕事は好きでもきらいでもない。
「どうしました」
ぼけっとしているリョウを、ヨータはイジッた。
「もどっていいですよ」
リョウは席にもどった。まわりがくすくすしているのに気がついてはいた。
――さっきのなんだったんだろう。
その会社の選考は辞退して、お昼どき、またこのあいだの公園にむかって歩きながらリョウはおもった。
あいさつをしたとたん、リョウはあのひとのことがわかった。
いや、わかったという言いかたはどうだろう。
ひととなりを直観したとか、素性を悟ったとかそういうことじゃなく、行ったことのない土星の土のにおいがしたり、クラスメートたちのにくたらしい坊ちゃんづらが浮かんできたりした。
デモ音源を突っかえされたときのにがい気持ちとか、ばか親父が死んだときの虚脱感までたしかによみがえってきたのだ。
――そうだ。よみがえった。それだ。思いだしたという感じなんだ。
外から情報がはいってきたり、データがインプットされたりしたわけじゃない。
そうじゃなく、たしかにリョウは思いだしたのだった。おれの、ヨータの、これまでの人生を。
――でもそれはどういうことだろう。おれは、なんかへんな病気にでもなっちゃったんだろうか。
公園にくるとこのあいだのキッチンカーがいて、このあいだのようにホットドッグを売っている。
リョウはこのあいだとはちがう、激辛チョリソーのとコーラをたのんだ。
品物をうけとるとき、目をみて「ありがとうございます」をいうと――。
――あーくそばかやろう。なんだってこんなシケた仕事しなきゃなんねーんだ。おれを、だれだとおもっていやがる。ズンキチさまだぜ? ZAKURO社の二次選考までのこった男だぜ?
リョウはそれを最後まで食べる気にはなれなかった。
リョウはズンキチ本人なので、調理中このソーセージを何度も下に落としたこともピクルスはトイレ後に手を洗わないで刻んだのであることもはっきりと記憶にあり、ズンキチが、リョウにひそかにひどいあだ名をつけて愉しんでいることも知っている。
――いよいよおかしい。
リョウはおもった。今日はもう帰って寝よう。
バスに乗る。お金をはらい、目をみて「おねがいします」。
するとリョウはもうそのひとで――。
――けっきょくこんなぐあいで部屋にもどるまでにリョウはあと十人になり、眉間の古傷の由来を思いだしたり、わかれた夫をのろったりしてくたくたになった。
法則性――目をみてあいさつをすると、なぜかそのひとになる。
いや、そのひとになる、というよりはそのひと「である」。ずっとそのひととして生きてきたような気がするのだが、しかしそのひとであることをかんじているのはあくまでもリョウである。
どういうことだろう。へんな妄想にとりつかれているのだろうか。
頭をかかえるリョウのかたわらにいつのまにかその少女は立っていた。
白い髪、白いリクルートスーツ、宇宙船のなかでみたあの少女。
腰をまげる。九十度のお辞儀。髪がゆれる。
「このたびは、口座のご開設、誠にありがとうございます」




