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13-2:新たな旅立ち

 <黒鉛の森林>を去って数日後、クロトールは幼少期を過ごした故郷のはずれに立っていた。なだらかな丘陵地にぽつんと浮かぶ村——その景色を眺めていると、住んでいた当時の記憶が頭の中に少しずつよみがえってきた。


 故郷は何十年もの歳月を経て、より機能的に、より合理的なものへと変化していた。たとえば、かつて野ばらが咲いていた区画は、今や広大なキャベツ畑の一部に変わっている。それから、生け垣が取り除かれた村の表通りは、見通しが良くなった一方で物寂しい印象だ。


「ずいぶん変わったものだな」


 悲しいことに、村の大きな変化は愛着の喪失をもたらした。この場所はもはや自分の故郷ではない。全くの別物だ。だが一方で、それは救いでもあった。特別な感情がないなら、留まる理由は何もない。用事が済み次第、すぐに旅立つことができる。


「ここに戻ることは、もう二度とないだろう」


 クロトールは人目につかぬよう、外周の道を進んでいった。ここを出てから三十年あまり。おそらく顔を覚えている者はいないだろうが、それでも接触は極力避けたかった。今回の帰郷は個人的な事情によるもので、誰にも明かしたくなかったからだ。


 その後は坂道を歩きながら、近くの高台を目指した。そこまで向かえば、目的地の森は目と鼻の先だ。しかし、坂道はなかなか終わらない。目の前には緩やかな傾斜が長々と、単調な形で続いている。


「こんな時に、ファリオンがいてくれれば——」


 ふと思った言葉が、図らずも口から漏れ出た。自分の窮地を救い、勝利をもたらしてくれた愛馬。彼を失ってからというもの、心はどこか上の空で、背中に乗っていた時の感覚が恋しくなることも多かった。


 自分がもう少ししっかりしていれば、ファリオンはあの場で死なずに済んだのではないか。嘆いても無駄なのは分かっているが、どうしても考えてしまう。


 ようやく高台まで至ると、大昔に暮らした小城を横目に見ながら、近くの森へ足を踏み入れた。幼い頃に迷子になったその森は、様変わりした故郷とは異なり、かつての面影を色濃く残していた。


 新たに葉をつけたばかりの広葉樹、岩の間を細々と流れる小川、青々しい苔の群生——今は目に映るもの全てが美しいが、夕暮れにはここを出なければならない。この場所は夜になると気温が低下し、狼が動き始める。それについては嫌というほど分かっていた。忘れられない当時の記憶があるからだ。


 そう、自分はもう一度会いたいと思っているのだ。この森で自分を救ってくれた、あの日の神に。問題は、それが帝国の神なのかどうかだ。仮に異教の神であったなら、自分は今後の身の振り方について、よくよく考えなければならない。


「神の痕跡を見つけたいなら、森に目を凝らし、祭壇や石碑を探せ。そこに名前や絵画が残されていれば、お前は神の正体に限りなく近づいたことになる」


 エイレナは別れる前にそう言った。これまで帝国の神に仕えてきた自分にとって、異教かどうかの区別は難しいことではない。この場所で見つかるものが何であれ、今のうちに心の準備をしておくべきだろう。


 いったん休憩のために足を止め、何気なく周囲を見渡したその時、ふとあるものが目に留まった。木の茂る小さな崖の上に、自然物とは思えない四角い石が建っている。


「あれは——」


 近づいてみると、それは古びた石板だった。いつの時代のものかは分からないが、苔に覆われた石の表面には、薄手の衣をまとった一人の女が描かれていた。揺らめく髪を持ち、全身を光背で包む細身の女。その両手には、丸みを帯びた淡い光が握られている。


 これが私の探していた神なのだろうか——クロトールは疑問に思いながら、苔むした石板におそるおそる触れた。すると、指先を通じて温かい感覚が全身を駆け巡った。


 その直後、森全体を一陣の風が包んだ。勢いのある澄んだ風が、枯れ葉を舞い上げて辺りに吹き荒れる。


 風が肌に触れた瞬間、クロトールは、かつて愛馬ファリオンと過ごした日々を思い出した。今吹く風は、いつだか彼の背中で感じたものと同じだった。


「ファリオン?」


 そのつぶやきは、周囲の音によってかき消された。風は勢いを増し、その強さは地面の土を削り取るほどだ。クロトールは春の嵐の中、ファリオンのいななきを聞いた。声の出どころを確かめるべく振り向いたが、土埃が目に入るせいで、何も見えない。


「ファリオン、お前なのか?」


 顔半分を手で覆い、叫ぶように尋ねたが、鳴き声は次第に遠ざかっていった。しかしその際、枯れ葉が舞う音に混じって、蹄の音が確かに聞こえた。


 その後も強風で目を開けられずにいると、再び懐かしい気配を感じた。ロナスとファリオン——<黒鉛の森林>で馬を並べ、語り合った彼らがこの瞬間、そばにいるような気がした。不意に何かが自分の肩にやさしく触れた後、離れた。風のいたずらではない。今のは明らかに人の手だった。


 しばらくして、風が止んだ。覆っていた手を外し、ようやく目を開けたクロトールを待っていたのは、馬のファリオンでも二人の同僚でもなかった。


 そこにあったのは、”光”だった。森の天蓋から差し込む柔らかな陽光が、自分の居場所を燦燦と照らしている。その輝きは希望であり、幸福であり、祝福でもあった。クロトールは、その光に神の存在を感じた。そしてようやく、探していた答えを見つけたような気がした。


「神よ——」


 クロトールは独りつぶやくと、その場でひざまずいて祈った。他でもない、自分の神に対して。



***



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