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8-1:影の神エルゲオン

「あそこだ」


 クロトールは愛馬ファリオンの背を降りると、前方にそびえる巨大な岩壁をにらんだ。その岩は<黒鉛の森林>を東西に分ける天然の要塞で、中央に生じたわずかな亀裂が、未知の領域への入り口となっている。放浪民の長老の話によれば、亀裂の先には地下洞窟が広がっていて、その中には<森の民>が崇める影の神、エルゲオンが住んでいるらしい。


「それなら松明を用意します。洞窟の中は暗くて転びやすいと長老から聞いたので」


 ミアはそう言うと、布が巻かれた棒に獣の脂を塗り始めた。彼女が準備にいそしむ最中、馬のファリオンは何を思ったか、鼻を神経質に鳴らし始めた。松明の脂の臭いが気になるのか、それともこれから向かう洞窟に怯えているのか。クロトールはファリオンを何度かなだめようとしたが、上手くいかなかった。


「皆、準備は良いか?」


 一団のリーダーであるエイレナが、緊張した面持ちで尋ねた。


「ここから先に待ち受ける危険は、今までの比ではないだろう。中に入る前に不安があれば教えて欲しい」


「俺は問題ないぞ」


 最初に威勢よく答えたのはフェリックスだった。


「矢は十分にあるし、昨日はよく眠れた。行こうと思えばいつでも行ける」


「私もいつでも出発できますよ」


 松明の脂を塗り終えたミアが明るく言った。


「治療用の薬草は目いっぱい詰めておきました。具合が悪くなったら、すぐに声をかけてくださいね。手遅れになる前に」


 エイレナはクロトールの方を見た。彼女は洞窟へ入る前に、全員の言葉を聞きたがっていた。


「クロトール、あれから怪我の痛みはどうだ? もし必要なら、湿布程度なら用意できるが」


「いいや、その必要はない」


 クロトールは軽く笑みを交えて答えた。


「ここ数日間のおかげで、痛みはだいぶ楽になった。放浪民との出会いは、まさに天の恵みだったよ」


 戦闘続きで疲弊していたクロトールにとって、放浪民と過ごした日々は素晴らしい休養となった。おかげで怪我の痛みはほとんどなくなり、万全といっていい状態だ。


「あの長老には感謝しないとな。彼は我々をもてなしてくれたし、洞窟の場所も教えてくれた」


「感謝か」


 エイレナはそう言うと、何を思ったか、気まずそうに唇を歪めた。


「彼はわたしを怒っているだろうな。ヤンクログの件について、少しも耳を貸そうとしなかったから」


「どうかな。最後に話をした時、彼はあなたを恨んでいるようには見えなかったがな」


 クロトールは今日の朝の出来事を思い出しながら、穏やかに答えた。



***



「クロトール、これを持っていけ」


 早朝、日差しに背を向けて現れた長老は、体が隠れるほどの巨大な籠を抱えていた。彼が難儀そうに運んできた籠の中には、加工済みの食料や平たい刀身の刃、山羊の角笛などが入っていた。


「これらをやろう。食料については説明しなくていいな。では次だ。この長い刀は、足元の下草を刈るのに使う。そしてこの角笛は、仲間への合図に使える」


「合図? これを森の中で吹いたら、味方より先に敵に気づかれるんじゃないか?」


 クロトールが疑問を口にすると、長老は束の間、悲しげな笑みを浮かべた。


「今の時代はそうかもな。昔は事あるごとに鳴らしていたものだ。あの頃は家族が大勢いたし、我々とは別の放浪民もたくさんいた」


 彼はしばらくの間、遠くを見るような目をしていたが、やがて首を振って、頭の中にある何かを追い出した。


「とにかく持っていけ。我々には予備の笛があるし、今後役立つ機会があるかもしれんからな。それと——」


 長老はそこでいったん言葉を切ると、やや上目遣いにクロトールを見た。何となくだが、その目つきからはあまり良い予感がしなかった。


「一つ頼みがあるのだ、クロトール。エイレナを説得して、ヤンクログを殺すのをやめさせてくれないか?」


 やはりそう来たか、とクロトールは思った。この話題については互いに触れないまま別れたかったが、向こうが口にした以上は仕方がない。


「それは難しいな。私はエイレナに色々と借りがあって、多くを頼めない立場だ。それに見たところ、彼女の意志は相当固いようだ」


「ああ、あの女はどこまでも頑固だからな」


 長老は苦笑交じりに述べた。彼はエイレナの芯の強さを認めつつも、その強情さにあきれているのだ。


「無理強いはせん。ただ、それでも最善を尽くすと約束してくれ、クロトール。ヤンクログは元々人づき合いを好まぬ神だが、それでも彼がいなくなるのは寂しいんだ」


 クロトールはどう答えるべきか悩んだ。長老の言う“最善”とは、エイレナとヤンクログが手を携え、ともに歩む未来のことなのか。そんな未来が実現するとは到底思えないし、それに——


「正直、それは厳しい要求だ。私はヤンクログと個人的な因縁がある。奴は私の仲間を殺し、私さえも殺そうとした。そのような相手を助けろとあなたは言うのか?」


 すると、長老は両目を大きく見開き、恐ろしいものを見るような目つきでクロトールを凝視した。驚くのも無理はない。彼はこちらが抱える事情を、一切知らなかったのだから。


 やがて長老は消え入りそうな声で、次のように言った。


「すまない。許してくれ。思ってもみなかった。あんたとヤンクログが、そんな関係だったなんて」


「怒ってはいないさ。わざとじゃないのは分かっている」


 クロトールは、長老から見て分かるように微笑んでみせた。


「できることなら、私も平和的に終わらせたいと思っている。あのダイアウルフが心を入れ替えることがあれば、あるいは——しかし、結末は神のみぞ知るだ」


 未来のことは皆目見当がつかない。ヤンクログの蛮行を止められるかどうか。異端者のノガタスを捕らえ、ドラゴンを仕留めることができるのか——全てが不確かな状況だ。未知の領域が広がる<黒鉛の森林>の東側で、この先何が起こるかなど、誰に想像できようか。


「確かに、どんな結果になるかなんて、誰にも分からないよな」


 長老は誰に言うともなくつぶやくと、右手を差し出してクロトールに握手を求めた。長年放浪民として生きてきた彼の手は、まな板のように分厚く、平べったかった。


「さっきの話は忘れてくれ。あんたが言ったように、ヤンクログの運命は彼自身が決めることだ。色々とありがとう、クロトール。あんたはいい奴だ。全ての帝国人が、あんたのようであればいいんだが」


「それはさすがに買いかぶり過ぎだ」


 クロトールははにかんだ笑みを浮かべると、長老の右手を強く握り返した。


「こちらこそ有意義な時間をありがとう、長老。体には気をつけてな」



***



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