8-2:影の神エルゲオン
洞窟の入り口へ向かう途中、馬のファリオンがいななき、しきりに首を振り始めた。いったいどうしたのだろう、とクロトールが訝しんでいると、一行の先頭を歩いていたミアが突然、足を止めた。
「この場所は何だかおかしいですね」
彼女は洞窟の辺りの空気を嗅いで言った。
「洞窟から流れる空気から、変な臭いがしませんか?」
「どれどれ」
ミアに続いて臭いを嗅いだフェリックスは、険しい顔をして後ずさった。彼の狩人としての鼻は、洞窟に潜む危険をすぐさま嗅ぎ取ったようだ。
「これは血の臭いだな。それに、獣と汗の臭いが混じってる」
「どういうことだ? 放浪民の長老は、洞窟の中が血生臭いなんて一言も言わなかったぞ」
エイレナが懸念に眉を寄せた。嫌な予感を覚えたクロトールは、腰に提げた<誇り>の鞘に手をかけたが、剣自体は抜かなかった。洞窟にいるであろうエルゲオンの機嫌を、抜き身をさらすことで刺激したくなかったからだ。
「この先で厄介なことが起きているのかもしれない。行って確かめてみるか?」
「あんたは面倒事に首を突っ込むのが好きだな、爺さん。いつもそんな風じゃ、命がいくつあっても足りないぞ」
あきれ顔で反応したフェリックスだったが、その手は弓柄をしっかりと握っていた。彼もまた、危険に飛び込む気でいるようだ。
「どうする、エイレナ? いったん引き返すか? それとも——」
「行こう。どのみち我々は、他に道を知らないのだから」
エイレナははっきりと答えた。
「仮に血を流しているのがエルゲオンであれば、我々が行くことで助けられるかもしれない。ミア、松明を持って先導してくれ」
洞窟の中に入ると、臭いがはっきり認識できるほどに強まった。ミアの掲げる松明の炎が、垂れ下がる木の根や内部の足場を照らす。
「右の壁を伝っていけば出口に着く」という放浪民の長老の言葉を信じ、一行は常に通路の右側を歩いた。道の左側の茫漠とした暗闇からは、強烈な冷気が吹き上がってくる。興味本位で近づくのはやめた方がいいだろう。最悪の場合、足を踏み外して奈落に真っ逆さまだ。
「お前の馬は、ここの不穏さを敏感に感じ取っているようだな」
クロトールが洞窟の構造に気を取られていた最中、エイレナが意味ありげにつぶやいた。馬のファリオンは奥に進むにつれて歩行をためらいがちになり、鼻を鳴らす頻度も増えていった。
「そしてかなり怯えている。気立てのいい馬をこれ以上進ませるのは、酷かもしれないな」
「まさか、ファリオンを置いていけというのか?」
クロトールは、思わずエイレナに食ってかかった。その際、感情が高ぶったせいで、はからずも声が大きくなってしまった。
「それは無理だ。ファリオンは同僚から譲り受けた馬で、名前もその人から取ったんだ。易々と手放すことはできない」
「だったら、その馬をどうにかして黙らせてくれ」
フェリックスが声を殺してささやいた。
「この先に敵がいるかもしれないだろ? 松明の明かりは消せるけど、馬はそうもいかない。何とかしてくれ、爺さん」
クロトールは思いつく限りのことを試した。首筋をなでたり、餌をちらつかせたり、洞窟の悪臭の代わりにミアの集めたハーブを嗅がせたり。だが、ファリオンは何をやっても落ち着かず、聞き分けのない子供のように頑なだった。
いよいよ降参の二文字が頭をよぎったが、その時、先頭を歩いていたミアが声を上げて立ち止まった。
「これは——」
彼女の視線の先には、手の平ほどの大きさの血だまりがあった。まだ乾ききっていない鮮血で、地面には同じような赤い点がいくつも散らばっている。おそらく洞窟の悪臭の原因はこれだろう。そしてこれらを一つ一つたどっていけば、最終的には異変の大元にたどり着く。
クロトールがそんな風に考えていると、突然、暗闇から聞き覚えのない男の声がした。
「そこを動かないでくれ。あなた方は何者だ?」




