4-3:審問官と魔女
そこまで言うと、エイレナは床に描かれた草紅葉色の狼を凝視した。その狼は、傍らのヤンクログと対となるように、さながら兄弟のように描かれていた。
「ヤンクログが破滅的な行動を続けるのには、きっと理由があるのだろうな。我々は殺戮をやめるよう何度も説得したが、いずれも徒労に終わった。気は進まないが、いよいよ武力による解決を考える時だ。ヤンクログは死ななければならない。それもできるだけ早いうちに」
「いきなり物騒な話だな。まあ、奴の悪行を考えれば当然のことだが」
クロトールは両肩をいからせて反応した。
「しかし、あなたはさっき言ったはずだ。<永遠の夜明け>の役割は、神々を守ることだと。そしてあの狼も、神々の一員なのだろう? 神殿の中にこれだけ丁寧に描かれているのだから。あなたは奴を守らなくていいのか?」
「我々が守る対象は、同盟を組んだ神だけだ」
答えるエイレナの口調は淡々としていた。
「ヤンクログは、我々<永遠の夜明け>を信用せず、契約を結ぼうとしないのだ。彼にとって我々は、帝国人同様によそ者に見えるらしい。まったく、愚かな狼だ。人も神も、独りでは死ぬだけだというのに」
クロトールは、再び床の絵画に目を向けた。誰にも頼らず戦い続ける孤独な狼。それがヤンクログの正体ということか。一人でも多くの帝国人を殺し、文明の夜明けを阻むこと。それが奴の目的であり、個人的な復讐でもあるのだ。
理解できない動機ではない。だが、奴が復讐を大義に掲げるのなら、こちらも同じように考えるまでだ。あのダイアウルフはファリオンとロナスを殺した。悔い改めることなく同じ罪を犯すなら、奴はエイレナの言う通り死ななければならない。
「ヤンクログが死ぬべきという意見には賛成だ。しかし、この話を審問官の私に聞かせる理由は何だ?」
「鋭い質問だな、クロトール。実を言うと、我々<永遠の夜明け>は、外部の助けを必要としているのだ」
エイレナは真剣な表情で述べた。
「帝国の人間から見れば、<永遠の夜明け>はまさしく異端者の集団だ。そんなわたしたちにとって、帝国の支配地域を移動するのは簡単なことではない。我々はみすみす捕まるような人間ではないが、それでも面倒事は避けたいのだ」
「なるほど。つまり、その”面倒事”を避けるために、私が必要なわけだな。具体的に何をして欲しいんだ?」
「交渉だな。我々は帝国人の前に極力姿をさらしたくない。だから、彼らの集落で聞き込みが必要になった時は、代役を頼みたいのだ。あなたなら誰にも怪しまれないだろうから。どうだ、引き受けてくれるか?」
要求に応えるべきか否か、クロトールは悩んだ。自分の仕事は、エイレナのような異端者を捕らえることで、狼退治は専門外だ。そもそも、審問官が異端者と協力すること自体が異端だ。両者は本来敵同士、狩って狩られる関係にある。それが互いに手を取り合い、一緒になって狩りをする? 他の者たちがこれを聞いたら、どんな顔をするだろうか。
一方で、帝国人を襲うヤンクログには対処が必要だし、仲間を殺された因縁もある。それに何より、<永遠の夜明け>は自分の命の恩人で、傷の手当てまでしてくれた。
やがてクロトールは答えた。
「分かった、引き受けよう。私は今日からあなたの目となり、耳となる。それがあなた方への恩返しになるのであれば」
「ありがとう。助けた男がお前でよかった。湖の貴婦人は正しい者を選んだな」
エイレナが色白な顔に微笑を浮かべて言った。彼女は思いのほか笑う人だが、今のは単なる形式上の笑顔ではなさそうだ、とクロトールは感じた。
「期待に応えられるとは限らんぞ。それで、出発はいつになるんだ? 今日明日というなら、怪我の痛みが心配になるが」
「安心しろ。お前の具合が良くなるまで、もう数日は待つつもりだ」
とエイレナは請け負った。
「さて、そろそろ部屋へ戻ろうか。フェリックスとミアが狩りから戻ってくる頃だ」
部屋を後にする直前、クロトールは一度だけ振り返り、この先も残るか分からない古代の絵画を目に焼きつけた。それから部屋を去ると、先ほどと同じ通路を歩きながら、エイレナに対して次のように言った。
「不思議なものだ。我々は本来敵同士なのに、今は肩を並べて歩いている。私の人生は味方より敵が多かった。仕事をこなすうちに誰かに恨まれ、孤立していった。今のヤンクログのようにな。この協力関係がどのような結末をもたらすかは分からないが、上手くいくよう祈っている」
「後悔はさせないさ、審問官」
エイレナはクロトールを見やると、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「この出会いは素晴らしいものになると約束する。決してがっかりさせないとも」
***
部屋に戻る途中、ある変化に気づいた。外から入ってくる風の中に、煙とハーブの匂いが混じっている。ミアがいつものように食事を作っているのだ、とクロトールは思った。ミアはお世辞にも愛想が良くないが、料理の腕は確かで、治療中は何度も世話になった。薬草入りのお粥や、レモングラスをまぶした野兎の丸焼きなどは、今でも風味をありありと思い出すことができる。
「どうやら、ミアとフェリックスは大物を捕らえたようだな」
エイレナが辺りに漂う匂いを嗅いで、嬉しそうに言った。
「分かるか? 動物の肉をハーブと一緒に焼いている匂いだ。今夜はごちそうだな。楽しみにしているといい」
「その食事会に、私も加わっていいのか?」
仲間外れにされる心配はなさそうだったが、念のため尋ねた。するとエイレナはあきれた風に笑い、匂いのする方向へさりげなくクロトールを誘った。
「これほどいい匂いがする中で、何も食べずに寝るつもりか? さあ、行くぞ。我々はすでに友人だから、密猟に関してとやかく言うつもりはないだろう?」
二人は神殿の大広間を抜けて、樹木あふれかえる屋外に出た。焼ける匂いを頼りに進んでいくと、土窯から吹き出る煙を眺めるミアとフェリックスに出くわした。
「今日の獲物は牡鹿だ。長いこと草むらに身を隠して、心臓を射抜いたんだ」
二人の接近に気づいたフェリックスが、身振りや手振りを交えながら狩りの成果を報告した。
「今は土窯で蒸し焼きにしてる。腹の中にハーブをかなり入れたから、良い味がするはずだ」
「完成までの時間は?」
エイレナが尋ねると、フェリックスは少し考えてから、
「冷ます手間を考えると、一時間はかかるかな」
と答えた。
「空腹にこの匂いは堪えるだろうが、我慢してくれ。生焼けは嫌だろう? 俺が狩りにかけた時間に比べれば、完成まではあっという間さ。獲物を捕まえるのは簡単じゃない。実際にやってみれば、きっと驚くぞ」
フェリックスはぺらぺら喋り続けたが、その最中、ミアが不意に立ち上がり、エイレナに向かって次のように尋ねた。
「マスター、薬草の在庫が不十分なので、今から補充しに行ってもいいですか? 今度の旅は長くなると聞いたので、数をそろえておきたいんです」
ミアがエイレナを“マスター”と呼ぶことについて、クロトールは前から気になっていた。二人は師弟関係なのか。それにしては歳が近すぎる気がするが、そう感じるのは自分だけなのだろうか。
「いいだろう。ただし道中は用心するように。近くに敵が潜んでいるかもしれないからな」
エイレナから許可をもらうと、ミアは人間にしては恐るべき速さで駆け出し、森の中へ消えた。やはりあの娘は——ミアが消えた方向を見ながらクロトールは思った。あの娘はどこかおかしい。冷たい視線、愛嬌のなさ、男を軽々担ぐ腕力に、尋常ではない足の速さ。一見すると何の変哲もない女だが、どうも不審な点が多すぎる。
「どうかしたのか、爺さん? まさかミアに気があるのか?」
クロトールの顔つきが気になったのか、フェリックスがのぞき込むように聞いてきた。
「いや、そうじゃない」
かぶりを振って否定したクロトールは、咳払いをした後、続けた。
「本人がいない時にあれこれ言うのは気が引けるが、どうしても聞きたいことがある。ミアは——彼女は本当に人間なのか?」




