第20章 炎と影
大きくなぎ払われた狂戦士の剣を、ディーダは後方宙返りで躱したが、
「――うわっと」
目測を見誤り、屋上の縁のすぐそばに着地してしまった。ディーダはバランスを取り、危ういところで落下を免れた。
「気をつけろ」とヴォルトレイドは、「ただでさえ夜中で視界が効かないんだ。やたらに動き回って、落ちでもしたら洒落にならねえ」
「うん」
二人と狂戦士との戦場となっている屋上には壁や柵の類いはなく、外周に沿って高さ約一フィート(三十センチ)程度の段差が設けられているだけだった。下手に動き回っては、彼の言うとおり三階建て屋上の高さから地上に転落してしまいかねない。
狂戦士は、主にヴォルトレイドが相手をしていた。ディーダの武器である短剣では、敵の持つ長剣とリーチに差がありすぎ、まともに斬り合うことすら至難の業だ。が、ディーダは狙っていた。狂戦士の攻撃が完全にヴォルトレイドに集中する瞬間――すなわち、自分の存在が敵の意識から消える瞬間を。
ヴォルトレイドの小剣が肩口に叩き込まれ、狂戦士は不快そうな唸り声とともに、長剣でそれを弾き飛ばし――その瞬間が来た。針が落ちるほどの音も立てず、ディーダは狂戦士の背後から、流れるようにその懐へと滑り込んだ。隠密行動に特化した盗賊や斥候の身体能力を戦闘に活かした特殊技能“背後刺撃”。屈み込んだディーダの視線のすぐ先、鎧と鎧の隙間、そこ目がけてディーダは、順手に持ち替えた短剣を突き込んだ。手応えで、肋骨の間から肺を串刺しにしたことが確信できた。彼女の、この“背後刺撃”を受けて戦闘不能に陥らなかった相手はひとりもいなかった――この夜までは。
自分の腋を覗き込むようにしてきた狂戦士の紅い目が、ディーダを見据える。
「――えっ?」
鍔が鎧に接触するほどに深く突き刺した短剣の柄を握ったまま、ディーダは呆然と、敵と視線を合わせた。
「ああっ!」
大きく振られた狂戦士の左腕をまともに受け、ディーダは弾き飛ばされる。
その動きが、今度はヴォルトレイドに対して隙を作った。背中を向けた敵に小剣を突き刺す。鎧の隙間を縫い、切っ先が腹部を貫通した。狂戦士の腹部から背中にかけては、先にストラグルの攻撃による長剣が未だ貫いたまま、左腋にはディーダの短剣が深々と突き立ち、首は前後から二本の矢が串刺しにしている。そこへ、新たにヴォルトレイドの小剣が背中から腹部へと抜けた――が、それでも狂戦士の動きは止まらなかった。ディーダをなぎ飛ばした反動のまま横殴りに剣を振る――瞬時に飛び退いていなければ致命傷になっていただろう。狂戦士の剣に胸部鎧を抉られ、ヴォルトレイドは胸から鮮血をほとばしらせて屋上に転がった。
ディーダも、ヴォルトレイドも、すぐには立ち上がれぬほどの痛手を負った。狂戦士は、――どちらを先に片付けるか? と値踏みをするように盗賊と戦士を交互に見やる。……標的が決まったらしい。狂戦士が一歩、踏み出したところに、
「リッジレイ!」
女性の声が響き、振り向いた狂戦士は、真っ赤な目を見開いた。約三十フィート(九メートル)程先に、ひとりの――黒髪の――女性の姿があった。
唸り声を漏らした狂戦士は、握りつぶしてしまうのではないか、という程に剣の柄を強く握りしめると、一直線にその女性めがけて走る。剣が振りかぶられる。女性まで残り数フィートと迫った狂戦士は、屋上の床を蹴り、跳躍し、そして――消えた。
女性の下で鈍い音が聞こえた。屋上の縁を飛び越えて墜落した狂戦士が、石畳の地面に激突した音だった。屋上と同じ高さに浮かんでいる女性は、エリィだった。アルサスの魔法“空中浮揚”の作用によるものだ。赤かった彼女の髪は今、灰をなでつけられたことによって黒く染まっていた。エリィの真下に立つアルサスが呪文の詠唱を始めると、エリィの体は、ゆっくりと降下していく。
地上に降りたエリィは、アルサスのもとに駆け寄り、
「死んだ……のか?」
貼り付いたように地面に伏臥し、ぴくりとも動かない狂戦士を見下ろした。
「あの高さから落ちたんだ。たぶん……」
アルサスは、その生死を確かめようと恐る恐る近づいていく。――そこに、両手を突いて狂戦士が顔を上げた。喉の奥から咆哮が唸り出される。
「うわぁっ――!」
狂戦士が跳びかかるよりも、走り込んできたストラグルが剣を振るうほうが早かった。狂戦士の首が、血の尾を引いて宙に舞った。首から上を失っても、なお立ち上がった狂戦士は剣を振りかぶり、数歩進んだのちに倒れ、今度こそ完全に動かなくなった。
「馬鹿……油断すんな……」
ストラグルは小剣――緒戦に彼自身が投擲したもの――を投げ捨てると、その場に倒れた。腹部の傷からじわじわと血が滲みだし、石畳を染めていく。
「ストラグル! 助かったよ」
「れ、礼はいいから……痛てて……」
「わ、分かってる!」
エリィは傷口に手をあて、外傷治癒を唱え始めた。
「エリィ、こっちも……」
建物玄関から、ヴォルトレイドに肩を貸したディーダが出てきた。
「ああ、そこへ寝かせてくれ」
アルサスの助けも得て、ヴォルトレイドはストラグルの隣に並べられた。
外傷治癒の淡い光が戦士の傷を癒やす中、蹄が石畳を叩く音が近づいてきた。警備騎士団の騎士たちだった。
「おいおい……」その先頭を疾駆するマックが、「これは、いったい――」
路上の首なし死体を目にすると、「うっ……」と一瞬、息を詰まらせ、
「た……隊長?」
その死体が騎士団の――白いラインの入った隊長専用の――鎧を着ていること、さらに、近くに転がる首を見て取ると、馬の速度を上げて近づいてきた。
「面倒なことになりそうだ……」
治癒魔法で傷を塞がれ、ゆっくりと起き上がったストラグルは頭をかいた。
ベッケニアを恐怖の底に陥れた狂戦士の正体は、騎士団長リッジレイだった。その事実は団員たちを激しく動揺させた。とはいえ、死体からそれが狂戦士化したという証拠が出るわけではない。ストラグルが危惧したとおり、マックをはじめとした数名の騎士たちは、エリィたちが我らの団長を――無残にも全身を串刺しにしたうえ、首をはねて――殺害したのだと、跳びかからんばかりに罵声と怒号を浴びせた。が、共同住宅の住人たちの証言と、さらに、近くで重傷を負ったひとりの騎士が保護されたことで、真実は明らかになった。
その騎士は、リッジレイとの二人組で警邏をしていた。しかし、突如、リッジレイが――黒髪の女性とその恋人が体を寄せ合ったところを目撃した直後――剣を抜き、女性に向かって走り出したのだという。その様子にただならぬものを感じとった騎士は、リッジレイを止めようとしたのだが、問答無用で斬り伏せられてしまったのだった。そのときに見た騎士団長の目は、狂気を宿したかのように紅く染まっていたという。
騎士団専属の僧侶の力も借りて傷を癒やしたエリィたちは、騎士団詰所に併設された宿舎に泊めてもらうことになった。「せっかく払った宿代がもったいない」と、ストラグルとヴォルトレイドは宿へ戻ることにこだわったが、エリィの「宿よりも宿舎のほうがずっと近いし、宿はこんな夜更けに入れてくれない」という説得に渋々従った。
起床して、風呂を浴び、朝食をいただくと、エリィたちは礼を述べて騎士団詰所をあとにした。狂戦士事件が解決したとはいえ、騎士たちの――とりわけマックの――顔色は優れなかった。
詰所を辞したエリィたちは、マックに案内を頼み、街の墓地を訪れた。狂戦士の凶刃により命を奪われたすべての被害者と、リッジレイと、そして――もしも、リッジレイが狂戦士と化してしまった切っ掛けに、まだ誰にも知られていない犠牲があったのだとしたら、その魂も救われますように、と聖印を握り、エリィは祈りを捧げた。ストラグルたち、そしてマックも、そっとまぶたを閉じた。
「これから、ベッケニア騎士団はどうなるんだろう」
宿に戻る道を歩きながら、エリィが呟いた。
「どうなるもならんもないさ」とヴォルトレイドは、「これからも、自らの務めを果たしていくしかない。狂戦士の脅威は去ったが、彼らの仕事がそれで終わるわけじゃないからな」
「……そうだな」エリィは寂しく微笑むと、「それにしても、アルサスくんの作戦には助けられたよ」
並んで歩く少年を見た。
「ああ」とヴォルトレイドも、「力押しだけで勝てる相手じゃなかった。あのままじゃ下手すりゃ――いや、間違いなく俺たちは全滅してたぜ」
そう言うと、アルサスの金髪の頭に、ぽんと手を乗せた。その手を振り払うと、アルサスは、
「あのとき僕が憶えていた魔法は空中浮揚だけで、ヴォルトレイド……さんが、狂戦士を屋上に追い込んでくれていたから、それで思いついたんだ。上手くいってよかった。あの屋上に背の高い柵があったら、狂戦士も誘いに乗ってきたか分からないし……いろんな偶然が味方しただけさ。運が良かったんだよ」
「戦いなんて、そんなもんさ」
ストラグルも笑みを浮かべた。
「話は変わるが」とエリィは、「私は“魔法”って初めて体験したんだが――もちろん、我々僧侶の使う神聖魔法は別として――凄いものだな。アルサスくんが呪文を唱えて、複雑に手と指を動かしたかと思ったら、足が地面を離れていって……。あんな感覚を味わったのは初めてだ」
興奮した口ぶりで話した。
「ねえねえ、今度、私にもやって……」
ディーダから、期待に満ちた爛々と光る目を向けられて、
「遊びじゃないって……」
アルサスは、ため息をついた。
「俺も、朦朧とした意識の中で見てたけど、確かにあれは凄いもんだ」
ストラグルも感心して頷いた。
「空中浮揚なんて、魔法の中じゃ初歩だよ」
「あれで初歩!」アルサスのその言葉に、エリィは感嘆して、「それじゃあ、王宮魔導師長まで務めたダンバルフ老の使う魔法っていったら、それはもう凄いものなんだろうな……」
「それはもう。魔法ってのは、つまり“知識”だからね。魔法使いの力量は――ある程度才能もあるだろうけど――勉強量に比例する。魔法使いの優劣は、どれだけ多くの呪文を憶えて、さらに、それをいかに速く正確に唱えられるかにかかってるんだ」
「その、『魔法が知識』っていうのが、私にはいまひとつ分からないんだが……」
首を傾げたエリィに、アルサスは、
「じゃあ、めちゃ単純な話をしよう……。箱の中に、金貨が十枚入っている。そこから六枚取り出すと、箱の中に金貨は何枚残ってる?」
「そりゃ……四枚に決まってる」
「正解。でもさ、エリィさんには、“引き算”という知識があるから、答えが導き出せたわけだ。これがもし、引き算を知らない、あるいは計算という概念のない人や種族に、同じ問題を出して、箱の中に残っている金貨の枚数を当てて見せたとしたら、どうなるだろう。見もしないのに、箱の中に残った金貨の数を知ったことに対して驚異に感じるじゃないかな。『まるで“魔法”だ』なんて」
「はあん……」
いちおうエリィは頷いたが、
「……さっぱり分からねえ」
隣で聞いていたストラグルは首を傾げた。それを見たアルサスは、
「えっ? あんた、引き算が分かんないの?」
「そういうことじゃねえよ! てめえ、舐めてんのか?」
「やめろ」
アルサスに跳びかかろうとしたストラグルを、エリィが止める。
「つ、つまりさ……」ストラグルの剣幕から逃れながら、アルサスは、「それと同じようなことだよ。唱えることによって、人や物を宙に浮かせることのできる呪文――正確を期せば、手や指の動きといった所作も必要になるんだけど――ってのがある。それを知っている人、さらに、その呪文を正確に、淀みなく唱えることの出来る人を、“魔法使い”って呼ぶわけ」
「それじゃあ」とストラグルが、「その、呪文ってのさえ丸暗記できれば、誰でも――この俺でも魔法は使えるようになるってわけか?」
「理屈のうえではそうだけど、実際はそう簡単じゃない。魔法を作用させるための条件ていうのは、状況によってまちまちだ。さっきの計算を例に取れば、“引き算を計算する”という同じ結果を求められても、そのときどきで出される問題が違ってくるような感じかな。だから、呪文の丸暗記は大前提として、応用力も求められてくるんだよ。それも含めた勉強をしようってなると、それこそ剣の訓練をしたり、体を鍛えたりする時間を犠牲にしないと、とても務まらないと思う」
「そうなったらもう、“戦士”じゃなくて“魔法使い”になっちまうってことか」
「まあ、そもそも」とヴォルトレイドが入ってきて、「お前に呪文が暗記できるとは到底思えないけどな」
「なにコラ」
「やんのかコラ」
「なるほど」エリィは、にらみ合いを始めた二人をよそに、感心した表情で、「頭が良くなくては魔法使いは務まらない、っていうのが、よく分かったよ」
「ねえねえ……」と、またもディーダがアルサスの裾を引き、「百五って、十五の何倍?」
「え? ……七倍、だけど?」
「おおー」
ディーダは胸の前で小さく手を打ち合わせると、得意げな顔をストラグルに向ける。
「なんだよ。何で、お前が『どうだ!』みたいな顔してんだよ……」
ストラグルは呆れ顔を返した。
宿に到着し、馬を引き取ったエリィたちは(「泊まっていないんだから前払いの宿泊費を返してもらいたい」とストラグルとヴォルトレイドは宿の主人に交渉を切り出したが、にべもなく一蹴されてしまっていた)、ダンバルフの屋敷を目指した。“空中浮揚”で持ち帰る予定だったアルサスの買い物は、ストラグルの馬に乗せられており、アルサス自身もヴォルトレイドの馬に同乗していた。
閉鎖が解かれた城門を抜け、街道を進む途中で、一行はダンバルフの屋敷へと続く脇道へと折れた。
「爺さんに頼んでいた解読も、もう終わってるだろうな」
「ああ、昼に訪れる約束だったからな。何が書いてあるんだろうな」
ダンバルフのもとに残してきた書簡のことを、ストラグルとヴォルトレイドが話題にした。アルサスは表情をしかめ――特にストラグルがダンバルフのことを「爺さん」と呼んだときに――はあ、とため息をついた。
「そういえば、アルサスくん」とエリィが、「昨日は、急に城門が閉鎖されて帰れなくなってしまったから、ダンバルフ老は随分と心配されているのでは?」
「ああ、それなら問題ないよ。これまでも、買い物に時間を取られて城門内に宿泊することは何回かあったから。師匠がそう言うんだ。街に出て帰りが暗い時分なるようなら、危険だからそのまま泊まってこい、って」
「そうですか、大事に想われているんですね、アルサスくんは」
「そ、そんなんじゃ……ないと思うけど――」
アルサスがそこまで言ったとき――凄まじい轟音が響き、森の木々を震わせた。鳥たちが一斉に飛び立つ。何事が起きたのか? と皆が周囲を見回す中、
「――あれ!」
ディーダが前方を指さした。森の木々を超えた向こうに、ひと筋の黒煙が立ち上り始めた。
「何だ……?」
「この道の先には、師匠の屋敷しかない……」
エリィとアルサスは、呆然と煙りを見上げた。
「急ごう!」
ストラグルは手綱を引き馬速を上げた。ヴォルトレイドも、「先に行く!」と同乗させていたアルサスを掴み降ろし、ストラグルに続いた。馬術の腕は二人に譲るエリィは、アルサスを拾い、数馬身遅れてあとを追った。
走るうち、ごうごうと炎の燃えさかる音、焼けた木材が爆ぜる音が聞こえるようになり、頬を撫でる空気もその温度を増してきた。ストラグルとヴォルトレイドは同時に道を抜け、屋敷が建つ土地に出ると、そこには、
「おいおい……」
「これは……」
二人が目にしたのは、無残な姿となったダンバルフの屋敷だった。建物の左半分はほぼ失われており、そこかしこに火がくすぶり、黒煙を上げている。宙を舞う火の粉の中に、破れて焦げた本の紙片があり、未だ土埃も舞っていることが、この破壊が行われてまだ間もないことを教えていた。
「……誰かいるぞ」
「ああ……」
ストラグルは長剣を抜き、ヴォルトレイドは長弓を構えて矢をつがえた。壁が崩壊し露出した屋敷の中、煙と土煙に透かしておぼろ、何者かの影がうごめいていた。
「……爺さんじゃあ、ねえな」
その影を見やり、ストラグルが呟いた。
「ああ。だが……魔法使いらしいぞ」
ヴォルトレイドの言葉どおり、うごめく影は、ローブを着て片手に杖を持っていた。二人がそのシルエットをダンバルフではない、と断言したのは、その影が放つ禍々しい敵意、邪気を感じ取ったためだった。
影が――杖を振るった。
次回、休む間もなく、新たな難敵との戦いが。
「第21章 遙かな暗雲」




