39 中学三年卒業間際・藤沖勲と轟琴音の会話
その39 中学三年・卒業間際・藤沖勲と轟琴音の会話
やはり難波はすごい勢いで教室を飛び出していった。
──どこへ行くんだ。
誰もがわかっているので、誰も何も言わない。
女子評議の轟がぼそっとつぶやく。
「さて、どれから片付けていこうかな」
出っ歯からしゅうしゅう音をさせつつ、「評議委員会ノート」を開いた。
「悪いけど藤沖くん、手伝ってくれないかな」
「難波の代わりか」
「そういうこと」
あっさり認めて轟は、俺にメモを一枚渡した。
「やはりね、女子一人で片付けるというのはいろいろと面倒なのよ」
「女子同士で片付ければいいことじゃないか」
「そんなこと、できるわけないじゃないの」
轟は冷静に交わすと、俺に視線で「早くして」と訴えた。
残念ながら色っぽさはまったくない相手だし、それはそれで仕方ない。
それにこの女子、普通の女子連中よりも仕事ができる。頭も切れる。噂によると法学部進学を志望し、司法試験を夢見ているという話だとか。直接話を聞いたことはないが、かなり賢い女子であることには変わりない。
俺はかばんとリュックを背負い、教室を出た。轟が歩いていくのはどうも、コピー室のようである。こ の時期下級生がかなり使用しているはずだが、何かコピーを大量にやる必要でもあるのだろうか。
コピー室はガラガラだった。
「ああ、そうね。今日は一年と二年、みんな英語の検定試験受けているはずよ」
「なんだそれは」
俺は受けたことがない。轟もないはずだ。
「今年から青大附属内限定の英語試験があるらしいわよ。私たちは抜き打ちで明日」
「抜き打ちだと?」
俺は聞いたことがない。なぜ轟が知っている。
「たぶん、英語科へ今から進みたい人のために、準備試験をするんじゃないの」
「よくわからんが、そうなのか」
あまりわけのわからないことはつっこまないでおくのがよい。
「そうね、それはそうと藤沖くん、今日は二点ほど、頼みがあってね」
「いきなりなんだ」
轟がこういう頼みごとをする場合考えられるのは、まず三年B組の裏事情が絡んでいることだろう。深海魚に近い顔立ちだが、男子たちに受けはよい。だがそのこと自体を轟はしつこいほど隠そうとしている。その辺が女子たちとの問題なのだろう。特に女子連中が目をつけている男子には注意深く近寄ろうとしない。必然、轟が話し掛けるのは女子人気の低い男子であり、また委員会関連でつながりのある難波であり、また元生徒会長である俺だろう。つまり、女子人気の高い野郎に頼みごとがある場合は、つながりのある男子に話を持っていくのが轟流だ。さすがに頭のいい奴の考えることは違う。
「まず一点目、難波くんのことなんだけどさ」
机の上にそのまま座り、、足をぶらぶらさせながら轟は俺に小首をかしげた。
「事情はよくわかってるよね。好きなようにさせてやってもらえないかな。放置してやってほしいんだけどね」
「まあしょうがないだろう」
「その代わりといってはなんだけど、藤沖くんに臨時で手伝ってほしいんだ。あと二週間くらいだしね」
「しょうがないがな」
たいして手伝うようなこともないが。いくら難波があの調子だとしても、卒業式予行練習および本番に顔を出さないなんてことはない。せいぜい、卒業式後の打ち上げクラス会の準備を行う程度だろう。
「それともうひとつなんだけどね。藤沖くん、ごめん、申し訳なかった。謝る」
「何をだ」
そこまで言って、すぐに合点が行った。
一年の夏に頼み込んだことがある。とっくの昔に時効となっているはずだ。轟が謝る必要などない。「関係ない、あれは言葉の綾だ」
「約束は私、守るつもりでいたんだけど、状況がああなってしまった以上、私もごり押しできない。ごめん」
もう一度轟は、立ち上がって頭を深く下げた。
──藤沖くん、悪いんだけどさ、C組の霧島さんにこの書類届けてくれないかな。
轟が俺にやたらと声をかけるようになったのは気がついていた。当時の俺は生徒会に立候補すべきかどか迷っていた。
きっかけは、一年後半に担任から、
「このままだと二年以降お前が評議委員に推される可能性が高い。もちろんやる気があるならそれはいい 。だが、流れを考えると難波にこのままやらせてやりたい気持ちもある。藤沖、ここは男として、生徒会 役員に身を投じてもらえないか」
言われたことだった。次の年にはなんとしても応援団を設立させたいあまり、学校祭に力を入れすぎた のがまずかったらしい。B組の後期評議に間一髪選ばれてしまうところだったのも、担任には危機感があ ったのだろう。一度委員に任命された以上、よっぽどの理由がない限り換えてはならないという、暗黙の 了解があり、それゆえに俺も認めざるを得なかった。このままだと難波が落とされるという最大の屈辱を 受けるはめとなる。それを避けるための行動ならば、わからなくもない。
轟がその時何を考えていたかはわからない。ただ、俺になりゆきで近づいてきて、
──たぶん、生徒会役員だったらかならず評議委員会とからむことになるから、私としては助かるんだ よね。
などと、いかにも生徒会役員を勧めるようなことを耳打ちしてきた。
──難波くんとは関係ない形でだから大丈夫だよ。
もともと俺は、難波とそれほど話す機会がなかった。単純に言ってしまうと、相性が合わなかった。やたらと自分の雑学を自慢したがる難波と、経験で判断を下す俺とでは、テリトリーが違う。それもあってクラス内ではグループも別だった。もっとも生徒会長になってからはそんなことも言ってられずいろいろと話をするようはなったが、おそらく轟よりは会話数も少ないだろう。
轟はしばらくどうでもいい話をしつづけていたが、やがて、
──ちょっとC組に連絡入れる時、藤沖くんに頼みたいんだよね。難波くんだとどうも、ちょっとトラブルがおきやすいんだ。
あいまいなことを言い出した。理由はそれほど突っ込む気もなかった。
C組の女子評議とはしょっちゅう顔を合わせることも多くなっていた。
無難なやりとりしかしなかった。
ただ、それだけのはずだった。
轟はしばらく無言で俺に頭を下げつづけた。
「言い訳をするようで申し訳ないけどね。私も、正直、こういう展開は想像してなかった」
ぼそっとつぶやいた。
「誰も想像できないだろう」
「そうだね、できたら私、藤沖くんとゆいちゃんがうまく行ってくれたらなって思ってた」
「別にそれは望んでいない」
「そっか、それならいいか」
あっさりと流され、俺はどう答えたらいいか困った。もしねちねちと泣かれるような展開だったら、戸を蹴って出て行けばよかったが、轟はきちんと筋を通すために現われたわけだ。それなら俺も当然、受け 止める義務がある。
「無責任なこと言ってしまったことについては、本当に申し訳ないなあって思ってる」
「もう気にするな」
「ありがとう」
それ以上轟は口に出さず、すばやく荷物をまとめ始めた。
「お前はどうするんだ」
「ああ、私?」
ため息を吐いた。
「どうするんだろうね」
他人事のようにつぶやき、轟はすばやく背を向けた。
きっと轟は、自分なりにけじめをつけておきたかったのだろう。
──無責任なこと言ってしまったことについては、本当に申し訳ないなあって思ってる。
女子は軽く口にしたことすらも重たく受け取る傾向がある。話のしやすい女子の轟でも、俺のたいした 思いのない言葉を真剣に受け取りすぎたのだろう。俺はただ、轟が勧めてくれるのならば、うまくいくだ ろうという意味の言葉を発しただけにすぎない。
──できたら私、藤沖くんとゆいちゃんがうまく行ってくれたらなって思ってた。
俺自身も感じていなかったことを、轟は自分なりの判断でとっとと進めてくれた。俺は何一つ自分から 行動を起こしていない。
ただ、行動を起こした奴が、ひとりいたというそれだけのことだ。
──ゆいちゃんはね、意地っ張りに見えるけど、本当はやさしくしてほしいんだと思うんだよね。そう いう人には、きっと心を開いてくれる子なんだよ。もし藤沖くんがいやじゃなかったら、私は応援するよ 。たぶんゆいちゃんは、しっかり守ってくれる男性の方がいいよ。
おそらく轟も、最初のうちは気がついていなかったのだろう。決して軽い気持ちで言ったわけではない だろう。
一年の終わりならば、それも当然だ。
いくら難波の女房役だったとしても、あいつの心を読み取ることは簡単ではない。
難波とはおそらく、これからほとんど会話をする機会が減るだろう。
俺は英語科に進むわけだし、必然的にクラスが変わると縁も切れる。
誰かが情報を運んでこない限り、思い出すこともなくなるだろう。
「おい、轟」
「なあに」
「あの、あれは、どうなんだ」
わけのわからない言葉を俺は口走っていた。
「今、どうしてるんだ」
「ゆいちゃんのこと?」
確認してくれたので俺はこれ以上しゃべる必要がない。轟は振り返り首をかしげた。
「卒業式には来ると思うよ」
「そうか」
「卒業式のあと、もし、呼び出したほうよければするよ。結果はともかく、ゆいちゃんこれで、最後だし さ」
ツーカーで通じているのがわかる。
「いらない」
「わかった。そうだ、それでさ」
ふと思い立った風に轟は付け加えた。
「借りは返すからね。ちゃんと利息つけて返す」
「気にするなよ」
「私さ、あんたのタイプがどんな子だかだいたいわかったから、今度はみまちがうことないと思うんだ」 いやみのない言い方だった。
「その時協力できるようだったら、いつでも声、かけて」
男なら怒鳴るところかもしれないが、そこに邪心がないことを俺は知っている。
「その時は」
今度こそ、轟は教室を出て行った。入れ違いに下級生たちが集団でプリントを抱えて入ってきた。俺も 長居はできなかった。
人から勧められない限り行動を起こせなかった俺が、最初からひとりを追いかけようとする難波に勝て なかったのは当然のことだ。
俺は、彼女が傷ついた時、一度とは言わず二度、三度と見て見ぬふりをしつづけた。
轟から情報をもらっておきながら一切行動を起こさなかった俺は、難波の姿を無言で見守ることにより 、自らを罰するのみだ。
ましてや。
──卒業式にかこつけて告げるなど、もってのほかだ。




