第一話 大杉毬男
静寂な夜も明け、ここいらを朝日が照らす。
暗がりの庭に日の光が当たると、その中央で男がうつ伏せに倒れていた。パッと見、死んでいるような格好だ。
男はほどなくして太陽の眩しさで目を覚ます。
「うう……さぶっ、何処じゃいここは」男は起き上がると辺りを見回した。
男は強面で無精髭を生やし、禿げ上がった額が太陽に反射して光っている。おまけに小太りだ。
「何でわしゃこげぇなとこにおるんじゃ……おお、あっこに平屋があるのぉ。よかったわい、誰かおるかも知れんなぁ」男は覚束無い足取りで平屋へ向かう。
男が倒れていた場所に、植木鉢を置く人影が見えた。何処から現れたのかは分からない――。
男はそれなりに年齢を重ねているのか、三十メートルの距離を歩いただけで、疲れた形相をしていた。
男は玄関の前で一呼吸し、階段を二、三段上るとインターホンを探す。そして、左の壁に設置してある丸い物へ目を向けた。「これがインターホンかいのぉ。ボタンもあるし、押してみるかのぉ」男はインターホンを押した。
ピンポーン、ピンポーン――。
家の中ではチャイムが鳴り響く。だが物音一つしない。
「誰もおらんのかいなぁ。もっかい押そかい」男はもう一度チャイムを鳴らす。
ピンポーン、ピンポーン――。
やはりインターホンからの反応は無く、誰も出てこない。
男は業を煮やして、玄関の木製ドアを右の拳でトントンと叩く。「おーい、誰かおらんのかぁ」
男は更に強くドンドンと叩いてみた。すると、家の中から歩いてくる足音が聞こえた。
玄関へ歩を進めるのは、黒いニットに薄い青のジーンズ姿の男だ。「ったく、うるさいったらありゃしない」
彼はドアを叩かれることが気に入らないようだ。
ドアには小窓もあり、覗かれない為の白いレースのカーテンがしてあった。カーテンが捲られると、そこからこの家の主、仙石澪八が顔を出した。仙石は男へ睨みを利かせる。
「うおぅ」と一度怯む男。「な、なんやい、おるんやないかぁ。早よ出てきぃや」男が窓越しに言った。
解錠してドアを開ける仙石。「どうも」
男も「お、おう」と返答する。
「いつもならまだ寝てたんだけどなあ……まあいいや」仙石は物憂そうに言った。
「た、たすけてくれんかのぉ。気ぃ付いたらあんたんとこの庭におったんじゃぁ」
「はいはい」と頷く仙石。「てか、あんなにドンドン叩かないでよ、おじさん。ドアが壊れますよ?それに不快です」
「仕方ないやんけぇ。インターホン二回鳴らしちゃあ反応せんきにぃ、ドア叩いた方が早い思たんじゃ」男はすかさず釈明した。
「ああ、そうですか。それじゃあ中にお入りください」
「入ってええんけ?ほんなら邪魔するでぇ」男は安堵の表情を浮かべると、家に上がった。
仙石は左側の手前にあるスライドドアを指差す。「先にそこのリビングに行って待っててくれます?」
「おお、分かったでぇ」と男も言うと、廊下を歩いて部屋に入った。
仙石は全開だったドアを閉めようとしたところ、読者へ向き、減り張りのきいたナレーションを始める。
「読者、何か不思議に感じませんでしたか?……そうです。普通なら、見ず知らずの人を自分の家に入れたりなんてしませんよね?況してや、怪しくないかとあの人を疑うはずです。こんな朝早くから訪ねて来るんですから。では何故、僕はあのおじさんを家に入れたのか?『助けてくれ』と言われたから……そりゃ勿論助けますよ、違う意味でね。まあ、ここにいらっしゃるのは特定の人だけなんです。安心してください、直にわかりますよ。それでは――」
仙石は終いに「んふっ」と意味深長な笑みを浮かべると、ドアを閉めた。
一本の廊下を歩く仙石は、男が待っているリビングへ向かわず、左奥の寝室へと直行する。寝ている相棒を起こしに行ったのだ。
仙石が寝室に入ると、仙石から見て左右の壁沿いにベッドが並んでいる。窓もある右が仙石、左が一ノ瀬。ベッドの頭の向きも右は廊下側、左は反対側のクローゼットの方へ向いていた。ここは男女ということを考慮したのだろう。左の隅、一ノ瀬のベッドの足元には化粧台が置かれていた。
「七奈美の奴、まだ寝てやがんな。どうやって起こそうか……」ベッドでぐっすりと眠る一ノ瀬に近付き、仙石の悪知恵が働く。
仙石は化粧台に置いてあったペン立てを見ると、何か閃いたようだ。
仙石はペンを手に取り「んふふっ」と薄笑いする。「この黒ペンで顔に落書きしてやるか。可愛くやりゃあ、あとからバレても大丈夫かな」
一ノ瀬の艶のある両頬に、仙石が横線を三本ずつ描いていた。最後に鼻先を落書きしようとするが、一ノ瀬が目を覚ました。
「ちょっとぉ、朝からなぁにぃ?仙石さぁん」眠たそうな一ノ瀬は、頬っぺたを動物のひげみたいに落書きされていた。
「あ、ああ、お客さんだお客さん。リビングで待ってんだよ、さっきからおじさんが。君をだから、起こしにとね」
一ノ瀬の顔に落書きした事がバレる恐れからか、仙石はしどろもどろに答えていた。
「ううん、なんか怪しいなあ、仙石」
「そ、そんなことないよ、ななみん」ペンを体の後ろで隠している仙石。
一ノ瀬は「まあいいわ」と言い、ベッドから降りた。一ノ瀬が目一杯欠伸をする。ひげのおかげで猫、又はライオンが欠伸をしているようにも見えた。
壁掛け時計を見る一ノ瀬。「まだ六時過ぎか、今日は早いなぁ」
「まあまあ、早く着替えて。僕は先に行ってるから」
「はいはい」
パジャマ姿の一ノ瀬がクローゼットを開けている隙に、仙石はペンをこっそり戻すと退室した。
「今日はどれ着ようかな。これもいいし、こっちもなかなか……ううん、どれにしよう」一ノ瀬はどの服を着ようか一度は迷うも「よし、これにしよう」と直ぐに決めた。
一ノ瀬がパジャマのファスナーを開け、肩から脱ぎ始める。一ノ瀬の服がはだけて、背中からは淡いピンクの下着が見えた。下着も気になるが、右の肩甲骨にある仙石と同じ紋様にも目がいってしまう。
一ノ瀬はため息をつき、襟を正すと読者へ振り返る。残念ながら、読者に気付いていたようだ。
ムッとした表情の一ノ瀬が顎で合図し、作者に場面を変更するよう促す。
玄関から見て右側は、手前から娯楽部屋、トイレ、洗面所と風呂場、奥にキッチンの順になっている。廊下の突き当たり右に裏口があり、寝室を出る際には必ずそこが目に付く。
仙石は寝室と斜向かいのキッチンにいた。リビングへ行く前にお茶を持って行こうとしている。
「外も寒かったし、あの人に温かいお茶でも出してやるか。ついでに僕と七奈美の分もっと」
仙石がインスタント麦茶の粉末を三つの湯呑みに入れ、ポットのお湯を注いだ。麦茶の香りに満足する仙石。
茶碗に湯気が立つ中、扉を閉める音が聞こえた。
一ノ瀬が着替えを済まし、寝室から出てきたのだ。
一ノ瀬は、肩を控え目に出した濃灰色のニットを、ワンピースのように一枚で着ている。タイトな丈は太ももまでと短く、生脚を露出していた。
この服は巷で『ダーリンニット』と呼ばれているらしい。だが、読者諸君よ安心したまえ、一ノ瀬にダーリンはいない。
廊下を歩く一ノ瀬は眉間に皺を寄せていた。きっとクローゼットの鏡を見て、顔の落書きに気付いたのだろう。
キッチンには扉が無いため、仙石はおぼんに三つの湯呑みを乗せると、冷蔵庫の陰で息を潜めた。
一ノ瀬は洗面所へ行き、必死に両頬を洗う。
「ああん、落ちないしい……もう最悪じゃん」
結局諦めた一ノ瀬は、洗面所と真正面のリビングのスライドドアを開ける。
「おい仙石!」
一ノ瀬が怒鳴った先には、一人掛けのソファに座ったまま振り返る、強面の禿げがいた。
「お嬢ちゃんどしたんでぇ、そがいにデケぇ声出しちよぉ」
「あ、あれ?禿げたおじさん、しかいない」初見の男を前に一ノ瀬が口を滑らせた。
「急に会って禿げはないじゃろぉ」
「あっ、すいません。ほんとごめんなさい、つい本音が」
「本音って……まあええわい、男は皆いつかは禿げるきにのおぅ」
「うんうん、確かにそうですよね。でも僕は禿げてませんけど」おぼんを持った仙石が横から口を挟む。
一ノ瀬が「あっ、仙石」と言うと彼の左耳を引っ張る。
「いてででで」仙石はあまりの痛さに目が潤んでいる。「や、やめて、お茶がこぼれちゃうから」
「しょうがないわね」一ノ瀬は仙石の耳を引っ張ることをやめた。
「落書きした僕が悪かったです。ごめんなさい」仙石の左耳が少し赤くなっている。
「二度とやらないでよ」
「はい……でも、可愛く落書きしたつも――」
「ええ、なんだって?」
「なんでもないです、はい」
二人はやり取りを終えると、一緒にコーナーソファへ座った。
(本来なら、このおじさんが座ってるソファが僕の位置なんだけどなあ……)仙石は不服そうな顔で、男に温かい麦茶を出す。
「わざわざすんませんなぁ、あんがとぉ」男はそう言って麦茶を一口飲んだ。
仙石と一ノ瀬も麦茶を飲む。
「まだ名を名乗ってなかったのぅ、わしゃ大杉毬男じゃ。歳は六十二やきぃ」
「まりおって、あの赤いコスプ――」
「ちょっと待った。それ以上言わないで、仙石さん」一ノ瀬が仙石の発言を遮る。どうやら危機を察知したらしい。
「わかったよ……あの、毬男さんとお呼びして宜しいですか?」
「おお、ええでぇ」
「では毬男さん、僕は仙石で、彼女は一ノ瀬です」
「よろしくです、毬男さん。私は下の『七、奈、美』で呼んでくれちゃってもいいですよ」一ノ瀬が馴れ馴れしく言った。
「ほんじゃあ、七奈美ちゃんで。それと、仙石くんじゃな……警察へは連絡したんか?わしゃ気ぃ付いたら、ここにおったんじゃきぃ」
「いえ、それは必要ありません。早速ですが、本題に行かしてもらいます」
「な、なんじぇえ、どゆことじゃ」毬男は戸惑いの色を隠せない。
「ここにいらっしゃるのは、特定の人だけなんです」
「特定の人?」毬男は仙石に聞いた。
「はい、それは死の淵に立つ人。つまりあなたは今、死にかけているんです。あなたの魂だけが、ここ『生死の平屋』にいるんですよ」
「わっはっは、そがいなん信じるわけないじゃろぉ。ここで気ぃ付く前は、わしゃ女房と一緒に床に就いたんじゃからのぉ」
仙石は、じゃあ、と言うと立ち上がった。
毬男から向かって正面に大画面の薄型テレビ、その左横に棚がある。仙石は棚からケースに入ったディスクを取り出す。
この間一ノ瀬は、リビングの奥の暖炉に火をつけていた。身震いしていることから寒さに耐えれなかったらしい。
暖炉の近くにはドアがあった。まだ何なのかは明かさないでおこう――。
仙石は再び座ると、ケースに入ったままのディスクを、テーブルの上に置いた。一ノ瀬も隣に座る。
「毬男さん、このディスクに触れてください。そうすれば分かりますから」
信じてくれない毬男には、これに触れてもらうしかないと仙石は思ったのだろう。
毬男は高笑いした。「仙石くんは面白いこと言いよんのぉ」毬男が仙石のことを小馬鹿にし、ケースのふたを開けてディスクを触る。するとディスクが突然、白い輝きを放つ。「な、なんじゃこりゃあ」
「驚いた?毬男さん」一ノ瀬はにこやかに話しかける。「ビックリするでしょ、最初に触った時だけになるんだよねぇ……ほら、私が触っても、なあんにも起きない」一ノ瀬はディスクを触ってみせる。
「ほんとじゃのぉ、わしゃ魂だけなんじゃな……このディスク、わしゃの名が書いちょるでぇ。それに男性、年齢六十四?違うげぇ、わしゃまだ六十二じゃぞ」
違いを指摘した毬男に「えっ」と仙石が反応する。
「ちょっと待ってください、ディスクの表示は正確です。とにかく記憶を観ましょう」
「記憶?」毬男が不思議そうに訊いた。
「ええ、そうです。先ほど毬男さんがディスクを触った時、記憶が書き込まれたんです。まあ、全てではありませんが――」
「容量があって、ディスクに触れてから一時間前までの記憶、印象深い記憶、ディスクを触った人に関連した人などの記憶を少々……ですよね、仙石さん」途中から一ノ瀬が自信ありげに説明した。
「ああ」仙石は相槌を打つ。
一ノ瀬がテレビのリモコンでスイッチを入れると、仙石はテレビの右横へディスクを挿入した。
大杉毬男の記憶が今、鮮やかな映像で甦る――。
【帰ったでえ、百々子】
【あら、あなた、お帰りなさい】
数十年前の毬男の帰宅を、その妻、百々子が迎える。強面の毬男には不釣り合いなほど、清楚で透明感のある奥さんだ。
「こりゃ四十手前の時じゃのぉ、仕事帰りじゃ」毬男は昔の自分達を懐かしそうに見る。
「毬男さんの奥さん、綺麗でお上品な方ですね」一ノ瀬が言った。
「七奈美ちゃんもそう思うけぇ」どことなく照れる毬男。
【サラリーマンを辞めて、大根農家を継いだあの日から丁度一年ですわね。毎日ご苦労様です、晩御飯出来てますよ】
【おお、あんがとな、百々子】
「へえ」感心する一ノ瀬。「農業で生計立ててたんですね」
「そうじぇ、わしゃ大根でそこそこ儲けとったんじゃぜ」毬男は誇らしげに話す。
一方で、仙石はある事を考えていた。「百々子……もも……これはヒロインのピ――」
「あっ、映像変わる」
仙石の言葉が一ノ瀬の声にかき消された。
映像が飛び、多少老いた毬男が映る。両脇に大根を抱えていた。
【よお、大根収穫したぞぉ。とりあえずこんだけ採って帰ったでぇ】
仙石が大根を見て苦笑いする。「すげえ、あれ何本抱えてんだよ」
「だいたい十本くらいじゃないですかぁ」一ノ瀬が即座に答えた。
「あん年は大量に採れたんじゃきぃ」
【まあ、こんなにも大根を……今年は豊作なのね】こちらも少し老いた百々子が喜んだ顔をしている。【さあ、今日は大根料理を拵えようかしら】
【わっはっは、楽しみやのぉ。わしゃ先ぃ風呂入るでぇ】
再び映像が飛ぶと、立派な佇まいのお寺が映る。そこは観光客でいっぱいだ。
「うわっ、私ここ知ってる」一ノ瀬が思わず声を上げる。「豆恋天願寺ですよね。ここのお寺の豆を、年の数だけ食べると願い事が叶うって言われてるんですよ」一ノ瀬の目が羨望できらきらしていた。「それに名前の中に『恋』って字もあることから、恋愛成就のお寺でも有名なんです」
「なんだそりゃ」呆れる仙石。
「七奈美ちゃん知っとんけぇ」
「はい、私もいつか行きたいと思ってたんですよ」
「わしゃこりゃ二ヶ月前に行ったんじゃ」
「そうなんですね、羨ましい」
【あっこに売っとるぞぉ、どかんけぇ】
人込みの中を大杉夫妻が歩いている。見るだけでも嫌になるほどの密集具合だ。
【あなた、そんなに急がなくても】
売店に辿り着くと百々子が豆を購入した。
【私が五十七粒で、あなたが六十二粒ですよ】百々子は毬男に豆を渡す。
毬男は豆を一つずつ、次から次へと口に運んでいる。【味がせんし、硬い豆やな】毬男は口をもぐもぐさせながら言った。
このシーンを観た仙石は、頭の中でわんこそばを思い出していた。彼にとってはツボだったらしく、鼻で笑っている。
【私はもうこれくらいにしておきます】百々子が豆を四十粒ほど残した。
【なんぞ、オマエかなり残っとるやんきぃ。しょうがないの、わしゃがオマエの分も全部食っちゃらい】
毬男は自分の豆を平らげると、寄越せと言わんばかりに妻の豆を貪る。
【ありがとうございます、あなた】
またしても映像が飛ぶと、何処かの寝室が映し出された。
「ここはわしゃん家じゃ」毬男が言った。
【おやすみなさい、あなた】
【おう、オマエもおやすみな】
映像が翌朝へ飛んだ。
「こっからは覚えてないのぉ」毬男は腕組みをした。
「安心してください、毬男さんが覚えてなくてもあなたに関連した人の記憶が補ってくれますから」と仙石が言った。
【あなた、朝ですよ】先に起床していた百々子が毬男を起こしに来たようだ。
【うう、わしゃ……あんた、誰じゃ?】
一ノ瀬と毬男は「ん?」と言って困惑した表情を見せる。
「もしかして――」仙石は何かに気付いたようだ。
映像が飛ぶと、病院の診察室から出てくる大杉夫妻が映った。
毬男の隣で、百々子の目に涙が滲む。
【あなたが認知症だなんて、そんな……】百々子は声を震わせていた。【以前から私の名前をお呼びにならなくなったり、言葉が荒くなったのを気にはしていましたけど、まさかこうなるなんて……でも私はあなたを支えて行くと、あの時約束しましたから】悲壮感漂う百々子はハンカチで涙を拭う。
【……】真顔の毬男は沈黙して語らない。
「やっぱりか……毬男さん、あなたは認知症だったから覚えてなかったんですよ。ディスクに表示された年齢は六十四で合ってます」仙石が分かりきったことを言った。
「な、なあ仙石くん、こりゃ何かの間違いじゃないけぇ」
「残念ですが、これは実際の出来事です」
「そうけぇ」毬男は偽りであってほしいと何かに祈った。
ここからは映像が途切れ途切れになっていく。
【あ、ああ、外へ出さんか!用があるんじゃ】毬男が暴れながら外出しようとする。
百々子は毬男を説得していた。【やめて、あなた。危ないから大人しく家にいてください】
食器棚の皿を割り続ける毬男が映る。
テレビを観る毬男は、自分が楽しそうに皿を割るその光景を見ると、恥ずかしさで居た堪れない。
百々子が皿を割る毬男を止めに入る。介護疲れからか、百々子の髪は白髪交じりになっていた。
途切れ途切れの映像が終わり、早朝から家を抜け出した毬男が映る。人気の無い公園へ到着すると階段を上った。毬男が階段を上る最中、バランスを崩してしまい転げ落ちる。
「ひゃあ」一ノ瀬の口から悲鳴が漏れた。
仙石が一時停止ボタンを押す。「これがついさっきかもな、そして僕達の下へやって来た」
毬男は頭を抱えて項垂れる。「わしゃ、二年間も認知症のままなんじゃな。このまんまじゃったらぁ死んだ方がマシじゃ」
「そんなこと言わないで、どうなるかは毬男さん次第ですよ」一ノ瀬が明るく振る舞い、毬男を元気付けた。
仙石が再生ボタンを押すと、広々とした畑が映る。ここは大杉家、つまり毬男の所有する大根畑だ。
【もう今日はここらで終いやでぇ】毬男は大根片手に額の汗をタオルで拭く。
「この日は……」ぼそっと呟く毬男。
【はあ、農作業って大変ですのね。もうへとへとです】長靴を履いた百々子は意気消沈気味に言った。
ここは、妻が職場体験で夫の仕事場へやって来た、といった感じか。
【じゃろぉ?サラリーマン時代より、わしゃこっちの方が楽しいじぇ】
【そうですか……見てあなた、あの夕日綺麗だわ】百々子が黄色い夕日にうっとりしていた。
【お月さんちゃうきぃ】
【違いますよ】
毬男が可笑しなことを言ったので百々子は微笑む。
【なあ、百々子】毬男が百々子の名を呼んだ。【夕日がああやって続く限り、これからもずっと、わしゃと一緒におってくれんかぁ】こう言った毬男は照れくさかったのか、夕日のせいなのか、頬を赤く染めていた。
【何言ってるんですの、あなた。恥ずかしいじゃありませんか】毬男の唐突な発言に、百々子が恥じらいの色を見せる。【最初に出会った時から私の意志は変わってませんよ。今後何があっても、あなたを支えて行きますから】
【約束じゃきぃ】
【はい――】
大杉毬男の記憶の映像が終わり、テレビはメニュー画面へと戻る。
「いかがでしたか、毬男さん」仙石が間髪を容れず質問する。
「……」毬男は何も答えず俯いていた。今にでも泣きそうな顔をしている。
仙石の隣では一ノ瀬が手で涙を拭いていた。おそらく、ラストシーンで感動したのだろう。
「もう決心はつきましたか?」
仙石の問いに毬男が顔を上げると、決意の眼差しを仙石へ向けていた。
仙石はソファから立ち上がると「では、ついてきてください」と言った。
三人は廊下を歩き裏口へ向かう。外へ出ると、目の前には霧がかかる一本道があった。全く知らない人が見ると、何処まで続いているのか、途中で崖があったりしないか、などと考えてしまいそうだ。
「すごい霧じゃのぁ」
「毬男さんにはこの道を歩いてもらいます」仙石が言った。
「決して後ろは……振り向かないでくださいね?」一ノ瀬が怪談のように話す。
「ほんとけぇ、振り向いたらダメなんじゃな」
「なあんちゃって、嘘ですよ」
一ノ瀬の冗談だと分かり、毬男はほっと胸を撫で下ろす。
仙石はふと何かを思い出し、あっ、と言った。「毬男さん、植木鉢見ませんでしたか」
「植木鉢……そがいなんは見てないのぉ。どうかしたんきぃ」
「ええ、まあ。ちょっと待っててください」仙石は家の前の広い庭へ向かう。土の入った植木鉢が置いてあるのを見付けると、それを毬男のもとへ運んだ。
仙石は持ってきた植木鉢を毬男の足元に置いた。
「七奈美、水持ってきて」
「はーい」一ノ瀬は家の中へ戻る。
「この植木鉢がどうしたんじゃ」
「毬男さん、この上で、掬う手をしてください」
「こ、こうけぇ」
「はい、完璧です」
毬男が植木鉢の上で掬う手をしていると、コップに水を入れた一ノ瀬が家から出てきた。一ノ瀬は、仙石へコップを渡す。仙石は左手で受け取ると、左手の甲の紋様が赤く光り出した。
「手、光っとるやんけぇ」
「ふふふ……毬男さん、水、渡しますよ」仙石は毬男の掬う手にコップの水を流した。「はい、それを満遍なくかけてください」
毬男は植木鉢に水を丁寧にかける。
「これでもう終わりです」仙石が毬男に言った。
「あとはこの道を歩いたらいいだけですよ」続いて一ノ瀬も話した。
「お、おう、じゃあのぉ」
颯爽と歩く毬男は、霧の中へと消えていった――。
「あの、大丈夫ですか?」
スーツを着た男が、階段の前でうつ伏せに倒れている毬男に声を掛けていた。
目を覚ます毬男。「あ、ああ、大丈夫じゃ」起き上がると自宅へと向かう。「わしゃ生きて戻ったんじゃのぉ」
毬男は自宅に着くと、玄関のドアを開け、家の中へと上がった。家には百々子の姿が見当たらない。ドアの鍵をかけていなかったことから、百々子は急いで毬男を探しに行ったのだろう。
ドアの開閉音が聞こえると、疲れきった百々子が帰ってきた。リビングで出会す二人。
「あら、あな――」
毬男が百々子を力強く抱きしめた。百々子はびっくりしている。
「すまん、百々子!わしゃが百々子に迷惑をいっぱいかけてしまったきにぃ、こんな辛い思いをさせてしもたんじゃ、ほんとすまん。これからはそんな思いはさせへんきぃ……頼む、残りの人生もわしゃといてくれ」毬男が涙ながらに謝り胸の内を明かす。
「あなた……やっと戻ってくれたんですね、お帰りなさい」
百々子は二年間待ち焦がれた毬男の帰りを優しく迎える――。
「無事帰れましたかね、毬男さん」一ノ瀬が心配そうな面持ちで言った。
「さあな」仙石は知らんふりをする。「それより、僕に顔を落書きされたこと、忘れてないか」
「あ、そう言えばそうだったなあ。仙石さん、あとでちゃんと消してくださいよ」
「そのまま残しておくのも良いかもね」
「いや、消せよ仙石」
「へいへい」仙石は面倒臭そうに返事をした。
「仙石さん、植木鉢見て」
二人が目を離した隙に植木鉢から赤い花が咲いていた。
「赤い花が咲いた、となると、毬男さんは生きて戻った……」
「ですね」
仙石と一ノ瀬の表情からは少し笑みがこぼれる。
ピンポーン――。
「はい」毬男が玄関のドアを開けると、弟の礼二がいた。「おお、なんじぇえ、礼二」
「久しぶりだね、兄さん。この箱が外に置いてあったよ」礼二が箱を持ったまま家に上がり、リビングのテーブルまで運ぶ。
毬男が箱を開けると、観賞用の植木鉢に入れられた赤い花とメッセージカードが添えられていた。
「あん時の植木鉢の花かのぉ。『仙石と七奈美より。』か……わしゃの方が君らに世話んなったきぃ、あんがと」
毬男はリビングの小窓の窓辺に、赤い花を飾った――。




