十四 王国と、王国と呼べないもの
見えてきたのは、明け方だった。
最初は霞のようだった。水平線より少し手前に、何かが滲んでいた。島にしては広く、雲にしては低かった。ヤスフはしばらく目を凝らした。凝らすほどに、それは形を持ち始めた。陸地だった。しかし今まで見てきた陸地とは、何かが違った。何が違うのかを言葉にする前に、煙子が走ってきた。
船首に立った。
体全体が前に向いた。引っ張られているような立ち方だった。足が船縁から出そうなほど前に傾いた。ヤスフは反射的に煙子の衣の後ろを掴んだ。煙子はそれに気づかないほど、前だけを見ていた。
陸地が近づくにつれて、違和感の正体が分かってきた。
静かすぎた。
港というのは音がする。人の声、荷の音、鳥の声、波と船が交わる音。アレクサンドリアもアデンもコーリカットも、近づくにつれて音が来た。この陸地からは何も来なかった。風の音と波の音だけが来た。それ以外は何もなかった。
しかし廃墟でもなかった。
緑が濃かった。建物が見えてきたが、崩れていなかった。桟橋があった。朽ちていなかった。ただ、誰もいなかった。三年前に、一晩で、消えた王国だった。
ザイナブが舵を緩めた。
全員が黙っていた。こういう沈黙は、敬意に近い何かから来ていた。知らない場所に踏み込む前の、踏み込んでいいかどうかを誰かに確かめたい気持ちから来ていた。しかし確かめる相手がいなかった。
煙子だけが黙っていなかった。
小さな声で何かを言い続けていた。ヤスフには分からない言葉だった。歌ではなかった。祈りでもなさそうだった。ただ言葉を、止まらずに出していた。独り言というより、誰かに話しかけているような言い方だった。誰かが聞いているかどうかに関わらず、話し続ける人間の話し方だった。
桟橋に船をつけた。
音がした。木と木がぶつかる音で、静寂の中でそれだけが響いた。縄を縛った。ヤスフが最初に降りた。桟橋の板を踏んだ。しっかりしていた。三年間誰も踏んでいない板とは思えなかった。
煙子が降りた。
砂浜の島のときとは違った。慎重ではなかった。一歩降りて、立った。足の裏で地面を確かめた。それから目を閉じた。しばらくそのままでいた。
ヤスフは何も言わなかった。
全員が何も言わなかった。
煙子が目を開けた。涙は出ていなかった。しかし何かが顔を通り過ぎた後の表情をしていた。
街に入った。
道があった。石畳の道で、雑草が少し生えていたが、道の形を保っていた。両側に建物があった。木と石で作られた建物で、扉が閉じていた。窓が閉じていた。生活の気配が残っていた。食器が置かれたままの家があった。洗濯物が干されたままになっている家があった。三年間そのままだった。風雨にさらされて色が褪せていたが、形は残っていた。
誰かが帰ってくると信じているような街だった。
あるいは誰かが帰ってくることを知っていたような。
煙子は迷わず歩いた。島の内部を歩いたときと同じ歩き方だった。しかし今回は違う成分が混じっていた。知っている場所を歩く者の歩き方だった。帰ってきた者の歩き方だった。
大きな建物の前で止まった。
他より石が多く使われていた。扉が厚かった。装飾があった。扉の上に、文字が刻まれていた。煙子は見上げた。読んだ。声に出さなかった。唇だけが動いた。
扉に手をかけた。
押した。重かった。三年間閉じていた扉の重さだった。ヤスフが隣から押した。ハジブが反対側から押した。扉が動いた。きしむ音がした。その音だけが、建物の内部に吸い込まれていった。
中は暗かった。
窓から光が入っていたが、十分ではなかった。目が慣れるまで待った。慣れてくると、広い部屋があった。中央に石の台があった。台の上に、何かが積まれていた。近づくと、それが巻物だと分かった。何十本もの巻物が、積まれていた。崩れていなかった。丁寧に重ねられていた。
記録だった。
カリームが話していた。ハジブが話していた。王国の全ての記録。誰が生まれ、誰が死に、誰が何をしたか。何百年分もの記録。それがここにあった。
煙子は台の前に立った。
巻物には触れなかった。ただ見た。ヤスフには煙子の表情が見えなかった。暗くて見えなかった。しかし肩の形で分かった。何かを受け取っている肩の形だった。重いものを渡されて、しかしそれを受け取ることを決めている者の肩だった。
しばらくして、煙子が振り返った。
全員を見た。それから何かを言った。
ザイナブが通訳した。
「ありがとう、と言っている」
ヤスフは何か言おうとした。言葉が来なかった。来ないまま、少しの間があった。
「他には」とヤスフは言った。
ザイナブが聞いた。煙子が答えた。少し長かった。ザイナブが聞きながら頷いた。
「ここから先は一人で行く、と言っている」ザイナブは言った。「記録の保管場所は別にある。そこへ持っていく。それはこの子が一人でしなければならないことだ、と」
「危険だ」とヤスフは言った。
「追手がいる」とハジブが言った。「マンスールがこの場所を知っているなら、もう来ている可能性がある」
ザイナブが通訳した。煙子は聞いた。それから答えた。
「知っている、と言っている」ザイナブは静かに言った。「だから急がなければならない、とも」
ヤスフは煙子を見た。
暗い部屋の中で、煙子は板を持っていた。出発した日からずっと持っていた板を。アレクサンドリアの廃屋から、紅海を越え、インド洋を渡り、名もない島を経て、ここまで持ってきた板を。
「一人で行かせられない」とヤスフは言った。
煙子はヤスフの言葉を待たず、もう何かを言っていた。
「あなたには来られない場所だ、と言っている」ザイナブは言った。「王国の者でなければ入れない場所がある、と」
「なぜ」
ザイナブが聞いた。
「入れないから入れないのだと言っている」ザイナブは少し困った顔をした。「それ以上の説明はない」
ヤスフはしばらく黙った。
煙子を見た。煙子はヤスフを見た。この旅で何度もそうしたように、言葉のない時間があった。言葉が要らない時間ではなく、言葉がない方がいい時間だった。
ヤスフは一歩引いた。
道を開けた、という意味だった。煙子はそれを理解した。頷いた。それからヤスフの顔を、少し長く見た。記録しているような目だった。いつもの目だった。この子供が何かを大事だと思ったとき、記録するように見る目だった。
煙子が歩き始めた。
建物を出て、街の奥へ向かった。
ヤスフは扉の前に立って、その背中を見た。小さかった。路地の影に入って、小さくなって、やがて見えなくなった。足音がしなかった。最初からそういう子供だった。
街が静かだった。
風が来た。王国の風だった。どこかで鳥が鳴いた。
レビュー、評価、感想をしてくだされば嬉しいです!!!!!




