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煙子-boy of the smoke-  作者: 神箭花飛麟


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13/19

十二 追手と、追っ手が来る前にすること

 島を出て二日目の夜、ハジブが舵を握った。


 珍しいことだった。ハジブが舵を握るのをヤスフは見たことがなかった。この男が何かをするとき、必ず理由がある。理由は言わないことの方が多い。言わなくても分かることの方が、ヤスフには怖かった。言葉にできない理由というのは、言葉にすると崩れる種類の判断から来ることが多いからだった。


 ヤスフはハジブの隣に立った。


「後ろか」と聞いた。


 ハジブは答えなかった。それが答えだった。


 ヤスフは後ろを見た。夜の海は暗く、何も見えなかった。しかし見えないということと、ないということは違った。嵐の前の空と同じだった。分かる人間には分かり、分からない人間には何も見えない。ヤスフにはハジブほど分からなかった。しかし何かがあることは、分かった。


 空気の質が、少し変わっていた。


「どのくらい後ろだ」


「半日」とハジブは静かに言った。「夜明けには見える距離まで来る」


「どんな船だ」


「速い」それだけ言った。


 ヤスフはザイナブを起こしに行った。ザイナブは既に起きていた。目が開いていた。同じものを感じていたのかもしれなかった。


「聞いていたか」


「聞いていた」


「どうする」


 ザイナブは少し考えた。地図ではなく、頭の中にある何かを参照するような考え方だった。


「このまま東へ行けば、夜明けまでに海峡に入る」とザイナブは言った。「海峡は狭い。速い船には不利だ」


「俺たちにも不利だ」


「俺たちは土地を知っている者がいる」ザイナブはカマルッディン老人の方を見た。「向こうはいない」


 老人は眠っていた。しかし名前を呼ぶ前に目を開けた。最初から眠っていなかったのかもしれなかった。


「海峡の話だ」とザイナブは言った。


「どの海峡か」と老人は聞いた。


「東の海峡だ。この先にある」


 老人は起き上がって、海図を広げた。指で場所を示した。ヤスフには海図の文字が読めなかったが、老人の指が示す場所が、かなり東にあることは分かった。


「夜明けまでに入れるか」


「風次第だ」老人は空を見た。「今夜の風なら、入れる」


「入ってからは」


「岩が多い」老人は言った。「しかし私は知っている。三十年前に一度通ったことがある」


「三十年前の記憶で通れるか」


「通れる」老人は迷わなかった。「海図には書いていないが、頭には入っている。こういう記憶は消えない」


 ヤスフはハジブを見た。ハジブは舵を握ったまま頷いた。


 帆を最大限に広げた。


 風は老人の言った通りだった。強くはなかったが安定していて、東へ向かうのに都合が良かった。船が加速した。水が船底を叩く音が変わった。ヤスフは綱を確かめ、帆の向きを微調整した。無駄な動きをしている余裕はなかった。


 煙子が起きてきた。


 甲板の様子を見て、何かを察したようだった。聞かなかった。板を抱えて、邪魔にならない場所に座った。自分が今できることとできないことを、この子供はよく知っていた。できないことをしようとしなかった。それは美徳でもあり、どこか寂しいことでもあった。


 夜が深くなった。


 全員が黙って動いていた。ヤスフは綱を、ザイナブは帆を、ハジブは舵を、老人は海図を見ながら時折方角を指示した。言葉が少なかった。必要なことだけが行き来した。こういう夜の動き方を、ヤスフは嫌いではなかった。余分なものが全部落ちて、必要なものだけが残る時間だった。


 夜半を過ぎた頃、老人が言った。


「見えてきた」


 前方の水平線に、黒い影が両側に見え始めていた。陸地だった。島ではなく、両側から迫ってくる陸地だった。海峡の入口だった。


「岩は」とザイナブが言った。


「右側に寄れ」と老人は言った。「左には近づくな。見えない岩がある」


 ヤスフは帆を少し絞った。速度を落とした。速く入るより慎重に入る方が大事な場所というのがある。海峡はたいていそういう場所だった。


 両側の陸地が迫ってきた。


 水の色が変わった。深い青から、浅い緑になった。底が見えそうな透明さだった。夜でも分かるほど澄んでいた。


「ここだ」と老人が言った。「右に」


 ザイナブが舵を切った。ハジブが補助した。船が右に傾いた。岩の影がすぐ左を通り過ぎた。暗くなければ見えない場所にある岩だった。昼間でも気づかない者は気づかない。


 煙子が船縁から水を覗いた。


 海峡の底が、夜の光の中で揺れていた。白い砂と、濃い緑の海草と、その間を小さな魚が通り抜けていた。煙子はそれを見て、何かを言った。声が小さくて、ヤスフには聞こえなかった。独り言だったのかもしれなかった。


「離れろ」とヤスフは言った。「落ちる」


 煙子は身を引いた。それから少し考えて、もう一度だけ覗いた。それから離れた。言うことを聞くのか聞かないのか、この子供はいつも一回だけ自分で確かめてから従った。


 海峡を抜けるのに、半刻ほどかかった。


 抜けると、海が広くなった。また深い青に戻った。前方に、水平線が戻ってきた。後ろを振り返ると、海峡の出口が暗い影になっていた。


「後ろは」とヤスフはハジブに聞いた。


「まだ入っていない」とハジブは言った。「入り口あたりにいる」


「海峡を知っているか」


「知らなければ通れない」


「知っていたら」


「時間がかかる」ハジブは静かに言った。「昼間でも慎重に行かなければならない場所だ。夜明けまでは出てこない」


 ヤスフは息を吐いた。


 老人が海図を丸めた。仕事が終わった者の動作だった。


「礼を言う」とヤスフは老人に言った。


「礼はいらん」老人は言った。「金をくれればいい」


 ヤスフは笑いそうになった。こらえた。こらえたが顔に出た。老人は気にしなかった。海図を懐にしまい、また横になった。今度は本当に眠るつもりのようだった。


 煙子が来て、ヤスフの隣に座った。


 海峡を抜けたことで、何かが変わったのを感じているようだった。板を膝の上に置いて、前を見ていた。


「もう少しか」とヤスフは言った。


 煙子は答えなかった。しかし板の上に置いた手が、少し動いた。握るのではなく、触れる動き方だった。確かめる触り方だった。


 東の空が、ほんのわずかに白み始めていた。


 夜明けが来ようとしていた。また一日が始まろうとしていた。追手は海峡の向こうにいて、まだこちらに来られないでいた。その時間が、どのくらい続くかは分からなかった。


 分からないことが、旅にはいつも多かった。


 それでも船は進んだ。東へ、東へ、ただ東へ。水平線は変わらず遠く、空は変わらず広く、煙子は変わらず板を持って前を向いていた。

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