第三十六話 アンジェリカとジュリアス
♪もしもヒバリのように、空を飛べたなら
このテラスから今すぐ飛んでいきたい――。
薔薇の園を眺めながら、優雅に舞い上がり、
血で滲んだ城壁を軽く飛び越え、
金の展望台よりも空高く、
銀の綿雲に夢を見て、
満天の星空に包まれながら、
あの月の裏側へ、永遠に…永遠に……。
隠れてしまいたい―――。
――パンパンパン!
乾いた手の音が稽古場に響く。
朝日に輝く黄金色の髪の持ち主は、眉間にしわを寄せてピアノを中断した。
切れ長の美しい青い瞳が険しさを帯びる。
「ちょっと、いつもより声の響きが足りないわよ?」
「えっ、あっ……ごめんなさい。あの…、昨日はあまり寝付けなくて……」
アンジェリカは稽古場の隅に置かれたタオルを取っては顔の汗を拭った。
鏡に映った自分の顔を見てふと気がつく。
(うわっ。いつの間にか目の下にくまが出来ている〜!!)
「【緋幕の歌姫】ともあろう者が、自己管理が出来ていなくてどうするのよ。本番は明後日なのよ?」
「……ごめんなさい」
「あなたは、『ロザリオの奇跡』の主役なんだから、こんな調子が続くと、後輩達に主役を奪われちゃうよ?」
腕組みをしている長身の男は、ジュリアス・コンフォート伯爵。劇団ルミナスクラウンの創立者でもあり、劇作家でもある。
「分かってる!分かっているわよ、ジュリアス。でもね、まさか、あの子がここへ来てくれるとは思わなくて……。少し落ち着かないのよ」
「あぁ、レイアちゃんのことね。元旦那から届いた手紙を読んで、怖くなっちゃった?こんな大切な時期に余計な手紙を送るんじゃないわよ〜」
「……うん」
アンジェリカは鏡の前に立って、後ろで結んだ紐をサラリと外す。ローズの香りが広がり、淡いモカ色が波のように揺れた。
(鏡に映っているのは、夫を捨て母親を放棄した女。嫌われて当然なのに……)
深いため息を付いて、ちらりとジュリアスの方を見る。
「……」
「何よ?」
「あのね、5年前の夜逃げがきっかけであなたと私に不倫の噂が広まるとは思ってもみなかった。もしかして、レイアはずっとあの村で、肩身の狭い思いをしてきたのかしら……」
すると、ジュリアスは顰め面でズカズカとアンジェリカに近づいた。
「さぁ?多分そうかもね。でも、こっちも被害者よ?私はあんたを誘惑した優男にされてたわけでしょ?名誉毀損で損害賠償をぶん取りたかったのに、さっさと尻尾切りしやがって、あの子爵め――!!」
彼はおもむろに、アンジェリカの柔らかな髪をぐしゃぐしゃに掻き乱した。
「きゃっ!?ちょっと、私に当たらないでよ!!結局、ジムナムは強制労働送り確定なんでしょ?」
アンジェリカは彼の両手首を握り、動きを留めた。
「だって、悔しいじゃない!!この拳で一発ぶん殴ってやりたいわよ!!」
「殴る?ふふふっ。こんな色白な細腕で一発殴るなんて、絶対無理よ」
ジュリアスの口がへの字になる。
「あら?こう見えても、一応、男なのよ?」
彼は、余裕の笑みで両腕を引き寄せた。
「きゃっ!?」
その勢い余って、アンジェリカは彼の胸板に鼻をぶつけた。ムッとしたアンジェリカは彼を睨みつける。
吸い込まれそうな水色の瞳と薄紅色の唇を目の前にした瞬間、アンジェリカは慌てて手を離し、距離を置く。
「……ごっ、ごめん。ジュリアス」
「はぁ!?なんであんたが謝ってんのよ?」
「いや……いろいろと……」
「色々って?」
(やだ、誤魔化さないと……)
アンジェリカは乱れた髪を整えながら、気持ちを落ち着かせようと努めた。
「う〜んと、あのね。そう、そもそもで言うと……あの時、私があの村を一人で出ていけば良かった」
「はぁ?なんでよ?」
「……そうすれば、あなたにも迷惑かけなかったし、こんな噂にはならなかった……はず」
「………」
❇❇❇❇
私は、ダグラスを愛していた。でも、同じように歌劇も愛していた。
分かったのは、この2つを一度に手にすることはできないということ。
学園時代の私は、声楽部と演劇部の両方をこなしていた。全ては、歌劇女優になるためのステップだった。休みの日は図書館へ通って、古典詩集や戯曲集を読み漁り知識を増やしていった。
毎日が楽しくて、キラキラしていて、好きなことに夢中になっている時間は、生きている実感に溢れていた。
デビュタントでダグラスと出会い、一目惚れしたと彼から情熱的なアプローチを受けた。
彼の男らしさに勝手に頬が高揚し、人生で初めてヒロインになれた気がした。乙女心がときめき、運命かのようにお付き合いをはじめた。
押しに弱い私は、何回かデートを重ねていくうちに、ダグラスの熱のこもった愛に溺れ、夢中になり、付き合ってから半年、婚約もしてないうちから身ごもってしまった。
両親にはみっともないと激怒されたが、ダグラスは何度も屋敷へ通い、私への愛を語り、熱意を示してくれた。両親はそんな彼に折れたのか、ようやく納得して結婚をすることになった。
あの瞬間、私は確かに幸せだった。
私はダグラスを愛していた。だけど、もう片方の大切にしていたものが失っていく喪失感もあった。私は彼を優先したくて、気持ちに蓋をして気づかないふりをした。
でもその疼きは、お腹が大きくなるにつれ、徐々に強くなり、『後悔』という一粒の種が心の底に落ちていた。その度に『私は今、幸せなんだ』と何度も自分に言い聞かせた。
結婚後、魔法使いの森に引っ越し、私は急にわけの分からない閉塞感に襲われた。
森の樹一つ一つが牢獄の高い壁に見えてきて、あの家が孤独の塔に思えてならなかった。
怖くなった私は、一度実家に戻りたいと言ったが、ダグラスは取り合ってはくれなかった。いつもは優しいダグラスもその時ばかりは、厳しい表情をしていた。
肝心な彼は仕事上、帰ってくる時間が不規則だった。時には3週間帰ってこない時もあった。すれ違う日が増えていくうちに不安も増してくる。
マーサからは、妊婦の心得や、アルガバス子爵夫人としての心得を呪文のように教えられた。それが毎回、見えない鎖でつながれているような気がして、息苦しいものだった。
既に植え付けられた後悔が膨らんでいき、私の胸の奥に根付いてしまっていた。
ダグラスという愛する者が傍にいて、その人の子を身籠っているのに、何故か私は孤独だった。
❇❇❇❇
「アンジェリカ?」
「えっ。あっ、ごめん。ちょっとあの森に来た頃を思い出して考え事していたわ。へへっ」
笑って誤魔化しながら、視線をそらした。
「……別に私は、あんたが全部悪いなんて思ってないわよ」
「えっ?」
「だって、私があんたと初めて出会ったときは、あんた幸せそうな顔してなかったもの」
「っ!……ジュリアス、それは言わないで」
視線を逸らして俯いていると、彼の手がそっと肩に触れた。
「あんたは、元々夢追い人なのよ」
「夢追い人?」
「そう。あんたは、鳥籠のような小さな幸せには収まらない。例え、リスクがあっても、孤独であっても、逞しく、空へ羽ばたくの。鳥のようにね。それがあんたの本来の生き方なのよ」
アンジェリカは、光の矢で胸を射抜かれた気がした。
「小さな鳥籠に収まっていたあんたは、ずっと苦しかったのよ」
❇❇❇❇
出産後、私はいい母親になろうとした。
生まれたばかりの赤ちゃんは、余りにも小さく、か弱く、そしてデリケートだ。
不器用な私は沐浴も、オムツ替えも、爪切りも、寝かしつけも、マーサほど上手に出来なかった。見かねたマーサが首を横に振って、私からレイアを取り上げ抱っこする。
『アンジェリカお嬢様には、少々荷が重いようなので、これからは授乳だけで結構です。後は私が上手くやりますから』
まるで母親不適合者と言われている気がした。マーサの言葉に悪意は感じない。悪意がないからこそ、余計に堪えた。
このまま大きくなると、あの子はマーサのことを母親だと勘違いするのだろうか?
マーサに抱っこされたレイアの笑顔を思い浮かべるたび、自分の存在が消えていく気がして、両手が震えた。
誰にも会わないことが、不安から逃れる唯一の方法だった。どうせダグラスに言っても何も変わらないと諦める癖がついた。
次第にレイアと会うのが億劫になり、必要なこと以外はマーサに預けて、殻に籠るように部屋から一歩も出なくなった。
母乳の時期が終わり、離乳食に変わると、レイアとの触れ合いが更に減ってきた。
彼女のつかみ立ちや、歩き始めなど、一切見ていない。その大切な一瞬は、マーサに譲ったも同然だ。
育児をマーサに任せっきりにしているから仕方がない。マーサからしたら、私は単なる足手まといでしかないから。
虚無の時間を過ごしていたある日、何の前触れもなく、一人の男が私の部屋のドアを開けてきた。
『あら?なんて辛気臭い顔をしているのかしら』
『……あなた、誰?』
『そうね。私はあなたの救世主よ』
『救世主?』
『そう。ところであんた、演劇は好き?』
『!!!』
『私の夢はね、舞台作家になって、歌劇団を作ることなの。……っていうか、その準備を始めているところだけどね』
『歌劇団……。それで私に何の用?』
久しぶりに聞く『歌劇』という言葉が、心の内側で春風のように広がっていく。
『私と演劇の話でもしようか』
暗闇にいる私に光をもたらしたのは、ジュリアスだった。
❇❇❇❇
「あの頃、ジュリアスには、忙しいのに毎月来てもらって……演劇の画像を見せてくれたり、古典演劇の書物を貸してくれたわよね」
「私は、あんたに会ったことを後悔していないわ。だって、あんたを助けたことで、立派な女優を確保することができたんですもの」
(……ジュリアスはいつだって、私が欲しかった言葉を伝えてくれる)
「ジュリアス……やっぱり貴方は私の女神様だわ!私が落ちこんで闇の中を彷徨っていても、一筋の光を放って道しるべをくれるもの!」
ジュリアスは何も言わずに、アンジェリカを強く抱きしめた。
「ジュリアス!?」
驚きすぎて、上手く息ができない。
「だってさ、あの頃のあんたは、一昔前の私と重なって見えたのよ。愛する人が近くにいるはずなのに孤独で、自分の感情を殺して表に出さずに閉じ込めてさ。自分自身を諦めているなんて、つらいじゃない。だからあの時、あんたを助けたくなったの」
以前、酔っ払ったジュリアスから元彼の話を聞いたことがある。
ジュリアスは、元彼の兄から、弟の将来のために身を引いて欲しいと頭を下げられたと。
元彼とは、カルロス・イグニスト伯爵。
この貴族社会では同性愛者とバレると白い目で見られ、笑い者にされるらしい。同性が好きならば、ひたすら隠して、『遊び』程度で終わらせなければならない。この国では同性同士の結婚は禁じられている。
ジュリアスは大好きな彼のために、それを受け入れ終わりにするしかなかった。
アンジェリカの耳元に彼がぼそりと呟く。
「私はね、あんたといると自分を殺さなくてもいいから助かっているの。あんたといると楽して息ができるのよね」
「……ジュリアス」
アンジェリカの頬が熱くなり、胸の鼓動が落ち着かない。距離が近すぎて、頭がおかしくなりそうだ。
「父上や母上の前では『僕』という代名詞を使って紳士的に振舞わなくてはいけない。ほとんど役者みたいなものよ。もしも素の私を知ったら、両親共倒れどころか、ルミナスクラウン歌劇団自体が失くなってしまう」
ジュリアスが男性に恋をしたのは、13歳のときだったと聞いたことがある。グランドフィル音楽劇場で初めて恋愛歌劇を見てから、ヒロインではなく、とある男優に一目惚れをしたらしく、さらに演劇というものに深くのめり込んだという。
ジュリアスは十数年もの間、恋愛対象が男性ということを隠し続けている。人に話せない秘密をずっと心にしまう作業は精神的にとてもしんどい。
(私と話すことで、ジュリアスを楽にできるのなら)
アンジェリカもジュリアスをギュッと抱きしめ、広い背中を優しく擦った。
「まさか……慰めてる?」
「別に慰めてないよ。ただ感謝しているだけ。ジュリアスがいなかったら、私は私でなくなっていたかもしれない。だから、ジュリアス。私の前では素直になっていいよ」
「っ!……バカ」
ジュリアスは、そっと体を離すと、今度はほっぺを引っ張ってきた。
「なひふるの(何するの)!!」
「今、あんたがやるべきことは、私の心配じゃなく、誰よりも優先させた『演劇』を舞台の上で華やかに見せつけてやること!」
「うっ…うん」
「歌劇のすばらしさ、奥深さ、他人の人生を演じることの喜びを歌に乗せて、レイアちゃんに伝えることなんじゃない?」
「演じることの喜び……喜びか…」
彼の優しい声色にときめきながらも、アンジェリカは黙って頷いた。
アンジェリカは改めてまっすぐ自分を鏡で見つめ直した。
さっきまで怯えていた陰がなくなっていくのが分かる。鏡に映る新緑の瞳に光が灯り、心の奥底に眠っていた闘志に火がついた気がした。
「そう!その顔。私が好きなのはこの表情よ!いい?アンジェリカ。プロになっても私たちはいつだってチャレンジャーなの。どんな試練だって、私たちが協力し合えば乗り越えていけるんだから!」
「やるしかないものね」
「そう!やるしかない」
「ジュリアス」
「ん?」
「あなたがいてくれて良かった。ずっと協力してね」
「バカ!」
彼はアンジェリカの頬に軽くキスをした。
アンジェリカが一呼吸置く。
「……あのね。……言いそびれたんだけど、……ダグラスが自宅謹慎になったみたいで、代わりにカルロス隊長がレイアを連れてここに来てくれるらしいわ」
すると、ジュリアスの表情が固くなった。
「ちっ、ちょっと!!なんでぇー?なんで、そういうこと早く言ってくれないかしらぁぁああーーー!!」
彼は力の限りアンジェリカを揺さぶり、視界がクラクラと揺れた。
「あっ、あっ、おっ、おっ、落ち着いてぇぇぇ―――!!!」
「これが、落ち着いていられますかっての!!別れたあの人が来ちゃうのよぉーー!!」
ようやくアンジェリカから手を離したジュリアスは、稽古場をウロウロ歩き出す。
慌てふためく彼の様子に、アンジェリカの胸がもやもやと疼く。
「レイアちゃんたちは、いつ来るのよ?」
「来週の土曜日だけど?」
「えっーーー!!!来週!?もうすぐじゃない!!」
頭を抱え、眉間にしわを寄せ、めいいっぱい喚くジュリアス。
「……ぜひあなたには、カルロスとレイアに会ってほしいと手紙に書かれていたわ」
「レイアちゃんがあたしに何の用があるって言うの?それに、カルロスとはもうお別れしたのに会いづらいわ!!」
「私と貴方の誤解を解きたいんですって」
「ダグラスったら……。レイアちゃんは分かるけどさ。……カルロスは元彼よ?私が勝手にさよならした男。今更会ったって、どうしようも……」
「カルロスはまだ独身だそうよ?」
「ええっ!?彼、まだ結婚してないの?30過ぎているのに?」
彼の口元が一瞬緩んだのを、アンジェリカは見逃さなかった。
アンジェリカは思わずスカートを握りしめた。
「……あのさ、動揺してる?」
「バカ!他人の心配するぐらいなら、あんたは舞台の心配をしなさいよ!」
「……うん」
アンジェリカは彼に今の気持ちを聞くのが怖くて、何も言わないことにした。
30分後に投稿します。




