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【ほんとうに?】
声が聞こえる。
カガチの声ではない。
男か女か、若いのか年老いているのか、それさえ分からないほど曖昧で、どこか遠い。
海に落ちたはずの身体はいまだ沈み続けているのか、それとも海の底にいるのかも分からない。
殺したくない。
殺したくない。
殺したく、ない。
【覚えてる。】
【月のなまえのこと。日ごとにかわる、月のなまえのこと。ねえ、でも、私たちは望んでいなかった。】
【世界に絶望してはいなかった。だから世界は続いている。本当に、私たちは必要だった?】
【私たちは必要なかった。】
【だって、世界は続いている。生命が続いているんだから。】
遠い。
遠い声。
ここはどこだろうか。
分からない。
まぶたを縫い付けられたかのように、目を開けられない。
落ちてゆく、ということを理解する。
底のない海のなかで、ただ時折浮遊しながら落ちてゆく。
【必要ないんだ。この世界には。】
俺は、必要のない存在なのか。
この世界に。
誰にも必要とされずに、消えていくのか。
【私たちのような存在は、消えてしかるべき。】
消える。
消えていく。
手が、足が、体が。
心が、記憶が、すべてが。
望んでいない。
人間も、倫之助を、観測者を、カガチを、審判を。
望まれていない。
望む人間など、いるものか。
誰も望まない。誰もが否定する。
死さえも。
生さえも。
――概念さえも。
「――倫之助!!」
崖から落ちた倫之助の名前を叫ぶことしかできなかった。
それ以外、なにも吐き出せなかった。
だが蘇芳エーリクだけは違った。
「はは……ははは……っ! カガチ……! これで……」
「……蘇芳」
狂気じみた笑みを張り付けた蘇芳は、岩に這ったままその先にある洞窟に向かおうとしていた。
その格好は無様で、それと同じほど恐ろしかった。
その姿を見て、静かに呟いたのは半蔵だった。
倫之助が崖から落ちたとき、彼の名を呼ばなかった半蔵が。
「………」
ただ海の底をのぞき込むような、失望をこめた目をしていた。
悲しみも、憎しみもこもっていない目。
「お前の負けだ。蘇芳エーリク」
半蔵の手には六連星が握られている。
うつろな目をした今の彼に、蘇芳を殺すことなど容易だろう。
「半蔵!」
「……別に、殺すつもりはない。こんなくだらない男のために犯罪者になるつもりはない……」
ずる、ずる、と体を引きずりながらも洞窟があるほうへ進む男を見下ろし、そっとくちびるを開いた。
「坊ちゃんはまだ生きている。あのひとが死ぬときは、俺の命も終わるときだ。そう決めていた。ずっと、ずっと前から。あのひとの命は、俺の命だ」
「……半蔵……おまえ」
「あの洞窟の中には、カガチがある。坊ちゃんのなかにいるカガチの、本体が」
ここの崖は絶壁だ。
落ちてしまったら、命はない。
それは見れば分かる。
死体すらあがらないだろう。
だが半蔵は信じているのだろう。生きている、と。
それでも――一彦でさえも、生きているのだと、まだ死んでいないのだと、どこかで信じている節がある。
何故だろうか。
半蔵が言うからではない。
(倫之助は絶望している……。死んでも救われない。そう知ったからだ。今の倫之助が死んでも、他の観測者が顕現する。この世界のどこかに。)
(倫之助が絶望し続ければこの世界は終わる。望もうと、望まなかろうと。だが、まだ世界は終わらない。だから生きている。そう関連付けるのは安易だ。だが――何よりも、俺が、願っている。死んでいない、と。生きていてる、と。)
ぐっと手を握りしめる。
爪が手のひらに食いこむ。
痛みなど感じず、ただ半蔵の背中を見据えた。
彼は風彼此を持ったまま、洞窟へまっすぐ向かっている。倫之助が落ちた、崖を見向きもせずに。
蘇芳は、もう体を引きずってはいなかった。
倫之助の友人の御堂と同じように、崖の上で気を失っている。
カガチの力だろう。
御堂と同時期に中てられたというのに、今まで気を失わずに済んだのは、蘇芳だからだろう。
洞窟の中は、驚くほど明かるかった。
陽が入っているわけではない。
灯がともっているわけでもない。何もないというのに、ただ明るかった。
不気味なほどに。
「ここに……カガチの本体が?」
「ああ。この先だ。この先に、ある」
ふいに違和感を感じた。
半蔵はカガチが「いる」ではなく、「ある」と言った。
生き物なら「いる」ではないのだろうか。
「ここだ」
半蔵が立ち止まった先には小さな、今にも崩れ落ちそうな石の祠があった。赤い鳥居に注連縄、そこに幣が下がっている。
「これが……カガチなのか?」
「そうだ。こんなものが……世界の命運を、坊ちゃんの命を握っている。おかしいと思わないか」
くちびるをゆがませ、失笑するように笑う半蔵は、憎しみを帯びた目で祠を見下ろした。
何をするかなど、火を見るよりも明らかだ。
「半蔵、この祠を壊すつもりか」
「……いや。壊さない。俺がここに来たのは別の理由がある。どうせ壊しても、意味はないからな」
半蔵は風彼此を持ったまま、切っ先を祠へ向けた。
六連星の刃は、ぼんやりと白い炎を纏ったように光っている。
「なにを……」
「カガチを殺す」
「そんなことができるのか?」
「――ああ。無論、五体満足で無事すむとは思っていないがな」
「まさか、おまえ……」
「坊ちゃんを殺すことなんて、最初から無理だったんだ……。俺は、坊ちゃんに生きていてほしい。そう、思っていたのに。あのひとに幸せになってほしい。生きて、幸せになってほしい。そう思っていたのに。どうして、あんな約束をしてしまったんだろう」
そっと笑う半蔵は、今まで見たことのない程、慈愛に満ちていた。




