表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
椎名さんは眠そうに笑う  作者: 雨宮 沙奈
ここにいると思った
54/55

第54話 「前夜、きみがいてくれた」


文化祭前日。


放課後の教室は、完成した「お化け喫茶 闇夜のたぬきカフェ」だった。


黒い布が壁を覆っている。天井から段ボールの骸骨とコウモリが吊り下がっている。入口に航が作ったアーチ。黒と紫のグラデーション。凛のポスターが廊下に列を成している。美咲のメニュー表がテーブルに並んでいる。BGM用のスピーカーが棚の上にセットされている。


そして——椎名が描き直した看板。「闇夜のたぬきカフェ」。入口の横に立てかけてある。プロの仕事ではないけれど、手作りの味がある。おどろおどろしさの中に、どこか可愛い。たぬきモチーフの装飾が店名の周りに描かれている。椎名が最後に描き足したらしい。小さなたぬきが看板の隅でお茶を飲んでいる。


クラスメイトたちが、その看板の前で足を止めていた。


「これ普通に好きなんだけど」


「たぬきいるの反則じゃない? ちょっとかわいい」


「怖がらせたいのか和ませたいのかどっちなんだよ」


「両方でしょ」と結衣が即答した。黒い布と骸骨のあいだで、看板の隅のたぬきだけが違う温度を置いていた。


美咲がメニュー表をテーブルに並べながら「明日、絶対写真いっぱい撮られるよ」と嬉しそうに言った。凛はその横で椅子の位置を数センチ単位で直している。航は入口のアーチを押して強度を確認していた。見た目は面倒そうなのに、最後の確認だけは手を抜かない。


椎名はその全部を見ながら、チェックリストの順番を追っている。ページをめくる指は止まらないのに、看板のところでだけ視線が半拍ぶん長く留まった。


「完成!」


結衣が叫んだ。両手を上げて。目が潤んでいる。涙もろい。でも今日の涙は嬉しい涙だ。


「——じゃない!? まだ微調整ある!?」


結衣が急に不安になる。航が「もう十分だろ」と呆れた声を出す。美咲が「あ、ここの布ちょっとずれてる」と指摘する。凛が「直すよ」と布を引っ張る。


クラスメイトたちが自分たちの作品を眺めている。二週間の準備。放課後の全て。みんなが投じた時間と汗が、この教室に形になっている。


椎名が最終チェックリストを確認していた。ノートを開いて。一項目ずつ。


チェック。チェック。チェック。


全項目にチェックが入った。


その下に、小さく書かれた明日の朝の確認欄が三つだけ残っていた。氷。釣り銭。BGMの音量。全部、開場前に片づく範囲のものだ。


でも今は、誰も次の紙を持ってこなかった。結衣も、美咲も、凛も、航も、みんな自分たちが作ったものを見ていた。問題が一個片づくたび椎名の机に次が来ていた二週間で、その数秒だけは椎名の手から役割が外れていた。


椎名がペンを置いた。ノートを閉じた。


終わった。準備が。


クラスの雰囲気が高揚している。「明日楽しみ!」「お客さんいっぱい来るかな」「絶対来る! 凛ちゃんのポスターめっちゃいいし」。声が飛び交う。笑い声。期待。十月の空気に文化祭の予感が溶けている。


椎名は閉じたノートの上に手を置いたまま、もう一度だけ教室の真ん中を見た。さっきまで張っていた糸が、そこだけ緩んでいた。


「ちさ、明日は何時集合だっけ?」と結衣が聞く。


椎名はノートを開かなくても答えた。「……八時十分。飲食の準備組は八時。航くんは八時十分で大丈夫。結衣さんはできれば五分早く来て」


「なんであたしだけ!?」


「……遅れそうだから」


結衣が反論しようとして、できなかった。図星らしい。美咲が笑い、凛が「わかる」と頷き、航が「的確」とだけ言った。


結衣が反論を飲み込んだ時点で、みんなその精度を知っていた。


◇◇◇


みんなが帰った。


また二人だ。蛍光灯の下の教室。でも今日は片付ける作業がない。最後の確認をするだけ。教室を見回して、忘れ物がないか、壊れかけている装飾がないか。


夕焼けが窓から教室に入った。


黒い布越しに赤い光が滲んでいる。布の隙間から夕日が差し込んで、壁に橙色の筋が走っている。お化け喫茶なのに、夕焼けのせいで温かい色に見える。骸骨の装飾に夕日が当たって、怖いはずのものが不思議と優しく光っている。


椎名が机に座っていた。ぼんやりしている。ノートは閉じたまま。手は膝の上。何もしていない。椎名が何もしていない姿を見るのは——久しぶりだ。二週間ずっと動き続けていたから。


疲れた顔。でも、少しだけ嬉しそう。


「……できちゃったね」


椎名が言った。窓の外を見ながら。夕焼けの空。赤とオレンジ。雲が低い。明日の天気は晴れだ。天気予報で確認した。


「お前のおかげだろ」


「……みんなのおかげだよ」


椎名らしい返しだった。


隣の机に座った。椎名との距離は一つの机分。五十センチ。


「明日、楽しめよ」


椎名が俺を見た。夕焼けの光が椎名の横顔を照らしている。光と影が半分ずつ。片方の目が橙色に染まって、もう片方の目が影の中にある。


「……うん」


椎名の声。少し嗄れていた。声が枯れかけている。二週間、交渉のたびに「職員室用の声」を出していた。クラスメイトに説明するたびに声を張った。椎名は普段の声が小さいから、声を張ると喉に負担がかかる。


嗄れた声。指摘しない。指摘したら椎名は「大丈夫」と言う。そして声を抑えようとして、余計に疲れる。だから黙っている。


その代わり、教室の真ん中に置かれた客席の一つを顎で示した。


「座ってみろよ、一回」


「……何を」


「客の席」


椎名が瞬いた。自分の作った空間の中に、客として座る発想がなかったらしい。


「……いいの?」


「明日になったら座れねえだろ」


椎名が立ち上がって、教室の真ん中の椅子に座った。LEDキャンドルの横。美咲の描いたメニュー表の前。黒い布に囲まれた薄暗い席。普段の教室なのに、そこだけ別の場所みたいだ。


椎名が視線を上げる。天井のコウモリ。入口のアーチ。カウンター。看板。


「……ちゃんと、お店だ」


「そりゃ二週間やったしな」


「……ここから見えるんだ」


「何が」


「……みんなの頑張ったやつ、全部」


椎名はそう言って、テーブルの上のLEDキャンドルを指先でそっと回した。光の色が少し変わる。暖色の小さな灯りが、椎名の指を照らす。


「……カウンターの内側だと、会計と伝票しか見えなかったから」


「明日はずっと奥だもんな」


「……うん。でも、こうして見るとちゃんと分かる。結衣さんの布の位置とか、航くんのアーチの色とか、美咲さんのメニュー表の字とか、凛の写真の置き方とか」


一つずつ名前が出るたび、椎名の声は少しずつやわらかくなった。


「で、お前のやつは」


椎名が瞬いた。


「……僕のは、会計表とチェック欄だから」


「それも店の一部だろ」


「……見えないところだし」


「見えないだけで、ないわけじゃねえよ」


椎名はすぐには返事をしなかった。LEDキャンドルの灯りをもう一度だけ指先で回してから、「……そうかも」と小さく言った。その言い方は、納得より先に、言われた言葉を大事にしまう時の声だった。


夕焼けが沈んでいく。窓の外が赤からオレンジに、オレンジから紫に変わっていく。教室の光が変わる。黒い布の壁が、紫の光を吸い込んで深い色になる。


椅子に座った椎名の手が机の上にある。力が抜けている。指が開いている。爪が短い。椎名は爪をいつもきちんと切っている。几帳面な指先。その指先が長かった二週間の全ての作業をこなした。


俺の手は隣の机の上にある。椎名の手まで三十センチくらい。触れていない。触れる距離ではある。


触れなかった。


蛍光灯が点灯した。自動。タイマーだ。室内が白い光に切り替わった。夕焼けの魔法が解けて、教室がいつもの放課後に戻る。


「……帰ろっか」


椎名が立ち上がった。動きがゆっくりだ。体が重いのだろう。でも——表情は悪くない。疲れているけど、穏やかだ。それでも、今日は肩の力が抜けていた。


教室を出る。廊下。階段。昇降口。


校門を出ると、空はほとんど暗くなっていた。西の端にだけ赤い光が残っている。最後の夕焼け。明日になればまた太陽が昇る。文化祭の朝が来る。


並んで歩く。駅までの道。


椎名がぽつりと言った。


「……文化祭って、みんなで楽しむものなんだよね」


言ったあと、椎名は視線を落とした。


「そうだろ」


「……うん」


少し間があってから、椎名が続けた。


「……でも、気づくと役割の方を見ちゃう。開場前はこれ、営業中はこれ、終わったらこれって」


「今日はもう終わりだろ」


「……うん。だからたぶん、明日始まる時にちゃんと切り替えたい」


駅のホームで電車を待つ間、椎名がトートバッグの持ち手を何度も握り直していた。中に明日のチェックリストが入っているのだろう。準備は終わったはずなのに、まだ確認したいものがある顔。


「まだ何か残ってるのか」


「……残ってない。たぶん」


「たぶんかよ」


「……たぶん、残ってるのは僕の気持ちの方」


珍しい言い方だった。椎名がたぬきの話を使わずに、自分の中身っぽいものをそのまま言う。


すぐに椎名本人も気づいたらしく、「……あ」と小さく声を漏らした。


「……今の忘れて」


「無理だろ」


「……たぬきは発言の取消権を持ってる」


「便利な生き物だな」


椎名がトートバッグの持ち手を指でなぞった。言い直したいことがまだ残っている顔だった。


「……あのさ」


「ん」


「……明日、教室来たら最初に一回だけ声かけて」


「何で」


「……ちゃんと始まったって、分かるから」


準備の二週間は、気づけば始まって、気づけばその日の分が終わっていた。明日だけは、誰かの声で始まると知りたいのかもしれなかった。会計表でもチェック欄でもなく、最初に呼ばれる名前としてそこに立ちたいのだとしたら、その理由はよく分かった。


少し遅れて、うなずいた。


「了解」


駅。改札。ホーム。


電車を待つ間、椎名が空を見上げた。星が一つ。明るい星。金星かもしれない。


「……明日、晴れるかな」


「晴れるって。予報は」


「……うん」


電車が来た。乗った。今日は空いている。隣り合って座った。


椎名が肩に来た。


寄りかかった。頭が俺の肩に触れる。今日は、触れたあとで戻らなかった。


目は閉じていない。開いている。窓の外を見ている。暗い窓。自分たちの反射。


「……疲れた」


「そりゃな」


「……でも、楽しみ」


「だな」


椎名の体重が肩にかかっている。軽い。でも確かにある。温度がある。椎名の体温。制服越しの温もり。シャンプーの匂いが近い。今日は花の匂い。金木犀っぽい。季節に合わせている。


椎名が目を閉じた。寝落ちではない。目を閉じただけ。呼吸が穏やかになる。でも起きている。


「……ありがとね」


「何が」


「……二週間。ずっと残ってくれたでしょ」


「暇だったからな」


「……嘘」


「嘘じゃねえよ」


「……航の手伝いもあったのに、看板も手伝ってくれたし」


「定規押さえただけだろ」


「……定規がなかったら線が曲がってた」


「大した仕事じゃない」


椎名が黙った。肩に頭を乗せたまま。


「……きみがいて、嬉しかった」


声が小さかった。眠りかけの声に紛れるくらい小さい。でも聞こえた。電車の振動に消えなかった。


返事ができなかった。


言葉が見つからなかった。「俺も」とも「別に」とも。何を言っても足りないか、多すぎるか。


椎名の体重が少し重くなった。力が抜けた。今度は本当に寝落ちだ。さっきの言葉の余韻を残したまま、電車の揺れに身を任せて。


肩に伝わる重さは軽いのに、その一言の方がよほど重かった。


窓の外を見た。暗い。街の灯りが流れていく。


椎名の駅が近づく。起こさなければ。


「椎名。もうすぐ」


「……ん」


目を開ける。ゆっくり。瞬き。体を離す。名残惜しそうに——いや、寝ぼけているだけだ。たぶん。


立ち上がる。鞄。トートバッグ。ドアの前。


振り返った。


「……明日ね」


「おう。明日」


椎名が降りた。ホームに立つ。今日は手を振らなかった。代わりに小さくうなずいた。

電車が動く。椎名の姿が柱に隠れたところで、吊り革を握り直す。

次の停車駅が表示板に出る前に、肩を一度だけ回した。

降りる駅まで、その手は離さなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ