第54話 「前夜、きみがいてくれた」
文化祭前日。
放課後の教室は、完成した「お化け喫茶 闇夜のたぬきカフェ」だった。
黒い布が壁を覆っている。天井から段ボールの骸骨とコウモリが吊り下がっている。入口に航が作ったアーチ。黒と紫のグラデーション。凛のポスターが廊下に列を成している。美咲のメニュー表がテーブルに並んでいる。BGM用のスピーカーが棚の上にセットされている。
そして——椎名が描き直した看板。「闇夜のたぬきカフェ」。入口の横に立てかけてある。プロの仕事ではないけれど、手作りの味がある。おどろおどろしさの中に、どこか可愛い。たぬきモチーフの装飾が店名の周りに描かれている。椎名が最後に描き足したらしい。小さなたぬきが看板の隅でお茶を飲んでいる。
クラスメイトたちが、その看板の前で足を止めていた。
「これ普通に好きなんだけど」
「たぬきいるの反則じゃない? ちょっとかわいい」
「怖がらせたいのか和ませたいのかどっちなんだよ」
「両方でしょ」と結衣が即答した。黒い布と骸骨のあいだで、看板の隅のたぬきだけが違う温度を置いていた。
美咲がメニュー表をテーブルに並べながら「明日、絶対写真いっぱい撮られるよ」と嬉しそうに言った。凛はその横で椅子の位置を数センチ単位で直している。航は入口のアーチを押して強度を確認していた。見た目は面倒そうなのに、最後の確認だけは手を抜かない。
椎名はその全部を見ながら、チェックリストの順番を追っている。ページをめくる指は止まらないのに、看板のところでだけ視線が半拍ぶん長く留まった。
「完成!」
結衣が叫んだ。両手を上げて。目が潤んでいる。涙もろい。でも今日の涙は嬉しい涙だ。
「——じゃない!? まだ微調整ある!?」
結衣が急に不安になる。航が「もう十分だろ」と呆れた声を出す。美咲が「あ、ここの布ちょっとずれてる」と指摘する。凛が「直すよ」と布を引っ張る。
クラスメイトたちが自分たちの作品を眺めている。二週間の準備。放課後の全て。みんなが投じた時間と汗が、この教室に形になっている。
椎名が最終チェックリストを確認していた。ノートを開いて。一項目ずつ。
チェック。チェック。チェック。
全項目にチェックが入った。
その下に、小さく書かれた明日の朝の確認欄が三つだけ残っていた。氷。釣り銭。BGMの音量。全部、開場前に片づく範囲のものだ。
でも今は、誰も次の紙を持ってこなかった。結衣も、美咲も、凛も、航も、みんな自分たちが作ったものを見ていた。問題が一個片づくたび椎名の机に次が来ていた二週間で、その数秒だけは椎名の手から役割が外れていた。
椎名がペンを置いた。ノートを閉じた。
終わった。準備が。
クラスの雰囲気が高揚している。「明日楽しみ!」「お客さんいっぱい来るかな」「絶対来る! 凛ちゃんのポスターめっちゃいいし」。声が飛び交う。笑い声。期待。十月の空気に文化祭の予感が溶けている。
椎名は閉じたノートの上に手を置いたまま、もう一度だけ教室の真ん中を見た。さっきまで張っていた糸が、そこだけ緩んでいた。
「ちさ、明日は何時集合だっけ?」と結衣が聞く。
椎名はノートを開かなくても答えた。「……八時十分。飲食の準備組は八時。航くんは八時十分で大丈夫。結衣さんはできれば五分早く来て」
「なんであたしだけ!?」
「……遅れそうだから」
結衣が反論しようとして、できなかった。図星らしい。美咲が笑い、凛が「わかる」と頷き、航が「的確」とだけ言った。
結衣が反論を飲み込んだ時点で、みんなその精度を知っていた。
◇◇◇
みんなが帰った。
また二人だ。蛍光灯の下の教室。でも今日は片付ける作業がない。最後の確認をするだけ。教室を見回して、忘れ物がないか、壊れかけている装飾がないか。
夕焼けが窓から教室に入った。
黒い布越しに赤い光が滲んでいる。布の隙間から夕日が差し込んで、壁に橙色の筋が走っている。お化け喫茶なのに、夕焼けのせいで温かい色に見える。骸骨の装飾に夕日が当たって、怖いはずのものが不思議と優しく光っている。
椎名が机に座っていた。ぼんやりしている。ノートは閉じたまま。手は膝の上。何もしていない。椎名が何もしていない姿を見るのは——久しぶりだ。二週間ずっと動き続けていたから。
疲れた顔。でも、少しだけ嬉しそう。
「……できちゃったね」
椎名が言った。窓の外を見ながら。夕焼けの空。赤とオレンジ。雲が低い。明日の天気は晴れだ。天気予報で確認した。
「お前のおかげだろ」
「……みんなのおかげだよ」
椎名らしい返しだった。
隣の机に座った。椎名との距離は一つの机分。五十センチ。
「明日、楽しめよ」
椎名が俺を見た。夕焼けの光が椎名の横顔を照らしている。光と影が半分ずつ。片方の目が橙色に染まって、もう片方の目が影の中にある。
「……うん」
椎名の声。少し嗄れていた。声が枯れかけている。二週間、交渉のたびに「職員室用の声」を出していた。クラスメイトに説明するたびに声を張った。椎名は普段の声が小さいから、声を張ると喉に負担がかかる。
嗄れた声。指摘しない。指摘したら椎名は「大丈夫」と言う。そして声を抑えようとして、余計に疲れる。だから黙っている。
その代わり、教室の真ん中に置かれた客席の一つを顎で示した。
「座ってみろよ、一回」
「……何を」
「客の席」
椎名が瞬いた。自分の作った空間の中に、客として座る発想がなかったらしい。
「……いいの?」
「明日になったら座れねえだろ」
椎名が立ち上がって、教室の真ん中の椅子に座った。LEDキャンドルの横。美咲の描いたメニュー表の前。黒い布に囲まれた薄暗い席。普段の教室なのに、そこだけ別の場所みたいだ。
椎名が視線を上げる。天井のコウモリ。入口のアーチ。カウンター。看板。
「……ちゃんと、お店だ」
「そりゃ二週間やったしな」
「……ここから見えるんだ」
「何が」
「……みんなの頑張ったやつ、全部」
椎名はそう言って、テーブルの上のLEDキャンドルを指先でそっと回した。光の色が少し変わる。暖色の小さな灯りが、椎名の指を照らす。
「……カウンターの内側だと、会計と伝票しか見えなかったから」
「明日はずっと奥だもんな」
「……うん。でも、こうして見るとちゃんと分かる。結衣さんの布の位置とか、航くんのアーチの色とか、美咲さんのメニュー表の字とか、凛の写真の置き方とか」
一つずつ名前が出るたび、椎名の声は少しずつやわらかくなった。
「で、お前のやつは」
椎名が瞬いた。
「……僕のは、会計表とチェック欄だから」
「それも店の一部だろ」
「……見えないところだし」
「見えないだけで、ないわけじゃねえよ」
椎名はすぐには返事をしなかった。LEDキャンドルの灯りをもう一度だけ指先で回してから、「……そうかも」と小さく言った。その言い方は、納得より先に、言われた言葉を大事にしまう時の声だった。
夕焼けが沈んでいく。窓の外が赤からオレンジに、オレンジから紫に変わっていく。教室の光が変わる。黒い布の壁が、紫の光を吸い込んで深い色になる。
椅子に座った椎名の手が机の上にある。力が抜けている。指が開いている。爪が短い。椎名は爪をいつもきちんと切っている。几帳面な指先。その指先が長かった二週間の全ての作業をこなした。
俺の手は隣の机の上にある。椎名の手まで三十センチくらい。触れていない。触れる距離ではある。
触れなかった。
蛍光灯が点灯した。自動。タイマーだ。室内が白い光に切り替わった。夕焼けの魔法が解けて、教室がいつもの放課後に戻る。
「……帰ろっか」
椎名が立ち上がった。動きがゆっくりだ。体が重いのだろう。でも——表情は悪くない。疲れているけど、穏やかだ。それでも、今日は肩の力が抜けていた。
教室を出る。廊下。階段。昇降口。
校門を出ると、空はほとんど暗くなっていた。西の端にだけ赤い光が残っている。最後の夕焼け。明日になればまた太陽が昇る。文化祭の朝が来る。
並んで歩く。駅までの道。
椎名がぽつりと言った。
「……文化祭って、みんなで楽しむものなんだよね」
言ったあと、椎名は視線を落とした。
「そうだろ」
「……うん」
少し間があってから、椎名が続けた。
「……でも、気づくと役割の方を見ちゃう。開場前はこれ、営業中はこれ、終わったらこれって」
「今日はもう終わりだろ」
「……うん。だからたぶん、明日始まる時にちゃんと切り替えたい」
駅のホームで電車を待つ間、椎名がトートバッグの持ち手を何度も握り直していた。中に明日のチェックリストが入っているのだろう。準備は終わったはずなのに、まだ確認したいものがある顔。
「まだ何か残ってるのか」
「……残ってない。たぶん」
「たぶんかよ」
「……たぶん、残ってるのは僕の気持ちの方」
珍しい言い方だった。椎名がたぬきの話を使わずに、自分の中身っぽいものをそのまま言う。
すぐに椎名本人も気づいたらしく、「……あ」と小さく声を漏らした。
「……今の忘れて」
「無理だろ」
「……たぬきは発言の取消権を持ってる」
「便利な生き物だな」
椎名がトートバッグの持ち手を指でなぞった。言い直したいことがまだ残っている顔だった。
「……あのさ」
「ん」
「……明日、教室来たら最初に一回だけ声かけて」
「何で」
「……ちゃんと始まったって、分かるから」
準備の二週間は、気づけば始まって、気づけばその日の分が終わっていた。明日だけは、誰かの声で始まると知りたいのかもしれなかった。会計表でもチェック欄でもなく、最初に呼ばれる名前としてそこに立ちたいのだとしたら、その理由はよく分かった。
少し遅れて、うなずいた。
「了解」
駅。改札。ホーム。
電車を待つ間、椎名が空を見上げた。星が一つ。明るい星。金星かもしれない。
「……明日、晴れるかな」
「晴れるって。予報は」
「……うん」
電車が来た。乗った。今日は空いている。隣り合って座った。
椎名が肩に来た。
寄りかかった。頭が俺の肩に触れる。今日は、触れたあとで戻らなかった。
目は閉じていない。開いている。窓の外を見ている。暗い窓。自分たちの反射。
「……疲れた」
「そりゃな」
「……でも、楽しみ」
「だな」
椎名の体重が肩にかかっている。軽い。でも確かにある。温度がある。椎名の体温。制服越しの温もり。シャンプーの匂いが近い。今日は花の匂い。金木犀っぽい。季節に合わせている。
椎名が目を閉じた。寝落ちではない。目を閉じただけ。呼吸が穏やかになる。でも起きている。
「……ありがとね」
「何が」
「……二週間。ずっと残ってくれたでしょ」
「暇だったからな」
「……嘘」
「嘘じゃねえよ」
「……航の手伝いもあったのに、看板も手伝ってくれたし」
「定規押さえただけだろ」
「……定規がなかったら線が曲がってた」
「大した仕事じゃない」
椎名が黙った。肩に頭を乗せたまま。
「……きみがいて、嬉しかった」
声が小さかった。眠りかけの声に紛れるくらい小さい。でも聞こえた。電車の振動に消えなかった。
返事ができなかった。
言葉が見つからなかった。「俺も」とも「別に」とも。何を言っても足りないか、多すぎるか。
椎名の体重が少し重くなった。力が抜けた。今度は本当に寝落ちだ。さっきの言葉の余韻を残したまま、電車の揺れに身を任せて。
肩に伝わる重さは軽いのに、その一言の方がよほど重かった。
窓の外を見た。暗い。街の灯りが流れていく。
椎名の駅が近づく。起こさなければ。
「椎名。もうすぐ」
「……ん」
目を開ける。ゆっくり。瞬き。体を離す。名残惜しそうに——いや、寝ぼけているだけだ。たぶん。
立ち上がる。鞄。トートバッグ。ドアの前。
振り返った。
「……明日ね」
「おう。明日」
椎名が降りた。ホームに立つ。今日は手を振らなかった。代わりに小さくうなずいた。
電車が動く。椎名の姿が柱に隠れたところで、吊り革を握り直す。
次の停車駅が表示板に出る前に、肩を一度だけ回した。
降りる駅まで、その手は離さなかった。




