第55話「お化け喫茶へようこそ」
文化祭当日。朝。
校門を通った瞬間に空気が変わった。いつもの通学路と同じ道を歩いているのに、校舎の周りにはためく旗やバナーが空間の質を変えている。色がある。音がある。朝八時なのにもう人が動いている。教室の窓から段ボールの看板が突き出ている。どこかでマイクの音声テストが始まっている。
昇降口。装飾が変わっていた。実行委員会が前日の夜に設置したらしい。入口のアーチに文化祭の垂れ幕。風船。リボン。校舎が別の場所になっている。
教室に入った。
会計カウンターの前にいた椎名が、真っ先にこっちを見た。
「……おはよ」
名前を呼ぶつもりだった。椎名が先だった。
昨日のホームで言われたことを思い出して、先に返す。
「おう。来たぞ」
椎名の口元が、わずかに緩んだ。
「闇夜のたぬきカフェ」が——完成していた。
昨日の夕方に見た時と同じ形。でも、朝の光がまだ入らない廊下側から入ると、薄暗い教室が別世界だった。黒い布。段ボールの骸骨。天井のコウモリ。BGMが小さく流れている。不気味なオルゴール。美咲が選んだ曲だ。テーブルにはキャンドル型のLEDライト。凛が用意した。メニュー表が各席に置いてある。
「朝から鳥肌立つ」
航の声。航がアーチの前に立っている。自分が作ったアーチを見ている。航は表情を変えないけれど、口元がかすかに綻んでいる。自分の仕事に納得している顔。
結衣が走ってきた。
「みんな集合! 最終ミーティング!」
六人が教室の真ん中に集まった。結衣。航。美咲。凛。椎名。俺。
結衣が腕を振り回す。「いい!? 今日は全力! お客さんに最高の体験を! あたしたちの二週間を見せてやるの!」
「……うるせえ」
すかさず航が低く返す。
「テンション高い! でもあたしもテンション高い!」
美咲が両手を上げた。
「落ち着いてね、二人とも」
凛の声がその間に差し込まれる。
椎名が隅にいた。いつもの立ち位置。端。でも——口元が緩んでいる。楽しみにしている顔。
俺は椎名の顔を見ていた。呼ばれる前から、椎名の視線は何度も教室の真ん中へ戻っていた。ノートを持つ手の位置まで、昨日より高い。
「ちさ、タイムスケジュールの確認お願い!」
結衣の声がまっすぐ椎名へ飛ぶ。
椎名がノートを開いた。最後のチェック。
「……午前十時開場。前半シフトはAチーム。昼休憩は十二時から一時まで交代制。後半シフトは——」
椎名の声がいつもより大きかった。嗄れは残っている。でも、通る声。文化祭当日の椎名は、いつもの椎名より前に出ている。
「あと、お釣り足りなくなったらすぐ言って」と椎名が続ける。「……レジ横の缶に百円玉と五十円玉。売上表はここ。ドリンクこぼしたらこの布」
結衣が「はい先生!」と敬礼した。美咲が「ちさ、マジで店長っぽい」と笑う。航が「店長っていうか経理だろ」とぼそっと言った。凛が「店長兼経理兼保険係」と補足して、全員ちょっと黙った。誰も否定できなかった。
椎名はそれを否定しない。ただ、「……保険係ではない」と小さく訂正した。いや、十分その役割もしているだろう。
◇◇◇
十時。開場。
最初の客が入ってきた。隣のクラスの男子三人組。アーチをくぐって、教室に入って、「おー」と声を上げた。暗い。不気味。でもテーブルに座った瞬間、「メニューかわいくね?」と一人が声を上げた。隣のやつが笑う。その軽さで、教室の怖さがちょうどよく崩れた。
美咲が接客に飛び出した。
「いらっしゃいませ〜! お化けに食べられる前にどうぞ〜!」
腕にお化けの仮装——白い手袋と黒いマント。美咲が自前で用意した。ノリノリだ。客が笑っている。「なにそれ」「映える」「写真撮っていい?」。美咲が「どうぞどうぞ! タグつけてね!」とスマートフォンを構える。
結衣も入口で客を呼び込んでいた。「二名さまご案内できまーす! 怖くないです! ちょっとだけ怖いです!」。矛盾しているのに勢いで成立させる。小学生の兄妹連れがその声に釣られて入ってきた。弟の方が骸骨を見て半歩下がり、姉の方が「大丈夫だよ」と手を引く。その様子に結衣が「勇者来店!」と勝手に盛り上がった。
航が奥から「騒ぐな」と言ったが、客にはむしろ受けていた。怖すぎない。文化祭らしい雑さと楽しさがある。その温度に、教室全体がちょうどよく馴染んでいる。
航が奥の調理スペースに立っている。ドリンクを作る。黒いラテ。竹炭パウダー入り。見た目は不気味。味は——美咲が四回目の試作でようやく完成させた。悪くない。
航の頭にお化けの帽子が載っている。尖った黒い帽子。結衣が朝一番に被せた。
「……取っていいか」
「ダメ!」
結衣が即座に叫んだ。航が諦めた顔でラテを注ぐ。帽子を被ったまま。帽子が少し傾いている。似合っている。航は認めないだろうけど。
凛がカメラで記録している。営業中の教室。来場者の表情。テーブルに並ぶドリンク。黒い布越しに漏れる光。凛の写真は構図がいい。何気ない瞬間を切り取るのが上手い。
椎名は——会計カウンターに座っていた。
教室の一番奥。入口から最も遠い場所。小さなテーブルに電卓とノートと釣り銭箱。客が帰るたび、「ありがとうございました」を小さく返して、釣り銭を正確に渡す。
椎名の前を通りかかった。
「楽しめよ」
椎名が顔を上げた。
「……楽しんでるよ」
「ほんとか」
「……みんなが楽しそうだから」
椎名はカウンターの向こうから教室を見ていた。
「椎名も楽しめって」
「……楽しんでる」
「顔が楽しんでない」
「……こういう顔だから」
その直後、小学生の女の子が会計カウンターの前で立ち止まった。帰る前に、椎名の方を見上げる。
「お姉さん、このたぬき描いたの?」
椎名が目を丸くした。「……うん」
「かわいい」
それだけ言って、女の子は母親に手を引かれて帰っていった。
椎名の指先が、レジの横でほんの少し止まった。次の硬貨を取る前に、一度だけ釣り銭箱の縁をなぞる。
「よかったじゃん」
「……うん」
今度の「うん」は、さっきより素直だった。
次の会計で硬貨を揃える指先まで、ほんの少しだけ軽くなって見えた。褒め言葉を受け取ったあとでも、椎名はちゃんと裏方の手つきに戻っていく。
◇◇◇
昼。交代制で休憩。
椎名と二人で廊下に出た。他のクラスの展示を見て回る。
廊下に人が溢れていた。どの教室も違う出し物。演劇。射的。クレープ屋。お化け屋敷。写真展。プラネタリウム。学校が通常の機能を停止して、全てが文化祭の色に塗り変わっている。
椎名が隣を歩いている。人混みの中で小さい体が埋もれそうになる。でも見失わない。椎名の頭は看板のすぐ下にある。制服のリボンが揺れている。
隣のクラスのお化け屋敷に入った。暗い。段ボールの壁。蛍光テープの矢印。どこかでお化け役の生徒が「ウォー」と声を出している。
椎名が全然怖がらない。
暗い通路を淡々と歩いている。骸骨が飛び出してきても瞬きすらしない。お化け役の男子が「ギャー!」と叫んでもぼんやりと見つめ返すだけ。
「……たぬきは夜行性だから暗いのは平気」
「楽しめてないだろそれ」
「……楽しんでる。……ここの動線、うちより狭い」
「分析すんな」
椎名の口元が動いた。笑い。小さい笑い。暗いお化け屋敷の中で、椎名の目だけが光を拾っている。
お化け屋敷を出た。外は眩しい。十月の太陽がまだ高い。目が眩む。椎名が手を目の上にかざして光を遮った。小さい手。
「……あ」
椎名が立ち止まった。
たこ焼きの屋台。料理部が中庭に出している。鉄板の上でたこ焼きが転がっている。生地が焼ける匂い。ソースの甘い匂い。鰹節が揺れている。
椎名の目が——変わった。眠そうな目に、光が差した。微細な変化。瞳孔の開き方。視線の角度。たこ焼きに向いている。真っ直ぐに。
「……食べたい」
「買うわ」
「……いい。自分で——」
「おごる」
「……え」
「おごるって」
椎名が黙った。俺が財布を出して屋台に向かう。「たこ焼き二舟」。紙の舟にたこ焼きが六個ずつ。ソースとマヨネーズと青のりと鰹節。
椎名に渡した。
椎名が受け取る。両手で。爪楊枝を刺す。一個目。口に運ぶ。
「……熱い」
口を開けて冷ましている。はふはふ。小さい口が開いたり閉じたりしている。熱さに弱い。たこ焼きを口に入れたまま、上を向いて息を吐いている。
「猫舌?」
「……たぬき舌」
「たぬき舌って何だよ」
「……たぬきは熱いものが苦手——」
「聞いたことねえ」
椎名が冷めかけたたこ焼きをようやく噛んだ。咀嚼。ゆっくり。肩の力が一段落ちて、持っていた舟が少し下がる。
「……おいしい」
たこ焼きを持つ椎名の指先には、会計カウンターで数字を追っている時の硬さがなかった。熱さに慌てて、頬を緩めて、ソースのついた爪楊枝の先を見つめる。その全部が年相応に見えた。
こういう顔を、もっと見ていたいと思った。
中庭では他のクラスの出し物も賑わっていた。演劇部の呼び込み、吹奏楽の小さな演奏、家庭科部のクッキー販売。学校全体が大きな一つの街みたいに見える。
椎名がたこ焼きの舟を持ったまま、しばらくその景色を見ていた。
「……みんな浮かれてる」
「文化祭だからな」
「……いいね、こういうの」
「今さらだな」
「……うん。今さら」
椎名がそう言って笑った。自分でも少し遅いと思っているらしい。でも遅くても、今こうして見ているならそれでいい気もした。
たこ焼きを食べながら中庭を歩いた。日差しが温かい。風が吹く。金木犀の匂いと、たこ焼きのソースの匂いが混ざる。秋の空が高い。
でも、カウンターの奥の椎名を思うと、胸の奥が落ち着かなかった。
◇◇◇
午後。後半の営業。来場者が増えた。
教室が満杯になっている。テーブルが全部埋まった。廊下に待ちの列ができた。結衣が「入場制限! あたしが仕切る!」と叫んでいる。美咲が走り回っている。航が黒いラテを高速で量産している。凛が写真を撮りながら接客補助に入っている。
椎名は会計カウンターにいた。ずっと座っている。客の流れが速くなる。会計のペースも上がる。電卓を叩く指。紙幣を数える手。釣り銭を渡す動作。正確。速い。
——でも。
椎名の手が一度だけ電卓のキーを外した。
「あ」
小さな声。椎名がすぐに画面を確認して打ち直す。修正は速い。客は気づいていない。正しい金額が出る。
「ちさ、大丈夫?」と結衣が通りすがりに聞く。
「……うん」
返事は速かった。速すぎるくらいだった。言い終わる前に、もう次の硬貨へ指が伸びていた。
俺はカウンターの裏に回って、客から見えない角度で小さな紙コップを差し出した。水。準備用に置いてあったやつ。
椎名が一瞬だけこっちを見る。受け取る。ひとくち飲む。
「……ありがと」
「一回座り直せ」
「……座ってる」
「そうじゃなくて」
意味は通じたらしい。椎名が背もたれに体を預けた。ほんの一秒だけ。
クラスメイトが気づいた。「椎名さんでもミスるんだ〜」。笑い話のトーン。悪気はない。椎名が「……ごめん」と言う。すぐに修正。また淡々と。何事もなかったように。
でも椎名の指の関節が白い。ペンに力を込めるたび、そこだけ色が抜ける。
営業が続く。客が来る。帰る。会計。釣り銭。「ありがとうございました」。繰り返し。椎名は座ったまま。カウンターの向こうで、文化祭の喧騒を処理し続けている。
四時。客足はまだ途切れない。
椎名がカウンターの上に両手を置いて、息を整えるみたいに一度だけ目を閉じた。すぐに開く。
「……五百円のお返しです」
客を案内しながら、教室の奥を見る。行こうとして、列に止められる。次の客。次の会計。次の注文。
俺はトレーを引き寄せて、五百円玉を皿の上に並べた。




