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椎名さんは眠そうに笑う  作者: 雨宮 沙奈
ここにいると思った
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第53話 「群れの端」


文化祭二日前。


朝から教室の空気が違っていた。緊張と高揚が混ざった、甘い焦燥感。廊下を走る生徒。大道具を運ぶ音。他のクラスの準備がこちらにも伝わってくる。文化祭が近い。体が分かっている。


教室は「お化け喫茶」の形にほぼ完成していた。黒い布が壁を覆い、段ボールの装飾が天井から垂れ下がり、骸骨とコウモリが薄暗い室内を支配している。蛍光灯を消せば本格的だ。入口のアーチも航が仕上げた。凛のポスターが廊下に貼られている。美咲のメニュー表がカウンターに並んでいる。


足りないのは——看板だった。


手描きの看板。教室の入口に掲げる、お化け喫茶の顔。美咲がデザインして、美術部の友人に頼んで描いてもらったやつ。昨日の帰りに廊下に立てかけておいた。夜のうちに雨が吹き込んだ。窓が開いていた。誰かが閉め忘れた。


看板のインクが滲んでいた。半分以上。読めない。


結衣が看板を持ち上げて、声を失った。


「……嘘でしょ」


教室が静まった。結衣が泣きそうな顔をしている。結衣は泣かない。声が大きくて強いイメージの結衣が、初めて声を詰まらせた。結衣にとって文化祭は全力だった。装飾の一つ一つに手をかけた。その集大成の看板が、滲んでいる。


「作り直すしかない……!」


でも時間がない。装飾チームは内装の最終調整で手一杯だ。美咲はメニューの仕込み準備。凛はポスターの追加掲示。航は大道具の最終塗装。


教室の空気が一気に落ちた。さっきまで「もう完成だ」と浮ついていた空気が、看板の滲んだ文字を見た瞬間に冷えた。


「乾かして上からなぞるのは?」と美咲が言う。


凛が看板を覗き込んで首を振った。「紙が波打ってる。たぶんきれいには戻らない」


結衣が歯を食いしばる。「昨日のうちに中に入れとけばよかった……」


自分を責める声だった。誰かのミスというより、全員が忙しすぎて確認を一個落とした。その一個が今日のこの看板になっている。


だから余計に、誰も誰かを責められない。


誰が看板を描き直すか。


椎名が口を開いた。


「……僕が描き直す」


結衣が振り向いた。「えっ、ちさ絵描けるの?」


「……まあまあ」


ノートの端のたぬきなら何度も見た。丸くて愛嬌はある。でも教室の入口に掛ける看板を任せたい種類の絵ではない。椎名自身も分かっているはずなのに、先に「僕が描く」が出た。


今必要なのは上手さより、今日中に形にする手だ。誰もそこへ回れないなら、自分の机の横に引き寄せる。それが椎名のやり方だった。


「俺がやるよ、看板は」


俺が言った。椎名の前に。


椎名が俺を見た。眠そうな目なのに、視線だけは速い。もう教室の残り時間を頭の中で割っている。


「……きみ、他の手伝いもあるでしょ。大道具の仕上げが——」


「それは後でいい」


「……でも航一人じゃ——」


航が向こうでローラーを動かしている。俺が抜ければ少し遅くなる。だから椎名は俺を返そうとする。


「……平気。ここは僕が描いた方が早い」


声が小さかった。いつもより。


それでも俺は、新しい模造紙と太いマジックを椎名の机の端に寄せた。椎名はそれを戻さなかった。


「下書きだけなら私も手伝うよ」と凛が言った。凛は本気だった。でも椎名は首を横に振る。


「……ポスター、貼り直しあるでしょ」


「あるけど」


「……凛はそっちの方が早い」


美咲も「色塗るだけならできるよ!」と言ったけど、椎名は「……仕込み優先」と返した。結衣は「ちさ……」と呼びかけるだけで、それ以上言えなかった。


椎名が助けを断るたび、みんなは自分の持ち場へ戻った。正しい判断だった。だからこそ、看板だけが最後に取り残される。誰もサボっていないのに、一枚ぶんの責任だけが椎名の机に残る。


「ちさ、ほんとに大丈夫?」


「……大丈夫」


短い返事のあと、椎名は模造紙を引き寄せた。定規、マスキングテープ、マジック。入口の顔になる一枚だけが、静かに椎名の前へ並ぶ。作業が始まると、椎名の手はすぐ一度止まった。線を引いて、消して、引き直す。絵が得意じゃないことは見れば分かる。それでも、やると決めた手つきだった。


航が俺の視線に気づいた。


「……行ってやれよ」


「でもアーチが——」


「一人でできる」


航が淡々と言う。ローラーを持ち直す。「つか、お前がここにいても気が散るだけだわ」


俺は航に頭を下げて、椎名の机に向かった。


◇◇◇


外が暗くなった。


教室に残っているのは二人だけだ。蛍光灯が白い光を落としている。黒い布に覆われた壁が、夜の教室を別世界に変えている。


椎名が看板と格闘していた。模造紙の上にマジックの線が走っている。「闇夜のたぬきカフェ」——店名の文字。椎名の字は几帳面だけど、看板向きの太い文字は別の技術だ。線が少し震えている。


俺は傍にいた。椎名ができないことだけ手伝う。定規を押さえる。マスキングテープを切る。マジックのキャップを開けて渡す。椎名が「ありがと」と小さく言う。


二人の間に会話は少なかった。看板に集中しているから。でも時々、椎名が顔を上げる。俺を見る。何か言いたそうにして、また看板に戻る。


「……そこ、少しだけ押さえて」


「ここでいいか」


「……うん」


頼みごとはそれだけだった。色を決めてくれとも、文字を書いてくれとも言わない。本当に一人では物理的に足りないところだけを、細く切り取って渡してくる。手伝わせているというより、作業の隙間を一瞬だけ貸してくれる感じだった。


一時間。二時間。窓の外が完全に暗い。校舎は静かだ。他の教室からも声が消えた。


途中で一回だけ、椎名の線が大きくずれた。文字の縁取りが少し外に飛んだ。


「……っ」


小さく息を呑んで、すぐ修正する。白のポスターカラーで塗りつぶして、乾く前に上から引き直す。手際は悪くない。でも完璧じゃない。疲れている人間の手つきだった。


「休めよ」と言いかけて、やめた。休んだところで終わらない。終わらないものを前にしている人間に「休め」は届かない。


代わりに、定規を持つ指に力を入れた。線がぶれないように。今はそれしかできない。


椎名がふとペンを止めた。窓の外を見る。暗い。


「……こういうの、慣れてるの」


俺が聞いた。聞こうと思っていたわけじゃない。口から出た。


椎名が振り向いた。


「……え?」


「そこまで一人で抱えるの」


椎名が黙った。


開店表の紙が、椎名の指の下で少しだけ鳴った。


俺はその紙を先に引き寄せて、自分の机の上へ置く。


窓の隙間から入っていた風で端がめくれたので、紙の四隅を手のひらで押さえた。


椎名が口を開いた。


「……中学のときも、実行委員じゃないのに、こういうのやった」


中学では正式には実行委員じゃなかったと言っていた。前に聞いたとき。あの一拍の間を挟んで。


でも今はそれを問い返す気にならなかった。


「……そうなのか」


椎名がうなずく。小さく。手が膝の上にある。マジックを持ったまま。


「……終わる頃には、だいたい一人だった」


言葉が途切れた。唇が一度だけ動いて、閉じる。いつもの調子ならそこでたぬきの話に逃げるはずだった。でも椎名はマジックを握ったまま、次の一言をそのまま持ち上げた。


「……たぬきは、群れの中で一番先に警戒態勢に入るの。危険を知らせるのはいつも、群れの端にいるたぬき」


「群れの端」。


その言い方だけが、看板のインクの匂いの中に残った。


「大丈夫だよ」とも「俺がいるから」とも、言えなかった。


代わりに、その言葉だけ覚えておくことにした。


椎名がマジックを持ち直した。看板に戻る。最後の一文字。「カフェ」の「フェ」。線を引く。慎重に。手が少し震えている。疲れだ。


引き終わった。


マスキングテープを剥がす。線が出る。文字が浮かぶ。


「闇夜のたぬきカフェ」


出来は——及第点だった。美しくはない。プロの仕事ではない。でもおどろおどろしい雰囲気はあるし、文字は読める。色のバランスも悪くない。椎名なりに考えて配色した痕跡がある。


椎名が一歩下がって看板を見た。


「……まあ、これでいっか」


小さく笑った。口角がわずかに上がる。疲れた笑顔だ。達成感と消耗が同居している。目元に疲労の影がある。でも、笑っている。


「いいじゃん」


「……いい?」


「うん。いい」


椎名が看板をもう一度見た。自分の仕事を確認するように。肩の力が抜けた。


「……帰ろう」


「おう」


看板を教室の隅に立てかけた。乾くまで触れないようにする。椅子を戻す。机を拭く。道具を片付ける。椎名は片付けも几帳面にやる。疲れていても手を抜かない。


教室を出た。廊下。暗い。非常灯の緑色の光だけが足元を照らしている。階段の手すりが冷たい。


昇降口。靴を替える。椎名の動きが遅い。靴紐を結ぶ手が鈍い。


校門を出た。夜道。寒い。十月の夜。街灯が等間隔に立っている。光の円が地面に落ちている。その光の中を歩いて、影の中を歩いて。交互に。


椎名の足取りがいつもより遅い。歩幅が狭い。靴底が地面を擦る音がする。いつもは聞こえない音。足を上げる力が落ちている。


並んで歩く。俺が椎名の歩幅に合わせる。


駅までの道。沈黙。でも悪い沈黙じゃない。椎名が時々、夜空を見上げた。星が見える。十月の夜空は高い。冬の星座が東の低い位置に昇り始めている。


「椎名」


「……ん」


「明日、前日だな」


「……うん」


「明日は早く帰れよ」


「……努力する」


「努力じゃなくて帰れ」


椎名の口元がまた動いた。笑い。力のない笑い。


駅。改札。ホーム。電車。


今日の椎名は電車で寝なかった。座って、窓の外を見ていた。暗い窓。自分の顔が映っている。反射。椎名が自分の顔を見ている。


何を見ているのか。何を考えているのか。


明後日の文化祭のことか。管理表の最終確認か。看板の出来栄えか。


それとも——中学の文化祭のことか。


ホームの光に照らされた椎名の横顔は白かった。疲れているのに、どこか静かだった。限界に近いのに騒がない火みたいなものが、中でじりじり燃えている感じ。


文化祭は二日後。ここまで来たら、椎名はたぶん最後まで走りきる。止まってくれない。


だからこそ、どこで手を伸ばすかを間違えたくなかった。


椎名の駅。電車が止まる。ドアが開く。


椎名が立ち上がった。鞄を持った。文芸部のトートバッグを肩にかけた。


ドアの前で振り返った。


「……おやすみ」


「おう」


「……明日、楽しみだね」


声が——嬉しそうでもあり、何か別のものが混じっていた。楽しみと、もう一つ。言葉にならない何か。


椎名が降りた。ホームに立つ。電車が閉まる。動き出す。


椎名が小さく手を振った。


見えなくなった。


スマートフォンが光った。LINE。椎名から。


『……看板、ありがとね。定規押さえてくれて助かった』


真面目か。定規を押さえただけで礼を言う。


『おう。看板いいと思うぞ、マジで』


返信。既読。三点リーダーが表示される。椎名が入力している。


『……明日、入口に掛かったら、最初に見て』


その一文で、さっきまで張りつめていた空気が変わった。

昼間なら抱え込む椎名が、最後だけはこっちに「見て」を渡してきた。


『おう。最初に見る』


『あと朝は、俺が掛ける。お前は開店表だけ見とけ』


既読のあとで、『……じゃあ、お願い』が返ってきた。


『任せとけ』


明日のアラームを二十分早くして、発車ベルが鳴る前にスマホをポケットへ戻した。


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