第52話「見えない重さ」
朝。教室。椎名が席に座っている。
いつもの眠そうな顔。でも今日は、眠そうというより色が足りなかった。唇の赤みが薄い。机の上のノートも角が揃い切っていなくて、消しゴムが定規に半分乗り上げたままになっている。椎名なら席についた瞬間に直す配置なのに、そのままだった。
前髪にも寝癖が残っている。普段なら家を出る前に直しているはずの、小さな跳ね。
「……寝てないだろ」
椎名が顔を上げた。俺を見る。
「……寝た」
「何時間」
「……少しは」
「お前はたぬきじゃないだろ」
椎名が黙った。たぬきの話で逃げようとして、俺に遮られた。
「……四時間」
四時間。昨日の帰りは七時過ぎだった。家に着いて、夕飯食べて、風呂入って——それでも九時。九時から翌朝まで余裕があるはずだ。なのに四時間。何をしていた。
「四時間って、何時に寝て何時に起きたんだよ」
「……二時に寝て六時」
二時。午前二時。深夜に何をしていたかは聞かない。聞けば椎名は答えるだろうけど、答えたところで椎名は生活を変えない。椎名は自分で決めたことを変えない。
チャイムが鳴った。朝の会が始まる。担任が教壇に立つ。椎名はノートを開く。授業用のノート。朝の会の連絡事項を書き留める。几帳面に。正確に。小さな字で。
椎名の手。シャープペンシルを持つ指。力がある。書ける。機能している。でも——指の関節が昨日よりわずかに赤い。乾燥しているのか。血行が悪いのか。十月の朝は冷える。教室は暖房が入らない時期だ。
消しゴムを取ろうとして、椎名の指先が机の上で少し滑った。ほんの一瞬。普段なら起きない小さい空振り。誰も気づかない程度のズレ。でも見えた。
担任が朝の連絡プリントを配った時も、椎名は受け取ってから一拍だけ止まった。普段ならそのまま列の後ろへ回すのに、今日は紙の向きを直してから渡している。その一拍ぶんだけ、椎名の朝が遅れていた。
机の端には文化祭関係のメモが輪ゴムでまとめて置かれていた。きっちり揃えてあるつもりなのに、角だけが少しずれている。整えきれなかった痕跡が、椎名の席にだけ薄く残っていた。
こういう時、自分の目が嫌になる。
消しゴムの向きを直してやることさえ、今は余計な気がした。
◇◇◇
昼休み。
いつもの六人。教室の一角を占拠して弁当を広げる。
「今日のあたしの弁当見て!」
結衣が真っ先にキャラ弁を差し出した。
「……うまそう」
横から航がぼそっと落とす。
「もっと褒めて!」
結衣は不満げに頬を膨らませた。
美咲はもうスマートフォンを構えている。凛が一目見て、「卵焼き巻くの上手いね」と要点だけを褒めた。
椎名が弁当を開けた。
小さい弁当箱。いつもの。白米。卵焼き。ほうれん草のおひたし。唐揚げ二個。品数は普通だ。量が少ないのはいつもと同じ。
結衣が椎名の弁当を覗く。
「ちさ食べないの?」
椎名が箸を止めた。正確に言えば、箸を動かしていなかった。弁当を開けてから三十秒、箸を持っただけで何も口に運んでいない。
「……お腹空いてない」
結衣が眉をひそめた。「ダメだよちゃんと食べなきゃ! 文化祭まで体力いるんだから!」
椎名がうなずく。「……うん」。箸を動かす。白米を口に入れた。飲み込んだ。次の一口までに時間がかかる。
結衣の指先には絵の具が残っている。美咲は昨夜の試作写真をまだ見返している。航の制服には塗料の匂いが染みついている。みんな大変だ。だから椎名の不調も、その列に紛れてしまう。
結衣はまだ引かない。
「ちさ、今日の朝さ、声も小さかったし」
いつも小さい声なのに、今日はさらに小さかったのだろう。結衣なりに見ている。
「……もともと小さい」
「それはそうだけど!」
美咲が「ビタミン足りてないんじゃない?」と言って、自分の弁当からミニトマトを一個差し出した。椎名が少し困った顔をして、「……ありがと」と受け取る。食べる。ゆっくり。そこまでしても、卵焼きには手が伸びない。
凛が静かに言った。「終わったら一回ちゃんと寝た方がいいよ」
椎名はうなずいた。「……文化祭終わったら」
文化祭が終わるまで、寝る方を後回しにする言い方だった。
椎名は席に座ったままなのに、昼休みの終わりには走り回っている結衣より先に色が抜けて見えた。
椎名が卵焼きを箸で持ち上げた。口に運ぶ前で止まって、少し考えてから弁当箱に戻す。
椎名はいつも卵焼きを最後に食べる。甘いものを最後まで残す、その小さい癖ごと今日は止まった。
「ごちそうさま」
椎名が弁当箱を閉じた。卵焼きが一つ入ったまま。
「全部食べてない!」
結衣の声がすぐ飛ぶ。
「……お腹いっぱいだから」
椎名は閉じた弁当箱を見たまま答えた。
「ダメー!」
「……無理に食わせんなよ」
結衣を止めたのは航だった。
「体調悪い?」
今度は美咲が身を乗り出す。
「……ちょっと食欲がないだけ」
椎名は小さく首を振った。
凛が何も言わずに椎名を見ている。結衣の心配も本物だったけど、昼休みの話題はすぐ次の装飾案に流れていく。心配する時間まで、みんな少しずつ足りていない。
椎名は弁当箱をしまったあと、空になっていない水筒の蓋だけを閉め直した。飲むわけでもなく、そこだけきっちり締める。
文化祭前なら、誰だって少しは疲れて見える。でも、卵焼きを残す椎名だけは見たことがなかった。
◇◇◇
放課後。
教室で準備が進む。結衣が声を張り上げている。美咲がドリンクの最終試作をしている。航が入口アーチの塗装をしている。凛がポスターの最終版を印刷してきた。
椎名は今日も窓際の机にいた。
昨日までと同じ場所なのに、机の上だけが少し荒れて見える。ノートは三冊とも開きっぱなしで、電卓は斜め、スマートフォンは確認途中の画面のまま伏せきられていない。
結衣も一度、「発注まわり、あたしが受ける!」と椎名の横に立った。
「これ、どっち買えばいい?」
「……黒布は代替品に変わったから、こっち。入口の分は数を減らした」
「じゃあこのレシートは?」
「……昨日の追加分。予算表の二枚目」
「この紙は?」
「……時間変更の申請書。もう一回書き直す方」
三十秒で、結衣が両手を上げた。
「ごめん、今のなし! ちさ、そのまま続けて!」
ちょうど担任が戸口から顔を出した。
「椎名、時間変更の紙、今日中な。職員室、六時までだから」
「……はい」
結衣が「どれ!?」と振り返るより先に、椎名は机の山から申請書を抜き出していた。机の上には「予算表の二枚目」「先生確認前」「当日シフト仮」と、途中から見ても意味がつながらない紙が何層にも重なっている。引き継ぐには、まず椎名の頭の中を読み取らないといけない。
クラスメイトが来る。「椎名さん、これの確認お願い」「椎名さん、ここの数字合ってる?」「椎名さん——」。
椎名が全部応じる。「……わかった」「……合ってる」「……こっちに修正して」。
凛が予算表の端で指を止めた。
「ちさ、ここ合計一桁多い」
椎名が電卓を打つ手を止める。
「……あ」
声にならないくらい小さかった。
打ち直した数字は千円ぶんだけ下がった。たった一桁。でも、椎名が文化祭の数字で止まるのを初めて見た。
淡々と。表情を変えずに。
大道具の手伝いをしながら、何度か椎名の机の前に回った。「備品の場所は俺に聞け」「レシートはこっち」と間に立つ。二、三人分はそれで止められた。
それでも、数字と締切の話になると、みんなの足は椎名の机の前で止まる。
「……藤原」
航が声をかけてきた。小さい声。俺にだけ聞こえる声。
「ん」
「椎名さん、やばくね」
航がペンキのローラーを動かしながら言う。視線は板の上。俺を見ていない。声だけが低く届く。
「……分かってる」
「分かってんなら何とかしろよ」
「……できたらしてる」
航が一瞬だけ手を止めた。ローラーが板の上で静止する。航が俺を見た。イヤホンが片耳から落ちた。
「……できないのか」
「備品の質問はこっちで止めてる。さっきも『もう上がれ』って言った。けど『まだ残ってるから、僕がやる』で返される」
航が黙った。ローラーを再び動かし始める。塗料が板の上に広がる。黒。お化け喫茶の内装。
「……まあ、あの人はそういうタイプだわな」
航は塗料を均す手を止めなかった。言い方は雑でも、椎名がそうやって自分の分を増やしていくところを見慣れている声だった。
「でもよ」
航が言った。
「あの人が限界来たとき、隣にいんのはお前だろ」
それだけ言って、航はイヤホンを耳に戻した。
◇◇◇
みんなが帰った。
教室に二人。蛍光灯。椎名の机に光が落ちている。
椎名がまだ作業をしている。タイムスケジュールの修正。当日のシフト表。予備の備品リスト。三冊のノートが開いている。
俺は椎名の前の机に座った。
「俺も残る」
椎名が顔を上げた。
「……なんで?」
「何でもいい。手伝えること、ないか」
椎名が少し考えた。ペンが指の間でくるりと回る。一回転。思考の癖。
「……じゃあ、この棚の整理」
教室の後ろにある棚。文化祭の準備道具が雑然と詰め込まれている。テープ、ハサミ、マジック、画用紙の端切れ、紐、養生テープ。バラバラだ。
「道具が探せないと明日みんなが困るから」
「分かった」
棚に向かった。道具を一つずつ出して、種類別に並べ直す。テープ類はテープ類で。刃物は刃物で。紙は紙で。単純作業だ。頭を使わない。でも——椎名が「手伝えること」として俺に渡してくれた仕事だ。
会計でも交渉でもない。でも今日は、それで十分だった。椎名の机の外へ一つ仕事が出ただけで、教室の空気が少し変わる。
棚を整理している途中で、二度ほど椎名に呼ばれた。
「……その青いテープ、こっち」
「……はさみ、一本だけ貸して」
手を伸ばせば自分でもできる距離のものだった。それでも今日は俺を呼ぶ。小さいことほど、昨日までとの違いが見えた。
椎名が俺の方をちらりと見た。棚を整理している俺の背中を。視線を感じた。振り返らなかった。
棚が片付いた。道具が種類別にきれいに並んでいる。
「できた」
椎名がうなずいた。「……ありがと」
振り返った椎名の目は、昨日までより少しだけやわらかかった。小さい声でも、「ありがと」の温度だけは違った。
窓の外。暗い。十月の六時半。もう外は夜だ。
「帰ろう」
「……うん」
椎名がノートを閉じる。一冊目。二冊目。三冊目。重ねて、鞄に入れる。
立ち上がる。椅子を引く。
椎名の体がふらついた。
一瞬。ほんの一瞬。立ち上がった直後、足に力が入らなかったのか、体が横に傾いた。机の角に手をついて、体を支えた。
「……っ」
「おい」
「……立ちくらみ。もう治る」
治った直後の軽さは、まだ声に戻っていなかった。
「座れよ」
「……もう治った」
「今その台詞、説得力ないだろ」
椎名が何か言い返す前に、鞄の持ち手を取った。
「……きみ」
「駅まで持つ」
椎名の指が、一瞬だけ持ち手に残った。離すかどうか迷うみたいに。けど次の瞬間、力が抜けた。
「……悪い」
「あとで返せばいい」
椎名はそのあとも二歩ぶんだけ、手を上げかけていた。やっぱり自分で持つ、と言い出すタイミングを探すみたいに。でも指先に力が戻らないまま、結局その手は制服の裾へ落ちた。
教室を出た。隣に並ぶ。椎名の歩幅はいつもより遅い。でも椎名は普通の顔をしている。眠そうな顔。いつもの顔。
肩にかけた鞄は、思っていたより重かった。ノート三冊。電卓。ファイル。筆箱。さっきまで机の上に散っていたものが、まとめて腕に来る。
紙の角が腕に当たるたび、今日一日で椎名が処理した確認と修正がそのまま入っているのがわかる。
駅の階段の前で、椎名が一度だけ足を止めた。ただ一拍ぶんだけ呼吸を整えて、それから何でもない顔で一段目に足をかける。
俺は肩の鞄を持ち直して、椎名の半歩後ろに合わせる。
踊り場まで上がっても鞄は下ろさない。
改札の手前まで、そのまま持って歩いた。




