第51話「拍手のあと」
文化祭まであと十日。
昼休みの終わり、廊下の使用予定表を見ていた結衣が、ほんとうに嫌なものを見つけた時の声を出した。
「ちょっと待って。火曜の放課後、うちと二組、同じ場所使うことになってる!」
白いボードの北側廊下の欄に、うちの赤丸と二組の青丸が重なっていた。
うちは入口の骨組み搬入。向こうは照明機材の運び込み。
どっちも外せない。
「は?」
「今さら?」
「廊下つぶれたら運べないだろ」
教室の空気が一気にざわつく。
結衣は予定表と入口の設計図を見比べて、ほとんど泣きそうな顔になった。
「うち、火曜に骨組み入れないと後ろ全部ずれるんだけど!」
凛が確認印のところを指した。
「先生の印、両方ついてる。たぶん見落とし」
「見落としで済むやつじゃないんだけど!」
誰かが担任を呼ぼうとした、その前に椎名がノートを開いた。
小さい字で埋まった進行表の端に、もう細い線が何本か引いてある。
「……二組の実行委員、今いると思う」
それだけ言って立ち上がる。
慌てた顔はしていないのに、動きだけは早い。
「見てくる」
「ちさ、お願い!」
結衣がすがるみたいに言った。
「あたし今ここ離れると、入口の寸法のとこ止まる!」
「……うん」
俺も少し遅れて廊下へ出た。
二組の教室前には、眼鏡の男子が予定表を見上げていた。
向こうも今、気づいたらしい。
椎名は先に頭を下げる。
「……ごめん。時間、被ってた」
相手のせいにしない言い方だった。
それだけで、向こうの肩が少し下がる。
「いや、こっちも今見た。火曜に照明入れないと厳しいんだよ」
声は強くない。でも、簡単には引けない時の声だった。
うちの都合だけ通す形になれば、その場でまとまらない。
椎名は一度も「でも」と言わなかった。
ノートの端を指で押さえて、先に譲れるところから出す。
「……照明、準備室の奥から入れる?」
「ああ。台車二往復」
「……なら、廊下を空ける時間は十分で足りる」
「うちは前の扉から骨組みだけ入れて、壁沿いに寄せるから」
「通路は残す」
相手が少し考える。
「それなら、搬入終わるまでは待てる」
「ただ、先生に紙出し直さないと面倒かも」
「……そこは僕がやる」
椎名はノートを開いて見せた。
準備室、北側廊下、鍵の受け取り、担任への申請。
必要なところだけ、色の違う線でつながっている。
「……昼休みの最後十分だけ、うちが先に廊下を使いたい」
「骨組みを入れたら、放課後は準備室の中だけで動けるから」
「その代わり、木曜の暗幕はそっちを優先でいい。うちは金曜に回せる」
相手がノートに顔を寄せた。
「木曜譲ってくれるなら助かる。鍵は?」
「……僕が昼に先に受け取る。終わったら、そのまま準備室で渡す」
「書き直しの紙も、僕がまとめる」
相手はそこでやっと、少しだけ笑った。
「準備してきたみたいに話すな」
「……被った時の順番は、さっき考えた」
さっき考えた、にしては早すぎる。
結衣の声が上がる前から、椎名はたぶん進行表の端で何通りか潰していた。
「じゃあ、それでいこう」
決まるまで五分もかからなかった。
椎名は軽く会釈して、すぐ教室へ戻る。
戸を開けた瞬間、結衣が飛んできた。
「どうだった!?」
「……火曜の昼休み最後十分、うちが廊下。放課後は二組が照明」
「木曜の暗幕は向こう優先。書き直しの紙は僕が出す」
教室じゅうの息が、一度に抜けた。
「助かった……」
「回ったな」
「よかった」
結衣が両手を上げる。
「ちさ天才!」
その声をきっかけに拍手が起きた。けれど余韻は三秒も持たなかった。
「椎名さん、これ時間の書き直し」
「鍵の確認どうする?」
「受付表、順番変わる?」
拍手した手のまま紙が差し出され、椎名の前にまた山ができる。
結衣が眉をひそめたところで、ようやく何人かが手を止めた。
「先に直せるとこはこっちでやる」
「印刷はあたし持つ」
「順番の組み直しは私がやる」
助かった空気が、その場で少しだけ役割分担に変わる。それでも椎名は「……じゃあ、最後だけ見る」と答えて、いちばん重い束だけを手元へ寄せた。
今いちばん詳しくて、いちばん早く決められるから、そこへ流れる。
悪気のない顔のまま、椎名だけ返事の回数が増える。
結衣がそれを見て眉をひそめる。
「ちさ、それ今日何回目?」
「……何が」
「『僕がやるから』」
「それ言うたび、机の上に仕事増えてるんだけど」
教室の何人かが、そこでやっと椎名の手元を見た。
まだ低いけど、もう一人分じゃない。
さっき紙を引き戻した男子が、自分の申請書と椎名の机を見比べてから、「先に直せるとこ直すわ」と小さく言った。
凛も受付表を自分の側へ寄せた。
「順番の組み直しだけなら、こっちでできるよ」
美咲が名札の束を抱えた。
「印刷し直し、あたし職員室のプリンター借りてくる」
拍手のあとに残る仕事が、そこで少しだけ見える形になる。
椎名は少しだけ黙ってから答えた。
「……今は集めた方が早いから」
「早いのはそうだけど!」
結衣が言い返しかけたところで、美咲に呼ばれた。
「結衣、入口の布の長さ!」
「今行く!」
去り際に、結衣がもう一度振り返る。
「ちさ、あとで絶対見せて。何抱えてるか」
「……うん」
返事はした。
でもその手は、もう次の紙を受け取っていた。
俺は椎名の机の前に回り込んだ。
差し出されかけていた申請書を先に取る。
「先生に出す紙は俺に渡せ。時間の確認だけ椎名に聞く」
「え、藤原わかる?」
「わかるように今から聞く」
椎名がこっちを見る。
眠そうな目が少しだけ動く。
「……十一時十五分。鍵は昼休み最後。放課後は二組優先」
「あと、先生に出す紙は先に訂正理由も書いといて」
「使用場所重複、時間再調整って」
「了解」
俺はその場で書いて、自分の側へ置いた。
「シフトは後。まず時間変更」
「一個ずつ持ってこい」
少し流れを切るだけで、みんな一回考える。
その一回がないと、紙は全部まっすぐ椎名へ行く。
航が骨組みを押さえたまま、ぼそっと言った。
「拍手のあとが一番忙しいって、意味わかんねえな」
「ほんとそれ」
美咲が即答した。
意味がわからないまま、そういうふうに回る。
助かったから任せる。任せられるから引き取る。
誰も悪くない顔のまま、仕事だけ増えていく。
放課後になる頃には、椎名の机の上の紙が三つの山になっていた。
俺が途中で抜いたぶんを入れても、まだ多い。
結衣が鞄を肩にかけながら言う。
「ちさ、二十分だけ! 本当に二十分!」
「藤原、見張っといて!」
「見張りって何だよ」
「そのまんま! ちさ、自分で止まんないから!」
椎名は否定しなかった。
残った紙だけを机の中央へ寄せる。
みんなが帰ると、教室は急に広くなった。
塗料と足音が消えて、蛍光灯の音だけが残る。
椎名はノートを開いた。
進行表の余白に、小さいたぬきが一匹描いてある。
端の方にいて、横に小さく書いてあった。
群れの端。
「……見えた?」
「見えた」
椎名は少しだけ困った顔をした。
「……端にいると、こぼれたものが見えるから」
「拾う役か」
「……たぶん」
俺はスマホのタイマーを机に置いた。
「二十分。それ以上は帰る」
「……うん」
うなずいたくせに、椎名の手はすぐ紙へ伸びる。
だから、その前に俺が山を手前へ引いた。
「まず分ける」
「……ん」
先生用の束には、時間変更の申請と鍵の確認、担任へのメモ。
二組の束には、渡す順番と搬入経路の清書。
クラス内の束には、今日やらなくていいものまで混じっていた。
見えてしまえば単純だった。
でも混ざったままだと、全部が今日の仕事みたいな顔をする。
「先生に出すやつ」
「二組に渡すやつ」
「クラス内で回せばいいやつ」
一枚ずつ見せると、椎名は短く答えた。
「……先生」
「……二組」
「……クラス」
三回目あたりから返事が速くなる。
どこを見るか外に出ただけで、頭の中の渋滞がほどけるらしい。
俺はクリップで三つに束ねた。
付箋に、先生、二組、クラス内と大きく書く。
「今は先生だけ見ろ」
椎名が短くうなずいて、二組とクラス内の束を机の端へ押しやった。
全部じゃない。今日見るものが、そこで初めて一つになった。
椎名が先生の束を手元へ寄せた。
肩の力が、ほんの少し落ちる。
視線の動きも変わった。
さっきまで机の上を何度も往復していたのに、今は目の前の一束だけを追っている。
それだけで、ペン先の迷いが減る。
「……ありがと」
「まだ早い」
椎名が先生用の紙を清書している横で、俺はクラス内の束を整理した。
今日いらないものを後ろへ回し、明日でいいものは別のファイルに入れる。
そのときスマホが震えた。
結衣からだった。
『明日八時十分集合でいい!? 鍵だれ取るの!?』
俺は机の上の束を見て、そのまま返した。
『八時十分でいい。鍵は俺が取る』
『今日はもう椎名に聞くな』
すぐ既読がつく。
『了解! 助かる! ちさ帰らせて!!』
「結衣に返しといた」
「……何て」
「八時十分集合。鍵は俺」
椎名のペンが止まった。
「……鍵、僕が」
「それが今日一番だめなやつ」
言うと、椎名は口を閉じた。
言い返さない。自分でも、今のが反射だったとわかった顔だった。
「明日の鍵は俺」
「椎名は先生用の紙と、二組に渡す最終版だけ」
「……うん」
今度の返事は小さい。
でも紙は取り返してこなかった。
その代わり、机の端に置いてあったクラス内の束を一回だけ見た。
手を伸ばしそうになって、やめる。
俺はその束をもう一度めくった。
受付表の並び替え、名札の再印刷、布の長さ確認、買い出しのメモ。
急ぎの顔をしているけど、今夜じゃなくていいものばかりだった。
「これ、結衣」
「これは美咲でもできる」
「布の確認は凛に回せる」
一枚ずつ見せると、椎名は少し考えてからうなずいた。
「……うん」
「それで足りる」
「足りるなら、最初から振れ」
「……振る前に、自分で見た方が早いと思ってた」
「その結果が今日の机だろ」
椎名はそこで言い返さなかった。
代わりに、クラス内の束の一番上へ小さく名前を書いた。
結衣。美咲。凛。
自分の名前は、書かなかった。
タイマーが鳴る少し前に、先生用の束はなくなった。
二組の束も最後の一枚になっている。
机の上に残ったのは、明日でいい紙だけだった。
「……減った」
椎名が少し驚いた声で言う。
「最初から分ければ、そのくらいだろ」
「……僕、全部一回ずつ見ないとだめだと思ってた」
「だから机に山ができる」
「……見ないと、落ちる気がしてた」
「落ちる分は、最初から誰かに持たせろ」
椎名はノートの端を指で押さえた。
「……拾うのは上手でも」
「抱えるのも上手だと、たぶんよくないね」
自分で言って、少しだけ困った顔をした。
椎名が自分の癖を自分の言葉で認めるのは珍しい。
「明日は端に行く前に呼べ」
「こぼれてからじゃ遅い」
椎名は返事の代わりにノートを閉じた。
教室の電気を消して、廊下へ出る。
黒布を張った壁が、薄暗い中でぼんやり浮いていた。
昇降口まで歩きながら、俺は昼の光景を思い出していた。
拍手のあとに差し出された紙。
助かった、のすぐ後ろで増える仕事。
山になってからなら分けられる。
でも、本当に止めないといけないのはその前だ。
椎名が鞄の口に手を入れて、明日のメモを確かめかけた。
俺が見ると、途中でやめる。
「……いま見なくていい?」
「いま見たら、また増えるだろ」
「……そうかも」
その返事が少しだけ素直で、昼より疲れているのがわかった。
「結衣、気づいてたな」
「……何に」
「お前が『僕がやるから』って言うたび、仕事が机に乗ること」
椎名は靴を履き替えてから、ぼそっと言った。
「……大丈夫、って言うと」
「ほんとは大丈夫じゃないの、見えるから」
そこでいったん言葉が切れる。
「……でも、『僕がやるから』なら」
「手を止めないで済む」
言い訳じゃなかった。
助けを拒むためじゃなく、止まらないための言葉なんだと思う。
校舎の外に出ると、夕方の空気が少し冷たかった。
明日また何か起きたら、椎名はたぶん同じ言葉を先に出す。
そのあとで机に山ができる。
待っていたら、また拍手のあとになる。
だったら次は、その前だ。
横で、椎名が小さく言った。
「……明日、たぶんまた言う」
「何を」
「……『僕がやるから』」
自覚はあるらしい。
だったら、明日は椎名の机の横に先に立つ。
家に着いたら、自分が引き受けられる作業をメモに書き出す。
紙が積まれる前に一枚引き取る。それだけは先に決めた。




