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椎名さんは眠そうに笑う  作者: 雨宮 沙奈
ここにいると思った
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第50話「夜中のリスト」


文化祭まであと十一日。


朝のホームルームが終わった瞬間、結衣の声が教室の前方で跳ねた。


「え、ちょっと待って。黒布、半分しか来てないんだけど!」


開封された段ボールの中。折りたたまれた黒い布は薄く積まれていた。床に置いた納品書と見比べても、足りない。見ればわかる量だった。


教室の空気が一気にざわつく。


「半分って何」

「うそだろ」

「入口まだ手つけてないじゃん」


お化け喫茶の壁は七割まで黒で埋まっている。残りの壁と、入口の垂れ幕。その分が丸ごと抜けた計算だった。


結衣が段ボールの周りをぐるぐる回る。考える時の結衣は歩く。歩幅がでかい。


「いや無理無理無理、あと十日だよ!? 他のクラスも暗い系使ってるし、今から取り合いじゃん!」


椎名が納品書を指で押さえたまま言った。


「……配送ミス。向こうに連絡した。追加は最短でも四日後」


「四日後でも遅いって!」


「……うん。だから、待たない」


ざわついた空気の中で、椎名の声だけが静かだった。周りが慌てるほど、こいつは妙に落ち着く。


「……三つある」


結衣の足が止まる。クラスの何人かも椎名の方を向いた。


「ひとつめ。近くの手芸店と百均で黒の不織布を拾う。色は少しずれるけど、照明を落とせば目立ちにくい」

「ふたつめ。入口だけ、布をやめる。細く裂いたビニールかリボンを垂らす。必要量が半分以下になる」

「みっつめ。今ある布の配置を変える。奥と入口を優先して、横は段ボール装飾と影で埋める。追加費用は一番少ない」


言いながら、椎名はもうノートに数字を書いていた。必要な長さ。だいたいの金額。今日中に確認する店の名前。先生に出す申請の締切。


美咲が素直に感心した。

「もうそこまで出てるの、すご」


凛も納品書を覗き込んでうなずく。

「三つ目なら時間も読めるね」


航が段ボールの枠を持ったままぼそっと言う。

「入口リボンの方が、逆にそれっぽいかもな」


結衣が両手を上げた。

「ちさ頼もしすぎ! 助かった!」


周りからも「さすが」「椎名さんいると回るな」「それならいけそう」と声が上がる。


その安堵が、そのまま次の仕事を呼んだ。


「じゃあ、入口の幅って何センチだっけ?」

「それ俺、今から測ってくる」


口に出してから、自分で一拍遅れて気づく。聞く側に回る方が早い空気だった。そこを先に塞いだだけで、教室の向きが少し変わる。


「代替の布、発注番号どれ?」

「メニューの背景も黒で合わせたいんだけど、予算平気?」

「先生に追加申請いるよね?」

「暗幕借りるなら、隣のクラスと時間ぶつからない?」


「背景の予算はこっちで表つくる!」

凛がすぐノートを引き寄せた。


「追加申請はあたし持つ! ちさ、文面だけ!」

結衣も図面を抱えたまま割って入る。


椎名がノートの端を破って、三つに分けた。


「……入口の幅は藤原」

「……背景の表は凛」

「……申請の文面は結衣さん」

「……僕は最後だけ見る」


助かった、の直後に全部が椎名へ戻るわけじゃなくなる。

でも、判断の芯だけはまだこっちを向いたままだ。


椎名は一個ずつ受け取って、「……順番に見る」とだけ返した。落ち着いている。だから余計に、みんな差し出しやすい。


結衣が「ちょい待ち! 一気に投げんな!」と声を張る。今度はさっきより少しだけ効いた。入口の幅は俺、背景の計算は凛、申請の紙は結衣の手元へ散る。それでも椎名のノートには「代替候補」「隣クラス確認」「先生確認」と小さい字が増えていく。


しかも、頼んでいる側に悪気はない。助かったから、次もいけると思っているだけだ。教室の真ん中で動いているやつらほど、返事のたび増える細かい仕事の重さが見えにくい。


足りないのは黒い布だけじゃなかった。手も、時間も、たぶん、断る役も足りていない。


昼休みまでに、椎名は近場の店の在庫を洗い出して、放課後に先生へ出すメモまでまとめた。結衣はその横で声を出し続けていたけど、中心にいたのは結局、椎名の返事だった。


◇◇◇


放課後、結衣と椎名が職員室前の打ち合わせに行くことになった。俺もついていった。


「なんで藤原も来るの?」と結衣が言う。


「暇だから」


「絶対暇じゃないやつの顔してるけど」


うるさい。図星だ。


職員室の前は蛍光灯が白すぎる。廊下のワックスの匂いが少しきつい。先生の前に立った椎名は、教室にいた時よりさらに静かだった。


「……代替案は三つです」


さっき教室で言っていた案を、今度はもっと短く、もっと正確に並べる。必要な追加予算。色味の差が目立つ場所。入口だけ素材を変えた時の見栄え。説明が速い。先生が質問する前に、次の答えまで用意されている。


「入口をリボン状にした方が、むしろ出入りはしやすいと思います」

「追加は千六百円以内で収まります」

「横の壁は装飾を増やせば、布を減らしても空きません」


担任が目を丸くした。


「椎名さん、もうそこまで整理してあるの」


結衣がすぐ乗る。

「ちさ、朝からずっとこれやってたんです! マジ助かってて!」


先生が笑って、「じゃあ追加申請、明日の朝までに出して」と言った。許可は通った。隣のクラスから借りられる暗幕も一本見つかった。


打ち合わせが終わって職員室を出ると、さっきまで張っていた空気が少しだけ緩んだ。結衣は「よし、勝った!」とかよくわからないことを言いながら、教室に走って戻っていく。伝えたい相手が多すぎるのだろう。廊下に残ったのは、俺と椎名だけだった。


椎名が小さく息を吐いた。


「……なんとかなりそう」


「お前、すげえな」


考える前に出た。


椎名がこっちを見る。眠そうな目が一瞬だけ丸くなる。


「……別に。やること並べただけ」


「それができるやつ、そんな多くねえよ」


椎名は視線を落として、ノートの角を親指で押した。左耳の上だけ、髪の間から少し赤い。


「……たぬきは、巣穴が崩れそうになると、とりあえず出口を三つ作るの」


「初耳だわ」


「……きみが知らないだけ」


「絶対今作っただろ」


「……たぬきの世界は奥深いから」


笑ってごまかしたい時の声だった。真正面から褒められると、こいつはすぐたぬきに逃げる。


昇降口まで来たところで、外が急に暗くなった。風が先に来て、そのあと雨粒が落ちる。最初はまばらだったのに、数秒で本降りになった。コンクリートに細かい白が跳ねる。


「うわ、最悪」と俺が言うと、椎名が空を見上げた。


「……今日に限って」


昇降口の屋根の下には、同じように足止めされた生徒が何人もいた。傘立てを見ても、自分の傘はない。結衣はたぶん、雨より先に教室へ戻った。


駅前のコンビニで、一番安いビニール傘を一本だけ買った。透明で、骨も細い。二人で入るには、どう見ても足りない。


「……狭い」


「じゃあもっと寄れ」


「……きみが大きい」


「それはそう」


安いビニールの匂いがした。傘の上で雨粒が細かく鳴る。椎名を濡らさないように傘を寄せると、今度は俺の肩が濡れる。椎名がそれに気づいて、鞄を俺の肩側にずらした。庇うつもりらしい。意味があるほどじゃないけど、こいつはそういうことをする。


駅までの道で、椎名は傘の下からスマートフォンを出した。


「……まだ見るのか」


「……候補、消える前に」


画面に並んでいるのは布の通販サイトと地図アプリだった。雨の中でも指が止まらない。スクロールして、保存して、また別のページを開く。さっき職員室で一回片づいたはずの仕事が、まだ細い糸で椎名の指先につながっている。


「家でやれよ」


「……家でもやる」


そう言って、また画面を見た。


信号待ちで立ち止まっても、椎名の親指だけは動いていた。雨粒が傘の縁から落ちて、スマートフォンの画面ぎりぎりをかすめる。そのたびに少しだけ傘を寄せる。寄せるたび、肩が近くなる。


電車に乗る頃には、俺の制服の右肩だけがしっとり重かった。車内は空いていて、二人とも座れた。椎名はスマートフォンを握ったまま、三駅も経たないうちに目を閉じた。


指から力が抜ける。スマートフォンが膝の上に落ちかけたので、先に受けた。椎名は起きない。たぶん、そこでやっと切れた。


首がゆっくり傾く。


止まるかと思ったけど、止まらなかった。


椎名の頭が、俺の肩に当たる。


軽い。けど、当たった場所だけ妙にわかる。髪が制服に触れる。雨の匂いが少し混ざったシャンプーの匂いがした。薄い体温が、濡れた肩の冷たさを上から押さえる。


俺はそのまま動かなかった。


窓の外は灰色で、ガラスには細い雨筋が流れている。車内アナウンスが一つ過ぎるたびに、肩の重さが少しだけ現実になる。


椎名の駅が近づいて、俺は小さく呼んだ。


「椎名。着くぞ」


椎名が目を開ける。ぼんやりしたまま瞬きを二回して、それから自分の頭が乗っていた場所に気づいた。


「……っ」


すぐ離れた。制服の襟元を直す手つきまでせわしない。


「……ごめん」


「別にいい」


「……寝てない」


「その嘘は無理あるだろ」


椎名は少しだけ黙ってから、「……仮眠」とだけ言った。苦しすぎる言い換えだった。


ドアが開く。椎名が立ち上がる。


「……おやすみ」


「おう。発注終わったら寝ろよ」


「……善処する」


善処で済ませる顔じゃなかった。


◇◇◇


夜、風呂を出たところでスマートフォンが震えた。


椎名から写真が三枚。


白い机の上に、黒に近い布の切れ端が並んでいる。左から、深い黒、少し青みのある黒、灰色に寄った黒。横に三十センチの定規。電卓。ノート。デスクライトの白い光で、色味の差だけがはっきり見えた。


家の机なのに、教室の続きに見えた。


『……代替候補』

『左が一番黒い』

『でも厚さは真ん中』

『入口だけなら右でもたぶん平気』


時刻は十一時四十八分だった。


帰りの電車で寝落ちしていたやつが、今は家の机で布を見比べている。学校で終わらなかった仕事が、そのまま部屋までついて帰っている。


俺は写真を拡大した。布の横に、走り書きのメモがある。入口。長さ未確定。画鋲追加。先生確認。


まだ続いてる。


『お疲れ。もう寝ろ』


送る。既読は早かった。


『……これ送ったら寝る』


嘘だろ、と思ったけど、その次の写真がすぐ来た。入口の簡単な見取り図だった。垂らす本数の候補。間隔。端に小さく「画鋲」と書いてある。


たぶん、寝る前にもう一個やる気だ。


指が勝手に動いた。


『入口の寸法と画鋲の数、明日の朝俺がやる』


送ってから、自分で少し驚いた。手伝う、じゃなくて、やる、と打っていた。


既読がつく。


しばらく返事が来ない。


やっぱり断るか、と思った頃に文字が出た。


『……でも、入口の幅まだちゃんと測ってない』

『画鋲も、箱の残り見てない』


『だから朝見る』

『俺でもできるとこだろ』


また間が空く。


そのあいだに、もう一枚写真が来た。入口の段ボール枠を上から見た落書きみたいな図で、必要そうな箇所に小さい丸が打ってある。椎名の字。細い。途中で一回だけ線が揺れていた。


『……ほんとにいいの』


『いい』


短く返す。


既読。


また少し待ってから、


『……じゃあ』


その次に、


『……お願い』


と来た。


珍しいどころじゃなかった。


椎名は普段、ありがとうは言う。でも頼る時は、先に「大丈夫」を置く。こいつの「お願い」は、たぶんその一個手前を飛び越えてる。


スマートフォンを握ったまま、少しだけ天井を見た。


『了解。朝やっとく』

『お前は発注送ったら寝ろ』


今度はすぐに返ってきた。


『……うん』

『おやすみ』


アラームを二十分早めにかけた。


◇◇◇


翌朝、まだ教室の蛍光灯が半分しか点いていない時間に学校へ着いた。


廊下は静かだった。窓の外の空だけが白い。昨日の雨の名残で、床が少しだけ冷えている。


誰もいない教室に入る。黒い布の張られた壁が朝の光を吸っていた。入口の段ボール枠の前でしゃがむ。メジャーを伸ばす。幅。高さ。リボンを落とす間隔。昨日、椎名が送ってきた図に数字を書き足していく。


やってみれば単純だ。でも、単純なものほど誰かが先に終わらせておけば、そのぶんだけ後が軽くなる。


画鋲の箱も数えた。工具箱の底に半端な箱が一つ。未開封が一つ。必要数を書き出す。予備を入れても足りる。


椎名の机の上にメモを置く。


入口幅一六四センチ。

垂らし二十本でいける。

画鋲は今ある分で足りる。予備込みで五十六。


その下に、付箋を一枚。


『入口と画鋲は見た。今日はこっちで持つ』


字が雑で、自分でも嫌になる。


「うわ、朝から何してんの」


振り向くと、結衣が教室の後ろ扉から入ってきていた。ポニーテールがまだ少し崩れてる。鞄を肩に引っかけたまま、俺の手元を覗き込む。


「椎名の分」


「入口? マジで測ったの?」


「頼まれた」


結衣がメモと入口を見比べて、口を閉じた。珍しく一拍置いたあとで、小さく言う。


「……昨日、ちさに投げすぎたな、あたし」


それは結衣でもわかるくらいには見えてたってことだ。


「全部は無理でも、一回止めろよ」


「止める。今日は止める」


結衣はそこでいつもの顔に戻った。切り替えが早い。


「よし。ちさに行く質問、朝いちは全部あたし通すわ。藤原、そのメモそのまま置いとけ。最初にそれ見せる」


「任せた」


「任された」


言い方だけは妙に頼もしい。


教室に人が増え始めた。装飾係。大道具係。誰かが「椎名さん来た?」と言いかけて、結衣がすぐに指をさす。


「今日はまずあたし! ちさ来るまで質問ためとけ!」


「なんでだよ」と笑いながら返すやつもいたけど、結衣が本気の声を出すと、それなりに止まる。入口についての相談も、追加申請の紙も、いったん結衣のところで引っかかった。


しばらくして、椎名が来た。


いつも通り小さい歩幅で教室に入ってきて、机の上のメモで足を止める。鞄の持ち手を握ったまま、紙を見た。数字を見た。付箋を見た。


眠そうな目が、少しだけ開く。


「……これ」


「朝やっといた」


椎名がメモを手に取る。指先で付箋の端をなぞる。必要数のところまで視線を落として、もう一回だけ入口の方を見る。


「……ほんとに、足りる」


「足りる。予備入れてもいける」


椎名は小さくうなずいた。


「……ありがと」


昨夜の『お願い』より軽い声だった。ちゃんと、少しだけ軽くなった声だった。


その横から、すぐ別の声が飛ぶ。


「椎名さん、昨日の追加申請――」


「待った!」と結衣が割って入る。

「それあたし! ちさ、まず入口確認! 質問はこっち!」


勢いだけじゃなく、本当に止めに来ていた。椎名が一瞬だけ結衣を見る。結衣は親指を立てた。大げさだけど、あれが結衣なりだ。


椎名がまたこっちを見る。


「……助かった」


今度はもっと小さかった。でも、昨夜の文字より近い場所で言われると、そっちの方が残る。


「おう」


それ以上は出なかった。出なくても、たぶん足りた。


教室の後ろで、誰かが走り込んでくる音がした。次の瞬間、別の声が結衣を呼ぶ。


「結衣! やばい! 二組と準備時間、丸かぶりなんだけど! 準備室も廊下も同じ時間使うって!」


結衣が振り向く。


椎名の指が、もらったばかりのメモの上で止まる。


黒い布の次は、時間だった。


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