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椎名さんは眠そうに笑う  作者: 雨宮 沙奈
ここにいると思った
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第49話「たぬきの裏方」


文化祭まであと二週間。


放課後の教室。準備は五日目。黒い布は壁の七割を覆った。段ボールの装飾が天井から吊り下がっている。骸骨。コウモリ。蜘蛛の巣。教室が別の場所に変わり始めていた。普段の蛍光灯を消すと、窓からの光だけで薄暗い空間になる。お化け喫茶としての形が見えてきた。


結衣が教室の奥でメガホンなしで叫んでいる。「ここの布、もうちょい右! 右! そう! いい感じ!」。結衣は声だけで教室を動かす。結衣の声量があればメガホンは不要だ。むしろメガホンを持たせたら校舎全体が震える。


美咲がキッチンスペース——教室の一角に仮設した調理台——でメニューの試作をしている。黒いラテの試作品。竹炭パウダーを入れた牛乳。見た目はお化けっぽい。味は——「まだ改良の余地あり」と美咲が渋い顔をした。


凛がポスターの仮刷りを壁に貼った。黒背景に白い文字。写真入り。雰囲気がある。クラスメイトが「おおー」と声を上げた。


航は黙々と大道具を作っている。入口のアーチ。段ボールと木の枠組みで。航の手は器用ではないが力強い。骨組みがしっかりしている。構造物を作るセンスがある。


そして椎名は、机にいた。


教室の端。窓際の机。椎名の定位置。三冊のノート。電卓。スマートフォン。シャープペンシル。定規。準備が進むにつれて教室の真ん中は活気で溢れている。声と音と動き。その外側に、椎名のデスクがある。静かな島だ。


クラスメイトが椎名の机に来た。


「椎名さん、ここの発注お願いしていい? ナプキン、追加で五十枚」


椎名が顔を上げた。「……わかった」。ノートに書き込む。


別のクラスメイトが来た。


「椎名さん、予算あといくら? 追加の装飾材料買いたいんだけど」


「……残り八千四百円。何を買うかによる」


「えーと、ガーランドの材料。折り紙とか」


「……折り紙なら百均で足りる。二百円以内に抑えて」


「了解! ありがとう!」


また別のクラスメイト。


「椎名さん、隣のクラスと時間が被ってるんだけど。準備室の使用時間——」


「……確認する。たぶん交渉すれば調整できる」


「助かる! 椎名さんに聞けばいいよねこういうの」


「結衣さん今手が離せないから、椎名さんに聞けばいいよ」


予算、発注、準備室の時間、先生へ出す紙。返事をもらったやつから机を離れ、次の紙がすぐその場所へ滑り込む。赤い付箋とレシートだけが増えて、椎名のノートは余白から先に埋まっていった。


「今は一個ずつだろ」と俺が口を挟んで、机の端に積まれた紙を分けた。レシートは左、確認待ちは右。


凛が余っていた付箋に「今すぐ」「あとで」「先生確認」と三つだけ書いて、椎名の机の端へ貼った。結衣もすぐ乗った。


「予算と時間以外は一回あたし通して!」


その声で何人かは足を止めた。美咲も「レシートは袋にまとめる! 捨てない!」と教室の真ん中で宣言する。


椎名の机の前にできていた小さな列が、そこでいったんほどけた。


文芸部のトートバッグが机の脚に立てかけてあった。口が少し開いて、茶色い事務封筒の端が見えている。原稿用紙だ。さっきまで上に何もなかったはずなのに、いつの間にか確認表が半分乗っていた。


俺はその紙をどけて、封筒を脇へ寄せた。教室の真ん中では笑い声とテープを切る音が飛び交っているのに、その机の脚もとだけ、文化祭と別の締切が黙って並んでいた。


封筒をもう少し奥へ押し込むと、椎名が一瞬だけこっちを見て、「……ありがと」と小さく言った。でも次に来たのは先生確認の紙で、結局その上に赤い付箋が重なった。原稿用紙は見えなくなっても、封筒の厚みだけは机の脚もとに残っている。書く時間ごと、そこへ押し込まれたみたいだった。


その途中で、結衣が教室の真ん中から叫んだ。


「ちさー! あたし今手離せないから、あの黒いリボンの予算だけ見といてー!」


「……うん」


「あと、明日の朝に先生へ出す紙も確認お願い!」


「……うん」


「あと——」


「結衣、一回黙れ」と航が遮った。珍しく航が早かった。結衣が「今めっちゃいい流れだったのに!」と抗議する。航は無視して段ボールを運ぶ。


その帰り際、航が未開封のペットボトルの水を椎名の机の端に置いた。


「喉死ぬぞ」


それだけ言って、また入口のアーチの方へ戻る。


椎名が目だけ上げた。「……ありがと」


遠くから声は飛んでくる。でも結衣が一度受けるだけで、椎名の机へまっすぐ届く紙はさっきより減った。


ページをめくる音がするたび白い面が見えて、その白さが今度は少しだけ長く残った。


◇◇◇


みんなが帰った。教室に二人だけ残っている。


窓の外が暗くなり始めていた。十月が近い。日が短くなっている。五時半でもう薄暗い。教室の蛍光灯が白い光を落としている。黒い布に覆われた壁が、蛍光灯の下で日中とは違う表情を見せる。布の皺が影を作っている。


椎名がまだ作業をしていた。机の上にノート三冊。電卓。スマートフォンの画面に業者のウェブサイトが開いている。発注の最終確認。


開きっぱなしのスケジュール表の端に、薄く消え残った文字が見えた。


「文芸部 原稿締切 十月五日」


その上から、代替品の確認と発注締切が太い字で重ねてある。


消しゴムの跡が雑だった。椎名にしては珍しい。忘れたんじゃない。消した上に、別の予定だけがきっちり残っていた。夏休みに読ませてもらった、あの原稿の続きが頭をよぎる。


俺は椎名の隣の机に座った。


「……まだやんの?」


椎名が手を止めなかった。「……もう少し」


「手伝うか」


「……いい。数字の管理だから、一人でやった方が早い」


そう言われると引っ込むしかなかった。俺が手を出せば、説明する時間の方がかかる。


「文芸部の締切、消してたな」


椎名のペン先が止まった。紙の上に細い点だけが残る。


「……文化祭が終わったら、書く」


「間に合うのか」


「……間に合わせる。だから今は、こっち」


言い切ったくせに、


椎名の手。シャープペンシルを持つ指。いつもの粘りがない。芯が紙をなぞるたび、線が少し浅い。背筋は伸びているのに、指先だけが先に疲れていた。


「今日、何件来た?」


「……何が」


「その机に」


椎名が初めて手を止めて、天井を見るみたいに目を上げた。数えている。椎名はたぶん本当に数えている。


「……十四」


「多すぎだろ」


「……昨日は十七」


「張り合うな」


「……張り合ってない」


声は平坦だった。でも、それだけの数を無感情で処理していることの方が怖かった。十四件。昨日は十七件。椎名の中ではもう、誰が何を頼みに来たかが数字として並んでいる。


「断れよ、少しは」


「……急ぎのやつが多いから」


「急ぎじゃなくても頼まれてるだろ」


椎名が黙った。図星だ。図星でも、椎名は止まらない。断るかどうかを考えるより先に、処理する方が早いからだ。そういう生き方をしてきた顔だった。


「……飯食ったか?」


椎名が止まった。今度はペンが止まった。


「……まだ」


時計を見た。六時を過ぎている。昼は弁当を食べたはずだ。でもあの弁当は小さかった。椎名の弁当は常に小さい。それで六時間以上。


ポケットからチョコバーを出した。コンビニで買ったやつ。昼休みに食べようと思って忘れていた。


「これ」


椎名の手が伸びた。受け取った。チョコバーを見つめている。銀色の包装。


「……ありがと」


小さな声。ノートから顔を上げないまま。でも手は受け取った。


包装を開ける音。パキッという確かな音。チョコバーを小さく齧った。小さい口で。小さい音で。


椎名の顎が動いている。咀嚼。ゆっくり。チョコバーを味わっているのか、それとも食べる元気すら少ないから遅いのか。判断がつかない。


椎名がチョコバーを半分食べて、包装を折り返した。残りは後で食べるつもりだ。横に置いた。


ノートに戻った。ペンを持ち直した。さっきより筆圧が回復した気がする。糖分だ。脳に届いた。


横に置かれた銀色の包みだけが、この机の上で数字と関係のないものだった。


◇◇◇


さっき見えた消し跡が頭から離れなかった。言うべきか迷って、言えないまま、椎名のペン先だけが先へ進んでいく。


時計が六時半を指した。外はもう真っ暗だ。


「……帰ろう」


椎名がペンを止めた。ノートを閉じた。三冊のノートをきちんと揃えて鞄にしまった。電卓。スマートフォン。シャープペンシル。全てを元の場所に収納する。几帳面に。正確に。


立ち上がった。椎名の体が少し揺れた。座りっぱなしの足に血が戻る瞬間。椎名が目をつぶった。立ちくらみかもしれない。そうじゃないかもしれない。確認する前に、椎名は普通に歩き出した。


教室を出た。廊下。階段。昇降口。靴を履き替えた。


校門を出て、並んで歩いた。


街灯の下を歩く。椎名の影が短い。俺の影が長い。身長差。九月の夜は涼しい。風が首筋を撫でる。金木犀の匂いがした。今度は本物だ。どこかで咲き始めている。


椎名がチョコバーの残りを取り出した。歩きながら齧った。


「……おいしい」


小さな声。暗い帰り道に落ちた、小さな言葉。


駅に着く前、コンビニの前で一度だけ足を止めた。店の自動ドアが開くたび、ホットスナックの油と雑誌のインクの匂いが流れてきた。肉まんの湯気まで混じって、外の冷えた空気だけ少し押し返してくる。


「明日の朝用に何か買っとけよ」と言うと、椎名が少し考えてから、おにぎりを二個と野菜ジュースを持ってレジに向かった。たぶん、家に帰ってから食べる分と、朝の分だ。椎名は必要だと言われるとちゃんと買う。


「……きみ、最近うるさい」


「世話焼いてるだけだ」


「……同じでは」


「違う」


「……じゃあ、たぬき用の生活指導員」


「最悪な肩書きつけるな」


椎名の口元が上がった。疲れているのに、その笑いはちゃんと届いた。


椎名のスケジュール表。その一行だけが薄い。消した跡なのに、痕跡が残っている。


そのことを、帰り道のあいだ一度も口に出せなかった。


渡したチョコバー一本だけが、さっきの机の上で場違いに甘かった。


駅に着いた。電車を待つ。ベンチには座らなかった。立ったまま。椎名が立っている横に、俺も立った。ホームの蛍光灯が白い。蛾が一匹飛んでいる。秋の虫。蛍光灯の周りを回り続けている。


電車が来た。乗った。


椎名が座席に座って、三秒で目を閉じた。


寝落ちだ。


今日は肩に寄りかかってこなかった。座席に体を預けて、頭を背もたれに乗せて。小さい体。小さい手。膝の上で組まれた指がゆっくり解ける。力が抜けていく。


椎名の寝顔。眠そうな目が完全に閉じると、別人みたいに幼く見える。眉の力が抜けて、口元の緊張が消える。起きている時の椎名は、眠そうに見えて実は油断がない。寝ている時の方が「油断のない顔」がなくなって、本当の意味で無防備になる。


電車が揺れて、椎名の肩がこっちへ傾いた。触れる寸前で止まる。そのままにした。起こすほどでもなく、寄せる理由もまだなかった。


椎名の駅が来た。


「椎名。着くぞ」


椎名が目を開けた。ゆっくり。瞬きが三回。状況を認識するまでに四秒かかった。


「……ん」


立ち上がった。鞄を持った。ドアに向かった。


振り返った。


「……ありがと。チョコバー」


それだけ言って、降りた。


ドアが閉まった。電車が動き出した。椎名がホームに立っている。小さい。蛍光灯の下で白く見える。鞄を肩にかけて。文芸部のトートバッグを持って。


窓越しに見えた椎名が、手を振った。小さく。指先だけ。


電車が加速して、椎名がホームの端に消えた。


ドアが閉まる直前、文芸部のトートバッグの口から事務封筒の角がまた見えた。さっき机の脚に立てかけられていた時より、少しだけ潰れている。中身まで折れたわけじゃないと分かっていても、あの角だけで、今日の教室が原稿の上にどれだけ乗っていたかが見えた。


ホームの蛍光灯より、スケジュール表に残っていた消しゴムの跡の方が頭に残った。

忘れた白さじゃない。急ぎの予定を差し込むために、一度だけ順番を入れ替えた跡だった。

窓の外へ流れていく白い光の中で、封筒の角だけがやけに目に残る。

明日は、あれがまた別の紙の下へ潜る前に、先に机の上へ出す。


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