第48話「黒い布が足りない」
放課後の教室が工房に変わる日が三日目になった。
机を壁際に寄せて、真ん中にスペースを作る。黒い布のロール。段ボールの束。ガムテープ。ハサミ。カッターナイフ。油性マジック。壁に張るための画鋲。床に新聞紙を敷いて、その上で作業する。
教室の匂いが変わっていた。紙とインクと、布の匂い。文化祭の匂いだ。高校に入って初めて嗅ぐ匂いなのに、なぜか懐かしい。準備の匂いには普遍的な何かがある。
航が段ボールを切っている。カッターナイフ。定規を当てて真っ直ぐに。航の作業は無駄がない。力任せに見えて、実は正確だ。段ボールの断面が綺麗に揃っている。
結衣が航の背後に立った。
「もっとジグザグに! お化けっぽく!」
航が手を止めた。「うるせえ。切れりゃいいだろ」
「直線じゃお化け感ないの! ギザギザにしてよ! ここの端! 尖らせて!」
航がため息をついた。長い。結衣が「ここ」「もっと」と指を振るたびに、その息も長くなる。
段ボールがギザギザに切り直された。結衣が「いいじゃん!」と親指を立てた。航は何も言わずに次の段ボールに手を伸ばした。
その横で、結衣が俺に黒い布を投げてよこした。
「藤原! それ持って! 上! もっと上!」
「雑すぎるだろ指示が」
「感覚で分かるって!」
「分かんねえよ」
脚立に乗った結衣が布の端を引っ張る。俺が下で押さえる。凛が「右に三センチ」と具体的な指示を出す。結衣が「そうそれ!」と便乗する。最初から凛に言わせろ。
美咲が教室の後ろから「黒い布ってさ、写真撮るとめっちゃ顔盛れるね!」と叫んだ。誰も答えなかったが、五秒後に自撮りを始めていたので本気らしい。文化祭準備の現場で自分の顔の盛れを確認できるのは、美咲だけの才能だ。
「ちさも撮る?」と美咲が聞くと、椎名はノートから顔も上げずに「……今はいい」と返した。
「なんで! 絶対かわいいのに!」
「……今の僕、備品の顔してるから」
「備品の顔って何」
分からない。
でも机の上の電卓と開きっぱなしのノートに囲まれている椎名を見ると、写真に入るより先に、その数字を片づける方が似合って見えた。
教室の反対側では美咲がメニュー表をデザインしていた。画用紙にマーカーで。色を何種類も使い分けている。ピンク、黒、オレンジ、紫。ハロウィンカラーだ。文化祭は十月だから、お化けとハロウィンの季節感が重なる。
「ねえねえ、これどう? 『闇夜のたぬきブレンド——350円』って!」
美咲が画用紙を掲げた。たぬきのイラストが描いてある。美咲の絵は上手い。椎名の走り書きたぬきとは別物だ。丸くて可愛いたぬき。お化けの帽子を被っている。
結衣が「かわいい! でもたぬき要素どこから来たの!?」。美咲が「ちさの案でしょ! 原点に敬意を!」。椎名が机の端から「……ありがとう」と小さく言った。
凛がカメラを構えていた。教室の壁にかかった黒い布。その上に掛けられた骸骨のマスク。パチリ。「なかなか雰囲気出るね」。凛はポスター用の素材を撮っている。構図の感覚がいい。黒い布の皺が影を作って、骸骨のマスクが浮き上がって見える。凛のカメラは日常を切り取るのが得意だが、演出された場面も撮れる。
椎名は机の端にいた。
教室の喧騒から少し離れた位置。窓際。備品リストと電卓。シャープペンシル。定規。ノートが三冊開いている。一冊は備品管理。一冊は会計。一冊はタイムスケジュール。三冊を同時に参照しながら、数字を書き込んでいる。
俺はあちこちを手伝った。航に段ボールを渡す。結衣の指示でハサミを持つ。黒い布を壁に張るのに、画鋲を押し込む。力仕事と細かい作業を交互にやる。何でも屋は文字通り何でもやる。定位置がない分、教室全体が見える。
途中で椎名のところに行った。
「手伝うか?」
椎名が顔を上げた。眠そうな目。でも目の奥は動いている。数字を追っている。計算の途中だ。
「……発注と確認を片づけるだけだから」
リストを見た。行がまた増えている。三十以上。前回より五つは多い。発注先の名前、電話番号、納品日。さっきまで白かった欄に細い字が潜り込んで、ページの余白がほとんど消えていた。
「……これ、業者に電話するの全部お前?」
「……実行委員だから」
返事をする間にも、椎名の右手側へ試作用の紙コップ、左手側へポスターのラフ、真ん中へ買い出し候補のメモが置かれた。誰も押しつけたわけじゃない。ただ、最後の判断が要るものだけが自然にここへ集まる。
結衣は脚立の上で黒い布の皺を気にしているし、航は入口の段ボールを切っている。誰もサボってはいない。それでも電話番号と納品日と予算の最後の線だけは、椎名の机へ戻ってくる。その戻り方が、少し多すぎた。
そのタイミングで、また一人クラスメイトが来た。
「椎名さん、明日の買い出しって誰が行くか決まってる?」
「……まだ。人数と時間を見て決める」
「じゃあ俺、空いてるから行けるよ」
「……わかった。候補に入れとく」
クラスメイトが去ったあと、椎名はすぐにメモを追記した。候補者の名前、部活の時間、抜けられるコマ。全部一瞬で整理する。
「今の、ありがたいだろ」
「……うん」
椎名がうなずく。さっき増えた候補者の名前の下に、時間と注意書きがまた一行足された。
「でも、その一言の後ろで表も増えてる」
椎名が俺を見た。眠そうな目の奥で、肩をすくめるみたいな気配があった。
「……人が手伝ってくれる時って、前提条件も一緒に増えるから」
買い出し班の欄が一つ増える。誰が一限まで、誰が部活で抜けるか、誰が自転車を使えるか。手伝うと言った一言が、その場で別の管理表に変わる。
「……俺が電話してもいいぞ」
「……きみ、業者と話すの得意?」
「得意じゃない」
「……なら、僕がやった方が早い」
言い返せなかった。俺が受話器を持ったら、たぶん最初の名乗りで噛む。用件を一つ言って、相手に質問されて、その時点で順番が崩れる。椎名はそうならない。必要なことだけを、必要な順で並べられる。
言い返せないのが、妙に引っかかった。
◇◇◇
作業が一段落した。黒い布が教室の壁の半分を覆った。段ボールの装飾がいくつか完成した。骸骨のマスク。蜘蛛の巣をイメージした紐の飾り。紙で作ったコウモリ。教室の雰囲気が変わり始めている。普段の教室とお化け喫茶の中間。まだ途中だが、形が見えてきた。
結衣が「今日はここまで! お疲れー!」と宣言した。クラスメイトが帰り始める。机を戻す。鞄を持つ。教室が元に戻っていく。段ボールの切れ端が床に散らばっている。明日の掃除当番が大変だ。
六人で校門を出た。結衣が「明日はペンキ! 看板作るよ!」と前を歩いている。美咲が「メニューのデザイン明日までに完成させる!」と応じる。凛が「ポスターの仮刷り、放課後見せるね」。航が「……段ボール足りるかな」と呟く。航は口数が少ないが、現場の人間だ。材料の残量を把握している。
椎名が後ろからついてきていた。いつもの歩幅。文芸部のトートバッグが肩から下がっている。今日は文芸部の活動がなかった。文化祭準備の日は部活が休みになる。でもトートバッグは持っている。中に原稿が入っているのだろう。持ち歩く癖がついている。
途中で四人と別れた。結衣、航、美咲、凛は別方向だ。駅に向かうのは俺と椎名の二人。
並んで歩く。九月の夕暮れ。あと十日もすれば十月だ。空気が乾き始めている。夏の湿度が抜けて、風が通りやすくなっている。街路樹の葉が色づき始めている。まだ緑が多いが、端の方から黄色が滲んでいる。
椎名が黙っていた。いつもの沈黙だ。椎名の沈黙には種類がある。考え事の沈黙。疲れの沈黙。心地よい沈黙。今日のは——考え事だ。目が微かに左右に動いている。頭の中でリストを確認しているのだろう。
「今日、楽しかったか?」
椎名が目を動かした。こちらを見ないまま、俺の靴のあたりを見た。
「……うん」
「嘘っぽいな」
「……嘘じゃない。みんなが動いてるの見るの、好き」
みんなが動いている。結衣が叫んで、航が黙々と切って、美咲がデザインして、凛が撮って。みんなが自分の持ち場で動いている。椎名はそれを「見る」のが好きだと言った。
「お前も動いてるだろ」
「……僕は机で座ってるだけ」
「座ってても動いてる。頭が」
椎名は何も言わなかった。ただ、さっきまで張っていた肩の力だけが少し抜けた。
駅のホーム。ベンチ。いつもの左端と右端。
椎名がノートを開いた。何か書き始めた。備品リストではない。別のノート。
原稿だ。
文芸部の原稿。文化祭準備の合間に書いている。二足のわらじ。椎名は実行委員と文芸部を並行している。
ペンを動かす手が速い。言葉が溢れている。頭の中にある物語が手を急かしている。椎名の創作モードは日常モードと顔が違う。眠そうな瞼が持ち上がって、瞳が見える。集中している時の椎名の目は、暗い部屋の中で光を探す猫に似ている。
五分。十分。原稿に向かう椎名を横から見ていた。
椎名のシャープペンシルの音。カリカリと。紙の上を走る規則的な音。時々止まる。考えている。また走る。
電車が来た。
椎名が顔を上げた。原稿を閉じた。鞄にしまった。名残を押さえるみたいに、ノートの角を一度だけ撫でてからしまった。
電車に乗った。並んで座った。
「原稿、進んだ?」
椎名が窓の外を見たまま答えた。「……少しだけ」
「文化祭と両立できそう?」
「……本当は苦手。原稿も、こっちも、片方ずつやりたい。でも今はそうもいかないから」
椎名はこういう時、苦手かどうかより先に必要なことをやる。
電車が来るまで少し時間があったので、ホームの自販機で温かい缶ココアを二本買った。一本を椎名に渡す。
「……これもたぬきの餌?」
「冬支度用」
椎名が缶を両手で包んだ。白かった指に、ゆっくり色が戻る。こういう時だけ、椎名の手の冷たさは目に見える。
「……きみ、最近よく買ってくれるね」
「放っとくと食わねえから」
「……食べてるよ」
「微妙に足りてねえ」
椎名が黙った。缶ココアの蓋を開ける音が小さく鳴る。ひとくち飲んで、息を吐く。甘い匂いが湯気に混じる。
「……ありがと」
その「ありがと」は、さっきの業務的なやりとりの中で言う礼とは少し違った。数字でも作業でもないところに向けた声だった。
でもさっき原稿に向かっていた時の椎名は違った。あれは「やるしかない」じゃなく、「書きたい」の目だった。
電車が揺れる。椎名の肩が小さく揺れる。
帰り道。航と二人の時間がなかった代わりに、航からLINEが来た。
『椎名さんのリスト やばくね』
『気づいてた?』と返した。
『まあ。結衣は任せたら安心って思ってっけど 量はやべーだろ』
航はドライに見えて、こういうところを見ている。イヤホンで耳を塞いでいるくせに、聞くべき音は拾っている。
『俺も思った』と送った。
航の返信は短かった。
『お前が見てんなら大丈夫か』
それだけ。既読がついて、返信は来なかった。
お前が見てんなら。
見えていた。リストの量も、原稿に向かう時の目も。
でも、見えているだけで軽くなる種類の仕事じゃなかった。
窓の外に鹿沼の夜景が流れていた。街灯が少ない。東京の夜は光の洪水だったが、ここの夜は暗い。暗さの中に、ぽつりぽつりと光がある。家の明かり。コンビニの明かり。信号。
椎名の家の明かりが、この暗さの中のどこかにある。今頃、ノートを開いているだろうか。原稿まで広げていたら、さすがに笑えない。
そのタイミングでクラスのグループLINEが光った。結衣の「明日のペンキ、黒もう一本いるかも!」に続いて、美咲の「ストローって経費だよね?」、凛の「ポスター仮刷り追加一枚いる」。まだ誰も答えていない。椎名のスマートフォンにも、たぶん同じ通知が並んでいる。
航の言葉が耳に残っていた。
帰りのホームで渡したココアの缶を、椎名は最後まで両手で持っていた。飲み終わっても、空き缶をすぐには鞄にしまわなかった。
ああいう小さいことしかできない、で終わらせたくなかった。
明日は最初から椎名の机の横に立つ。備品の場所を聞かれたら俺が答える。買い出しの人数確認も先に受ける。数字は無理でも、椎名に届く前の声なら半分は止められる。
止められなかった分だけは、せめて俺が横で聞く。何がどこまで増えているのかを、今日はもう見落としたくなかった。




