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椎名さんは眠そうに笑う  作者: 雨宮 沙奈
隣の席は、呼吸の距離
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第45話「隣の席、やっぱり落ち着く」


九月の教室。


窓が開いている。まだ暑い。でも風が変わった。八月の風は熱を運んでいた。九月の風は熱の合間に涼を挟んでいる。十回に一回くらい。時折吹く風が、肌の上の汗を一瞬だけ冷やす。その一瞬で秋がわかる。


授業中。国語。教師が教科書の本文を朗読している。太宰。走れメロス。去年読んだ。内容は覚えている。メロスは走る。走り続ける。友のために。


——友情の話なのに、走る動機が「約束を守る」っていうのは、陸上部的にはシンプルで好感が持てる。走る理由は単純な方がいい。


隣の席で、椎名が教科書に向かっている。目が半分閉じている。読んでいるのか寝かけているのか境界線が曖昧だ。椎名の眠そうな目は、起きている時と寝ている時の差が小さい。たぶん本人にもわからない。


消しゴムを使った。ノートの一行目を消した。書き直す。消しカスが出た。白い粒。机の端にたまっていく。


——ふと。


手が動いた。


消しカスを指先で集めて、椎名の机の方に軽く弾いた。


小さな白い塊が椎名の机に転がった。


四月。まだ隣の席に慣れきっていなかった頃。俺の机の消しカスが椎名の机に飛んだ。俺が謝った。椎名が何でもないような顔で自分の消しカスと一緒にまとめて捨てた。その時は事故だった。


今は違う。


意図的に飛ばした。


椎名が気づいた。消しカスが自分の机の上にある。一瞬、目が動いた。こちらを見ないまま。目だけで消しカスを確認した。


椎名の手が動いた。


自分の消しゴムを使った。教科書のどこかに書き込んでいたメモを消したらしい。消しカスが出た。指先で集めて。


俺の机に返してきた。


何も言わない。表情も変えない。教師の朗読を聞いているふりをしたまま。消しカスだけが机の間を行き来した。


椎名の口元が微かに動いた。笑いを噛み殺している。教師が見ていないタイミングで、唇の端が上がった。眠そうな目のまま。口元だけ。


朗読の声が少し遠のいた。


◇◇◇


昼休み。


教室のいつもの席。六人。


結衣は弁当を広げながら喋っている。二学期の話。行事の話。「体育祭と文化祭ある! 忙しい! 楽しい!」。結衣のテンションは年間を通して高い。春も夏も秋も。冬は知らないが、たぶん冬も高い。


航が壁際に座って弁当を食べている。今日のメインはからあげ。航の弁当は肉率が高い。走る体を作るための食事だと航は言う。走る体には炭水化物だろう、と俺は思うが、航の母親のからあげは美味いらしいから黙認する。


美咲がスマホを見ながらおにぎりを食べている。片手操作。器用だ。美咲はいつもスマホを持っている。LINEか、SNSか、何かのアプリか。にこにこしている。画面の向こうの誰かとやりとりしているのだろう。


凛が文庫本を読みながら弁当を食べている。箸を動かす手と本を持つ手が左右で別の作業をしている。器用だ。凛は静かに多重タスクをこなす人だ。


椎名が弁当を開いた。


椎名の弁当はいつも小さい。椎名の体が小さいからだろうか。弁当箱も小さい。白い弁当箱。蓋に小さなたぬきのシールが貼ってある。沙季が貼ったのか椎名が自分で貼ったのか。聞いたことはない。


おかずが見えた。卵焼き。ミニトマト。ほうれん草のおひたし。鮭のフレークがご飯にかかっている。


椎名が箸で卵焼きを挟んだ。小さい方を。卵焼きが二切れあって、小さい方。


俺の机の端に、そっと置いた。


何も言わない。視線を合わせない。弁当箱から俺の机へ。箸の動きだけ。それ以外の一切の説明をしないまま、椎名は自分の弁当に視線を戻した。


卵焼き。黄色。甘い匂い。


食べた。


箸で挟んで、口に入れた。甘かった。砂糖が少し多めの卵焼き。しっとりしている。焼き加減がいい。焦げ目が薄くて、中はふわっとしている。


「美味い」


椎名が一瞬だけ目を動かした。こちらを見ないまま。目の端だけで確認した。確認して——自分の弁当に戻った。


「……お母さんの」


声が聞こえた。ぼそぼそと。お母さんが作った卵焼き。椎名は料理をしないのか。まだ高一だし、弁当は親が作るものだろう。そういうものだ。


結衣が叫んだ。「ちさ! 晴人におかず分けてる!」。


椎名が「……小さい方だし」。


結衣が「大きさの問題じゃなくない!?」。


航が「うるせえ、食わせてやれよ」。


凛が微笑んだ。


美咲が「いいなぁ、私もほしいー」と言った。椎名が一瞬だけ困った顔をして、もう一切れの卵焼きを箸で挟みかけた。美咲が「冗談冗談! ちさのは晴人くんので合ってるから!」。椎名の耳が赤くなった。箸が止まった。


「……合ってない。余っただけ」


余ったなら美咲にもあげられるだろう。突っ込まなかった。突っ込んだら椎名が壊れる。


◇◇◇


五時間目。体育。グラウンド。九月の太陽がまだ強い。半袖の体操着。走った。軽くジョギング。陸上部の身体は夏休みの朝練で仕上がっている。グラウンドを周回するのは慣れた作業だ。


教室に戻る途中、椎名とすれ違った。女子は体育館でバレーボールだった。椎名が体育で活躍しているところは、まだ見たことがない。


椎名の視線が俺の腕に止まった。


右腕。半袖の体操着から出ている腕。薄い擦り傷がある。いつのだろう。自主練で転んだか、川遊びの時についたか。覚えていない。痛みもない。


「……腕」


椎名が言った。


「ん? ああ、いつの間にか」


いつの間にか。そう答えるのは何度目だろう。小さな傷は、気づいた時にはもうついていて、気づいても痛くない。だからそのままにしてきた。


椎名がそれ以上何も言わなかった。


でも——眉が寄った。


ほんの少しだけ。ほんの一瞬だけ。椎名の眉が中央に寄った。心配とも不安とも違う。もっと複雑な表情。何かを知っている人の表情。あるいは何かに気づいている人の表情。


気づいている——何に?


椎名の眉はすぐに元に戻った。いつもの眠そうな顔。何もなかったように歩き出した。


俺も歩き出した。擦り傷を見た。赤い線が腕の外側にある。触ってみた。痛くない。全然痛くない。いつついたかも覚えていない。


◇◇◇


放課後。


他の生徒が帰り始めた。椅子を引く音。鞄を持ち上げる音。「バイバーイ」「じゃーね」という声。教室が空いていく。光が増える。人が減ると窓からの光が遮られなくなる。九月の午後の光。低くなり始めた太陽が窓から斜めに入ってきて、教室の壁に影を作っている。


椎名が文芸部に行く前に、俺の机の横に立った。


鞄を肩にかけている。白いシャツ。紺のスカート。カーディガンはまだ着ていない。九月。まだ暑い。でも腕が出ている椎名は珍しい。細い腕。白い。血管が薄く透けて見える。


「……文化祭、十月だって」


「もうそんな時期か」


「……クラスの出し物、何がいいかな」


「結衣が決めるだろ」


「……それはそう」


椎名が少しだけ視線を落とした。


「……実行委員、たぶん僕だし」


「学級委員だから?」


「……うん」


その時、教室の前の方で誰かが言った。


「文化祭の細かいの、椎名さんがいたら安心だよな」


別の声が重なる。


「わかる。会計表とかポスターの字とか、椎名さんに頼めば早いし」


「買い出しのリストも椎名さんが作ったほうが抜けなさそう」


「実行委員も会計も椎名さんでいいんじゃない?」


「椎名さんがまとめてくれたら助かるよな」


結衣が「え、ちさに全部乗せるのは違うでしょ」と笑いながら返した。でも笑いながらだ。場はそのまま軽い相談の空気に流れていく。


椎名は否定しなかった。困った顔もしない。ただ、一拍だけ黙った。


短い間だった。他のやつはたぶん気づかない。でも俺は見た。返事の前の、ほんの一拍。


「……できることなら」


その言い方は、引き受ける時の椎名の声だった。


椎名の口元が動いた。小さな笑い。唇の端がほんの少し上がった。


「……たぶん、忙しくなる」


結衣の企画力。川遊びも花火も結衣が主導した。文化祭のクラス出し物も、結衣が仕切ることになるだろう。それが結衣の居場所であり、結衣の才能だ。結衣は人を動かすことに長けている。本人は無自覚だが。


椎名が「……じゃあね」と言った。いつもの。


「おう」


椎名が教室を出ていく。廊下を歩く音。軽い。小さい。文芸部室に向かう足音。


教室に一人になった。


窓の前に立った。グラウンドが見えた。野球部が練習している。ボールを打つ乾いた音。掛け声。遠い。教室の中は静かだ。


窓の外に九月の空が広がっていた。高い。青い。八月の溶けそうな空じゃない。輪郭がある空。雲が少しだけ。筋雲。秋の雲。高いところにある。


明日も、教室に入ったら最初に左を見る。


教室を出た。廊下を歩いた。昇降口で靴を履き替えた。外に出た。正門。


振り返った。


校舎を見上げた。三階。文芸部の部室は——どこだっけ。東棟の端。窓が一つだけ開いている。


椎名がいるのかもしれない。部室の窓の向こうに。机に向かって、万年筆で何かを書いているのかもしれない。窓枠に頬杖をついて、外を見ているのかもしれない。眠そうな目で。


見えない。距離がある。ここからは窓の中が暗くて見えない。


それでも視線だけが、あの窓に残った。


十月は文化祭だ。結衣が騒いで、教室が散らかって、椎名はきっと平気な顔で何かを引き受ける。


さっきの一拍が、妙に耳に残っていた。


頼られるのは、たぶん椎名に似合う。似合うけど、それでいいのかは分からない。


九月の空を見上げた。高い。青い。鹿沼の空。明日もこの空の下で椎名に会う。


腕の傷を見たとき、椎名の眉がほんの少し寄った。


あの表情の名前はまだ知らない。けれど、今度は見逃したくなかった。


あれは腕の傷だけを見ていた顔じゃない。


十月まで、知らないままでいられる気がしなかった。

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