第46話「喫茶かお化け屋敷か」
十月の文化祭まで三週間。
HRで担任が言った。「文化祭実行委員、各クラス二名。やりたい人は挙手」
教室が一瞬だけ静まった。誰が手を挙げるか。様子見の空気。腕を組む男子。鞄の中を漁るふりをする女子。窓際の航はイヤホンを片方外して天井を仰いでいた。
結衣が立ち上がった。
「はいはいはいはい! あたしやるー!」
教室の温度が二度上がった。結衣の声量はエアコン一台分の熱量がある。担任が「松本、座って手を挙げなさい」と言った。結衣が座って手を挙げた。姿勢は変わったが勢いは変わらなかった。
結衣が振り返った。目標は一つ。航。
「航もやんの!」
「やんねえ」
航は椅子にもたれたまま、間髪を入れなかった。
「やれ」
結衣も同じ速さで返す。
「やんねえって」
「力仕事いるでしょ! 搬入とか!」
押し切る気満々だ。
航が面倒そうに目を細めた。
「それ実行委員の仕事じゃねえだろ」
正論だった。でも結衣の辞書に正論という文字はない。結衣は声のデカさで正論を上書きする生物だ。航はため息をついてイヤホンを戻した。壁に背を預けて目を閉じる。拒否の姿勢。結衣の攻撃は不発に終わった。
俺は隣を見た。
椎名が小さく手を挙げていた。
机の上に手を置いて、そこから十センチだけ持ち上げる。椎名の挙手はいつも控えめだ。手のひらではなく指先が天井を向いている。伸ばしきっていない。でも——挙げている。
「……学級委員だから、やる」
声は小さい。教室の奥には届かなかったかもしれない。でも担任は見ていた。「椎名、ありがとう」。椎名がうなずく。
結衣が弾けた。
「ちさも!? やったー! あたしとちさでやろ!」
「……うん」
椎名は小さくうなずいた。
結衣と椎名。実行委員。正反対の二人。声量と推進力の結衣。静かで正確な椎名。片方はアクセル、片方はブレーキ。ブレーキの効かない車と、エンジンのない車が合体したようなものだ。走るには走るだろうが、方向は読めない。
結衣がもう椎名の机に身を乗り出していた。
「ちさ、やろうね! 絶対楽しいよ! あたし、文化祭めっちゃ好きなんだよね!」
「……知ってる」
「え、知ってた!?」
「……昨日から五回くらい聞いたから」
結衣が固まった。美咲が吹き出す。「数えてるんだ」。凛が「椎名は意外とそういうの覚えてるよ」と静かに補足した。航はイヤホンを片耳だけ戻しながら「結衣の音量だと記憶に刻まれるだろ」と言った。結衣が「何それ悪口!?」と反応する。教室が少しだけ笑った。
椎名も、口元をほんの少しだけ緩めていた。
実行委員に手を挙げた時の椎名は、もっと硬い顔をしていた。学級委員だからやる。それは義務感で引き受けた顔だ。
今は違う。結衣の熱に巻き込まれたせいか、椎名の中の「やらなきゃ」とは別の部分も少しだけ動いている。面倒そうだと思っている顔と、嫌いじゃないかもしれない顔が、同じ眠そうな表情の中で同居していた。
◇◇◇
出し物を決める時間になった。
担任が黒板に「文化祭 出し物候補」と書いた。チョークの粉が舞う。白い粉。秋の光に照らされて浮遊する。
結衣が最初に叫んだ。
「お化け屋敷!」
男子の何人かが「いいじゃん!」と乗った。暗い教室。血糊。驚かす。高校一年の男子にとって、お化け屋敷は黄金の出し物だ。暗い空間で女子が怖がってくれるという不純な動機が混在している。
女子の一角から対案が出た。
「喫茶店がいい」
「わかる、制服エプロンで接客したい」
「映えるメニューとか作りたいし」
美咲が「あ、それ賛成! カフェっぽいやつ! インスタに上げたい!」と手を挙げた。美咲のモチベーションの源泉はSNS映えだ。明確で強固な動機。ある意味で揺るがない。
お化け屋敷派と喫茶店派。教室が割れた。結衣が「お化け屋敷の方が盛り上がるって!」。航は「どっちでもいい」。凛が「両方の良さを取り入れたら」と静かに提案した。凛の声は小さいのに、なぜか届く。
担任が「他に案がある人は?」と促した。
沈黙。二秒。
椎名が口を開いた。
「……たぬきカフェ」
教室が止まった。
結衣が振り返った。「何それ!?」
椎名が目を伏せたまま続ける。「……たぬきの着ぐるみを着て接客する喫茶店。メニューは全部たぬきモチーフ。たぬきラテ。たぬきクッキー。たぬきパフェ」
「たぬきパフェって何味?」と美咲が即座に食いついた。
椎名が少しだけ考えた。「……秋っぽいから、栗。あと、耳の部分はクッキーで」
「かわいくない?」と美咲が掌を返した。さっきまでカフェ派だったくせに、かわいいという単語一つで全部を肯定した。美咲の価値基準は分かりやすい。
結衣も乗ってきた。「え、しっぽもつけたい! パフェの後ろにこう、丸いやつ!」
「たぬきのしっぽって丸くねえだろ」と俺が言うと、結衣が「そこ大事!?」と返し、航が「だいぶ大事だろ。何の生き物だよ」と珍しく乗った。凛が「でもデフォルメした方が可愛いよね」と冷静に現実路線を捨てた。議論の地盤がもう崩れている。
椎名がぼそりと言った。
「……たぬきは、愛嬌で生きてるから」
「いや、野生だろ」
「……愛嬌のある野生」
椎名の定義はよく分からない。でも教室の空気はそれで和んだ。結衣の勢いだけだった議題の真ん中に、椎名の妙なたぬき理論が落ちて、みんなが少しだけ笑う。その笑いが緊張を崩して、案が案として転がり始める。
静寂。
航が呟いた。「……何言ってんだこいつ」
美咲が「えっ、それは……うーん」と笑った。凛が口元を押さえている。笑いを噛み殺している。
結衣が五秒くらい考えて、顔が変わった。
「……ありかも!?」
「ないだろ」と航が言ったが、結衣は聞いていない。結衣の脳は既にたぬきカフェの全体像を描き始めている。暴走するエンジンに点火してしまった。
「ちさの案、ちょっと味付け変えたらいけるんじゃない!? たぬきカフェじゃなくて、お化け風味のカフェ! 暗い教室で、ちょっと怖い装飾して、でもメニューはちゃんとある! 喫茶店のクオリティとお化け屋敷の演出の合わせ技!」
結衣の企画脳が回転している。回転数が上がるたびに声が大きくなる。
男子「お化け要素あるならいいかも」。女子「喫茶店もできるなら賛成」。クラスが一つにまとまっていく。結衣の声と椎名の不思議な一言が化学反応を起こした。
結局、出し物は「お化け風味の喫茶店」に決まった。
航が腕を組んだ。「意味わかんねえ」
俺も意味はわからない。お化け風味とは何か。喫茶店なのに怖いのか。怖いのに注文するのか。矛盾していると思ったが、結衣が「やるからにはクオリティ高いの作るよ!」と宣言した時点で、全ての矛盾は結衣のテンションの前に無効化された。
椎名が隣で呟いた。
「……たぬきカフェ、却下された」
「半分は採用されたろ。カフェの部分」
「……たぬきは?」
「お化けに差し替えられた」
「……たぬきは怖いのに」
「怖くねえよ」
椎名の口元が微かに膨らんだ。不満の表明。椎名の不満は唇に出る。声ではなく形で伝わる。
ホームに着くまでの間も、結衣のメッセージがグループLINEを鳴らし続けていた。
『店名どうする!?』
『たぬき要素残したい!』
『お化け成分も必要!』
『航は帽子担当で!』
『なんでだよ』
航の返信が一秒で飛んできた。仕事が速いのか、拒否だけは速いのか分からない。美咲が『絶対似合うw』と追撃し、凛が『帽子担当という役職は初めて見た』とまとめた。画面の向こうでも騒がしい。結衣は教室を出ても結衣だった。
椎名がスマートフォンを見下ろして、小さく息をついた。
「……会話の速度が速い」
「結衣が三人分喋ってるからな」
「……あれで一人なんだ」
「残念ながら」
椎名が少しだけ笑った。画面に映る通知の連打を追っている。返事を打とうとして、やめた。たぶん追いつかないからだ。
代わりにノートを開いた。さっきから椎名の頭の中では、LINEの勢いとは別の速度で物事が進んでいる。実行委員として何が必要か、何をいつまでに決めるか。勢いに押されて流れるのではなく、椎名は流れに名前をつける。項目にして、順番に並べる。
「……最初に決めるの、店名かな」
「そこから?」
「……店名が決まると、ポスターと看板とメニュー表が動くから」
「なるほど」
「……あと、食品を出すなら衛生関係の申請。お化け屋敷要素を入れるなら照明の確認。席数と導線も」
文化祭の浮かれた雰囲気の中で、椎名の声だけが現実的だった。結衣が打ち上げ花火みたいにアイデアを撒いて、美咲と凛が拾って、航が必要最小限の文句を言う。その全部を、椎名が現実に落とす。
「……やっぱ大変そうだな」
「……うん」
椎名は否定しなかった。ホームに滑り込んできた電車の風で、前髪が揺れた。
「……でも、ちょっと楽しみ」
言ってから、椎名はノートの端を親指で押した。目は伏せたままなのに、声だけが少し前に出ていた。
椎名はそのままノートを閉じて、胸の前で抱えた。文化祭の準備の話をしているときの椎名は、たぬきの話をしているときとも、文芸部の原稿の話をしているときとも違う顔をする。眠そうなままなのに、どこか前のめりだ。
「店名、まだたぬき諦めてないのか」
「……半分は残したい」
「どこを」
「……愛嬌」
よく分からない答えだった。でも、結衣の勢いとクラスの雑な発想の中で、椎名が守りたいものがあるのは分かった。怖いだけじゃなく、少しだけ力の抜けた、笑える余白。たぶんそれが椎名の考える文化祭なのだろう。
◇◇◇
HRが終わった。放課後。帰り支度。
教室が空いていく。椅子が引かれる音。「お疲れー」「バイバーイ」の声。結衣が廊下で「明日から準備だからね! 全員!」と叫んでいる。航が「帰らせろ」と返している。
俺は鞄を持って椎名の横に並んだ。
椎名が鞄を肩にかけた。いつもの白いトートバッグも持っている。文芸部のトートだ。中に原稿用紙が入っている。夏休みに読ませてもらった原稿の続きを書いているのだろうか。
校門を出た。九月の夕方。空が高い。オレンジと青の境界が遠い。鹿沼の空は広い。東京の空は建物に切り取られた矩形だったが、ここの空は地平線まで繋がっている。風が吹いた。金木犀の匂いがどこかからする。まだ咲いていない。でも予感がある。
椎名が歩きながら呟いた。
「……実行委員、大変かな」
「結衣がいるから大丈夫だろ」
椎名が少しだけ歩幅を緩めた。
「……結衣がいるから大変なのでは」
正論だった。
結衣がいれば場は盛り上がる。だが結衣がいれば予定も盛り上がる。予定が盛り上がるということは、管理する項目が増えるということだ。そしてその管理は結衣ではなく——たぶん椎名に降りてくる。
「まあ、無理すんなよ」
「……たぬきは、巣穴の準備は得意なの。穴を掘るのは体力がいるけど、管理は脳みそでやるから」
翻訳するなら、「大変だけど、裏方なら力仕事じゃないから自分にもできる」。椎名はいつも自分を小さく見積もる。実際にはクラスの管理業務を完璧にこなせる人間が、「たぬきだからできる」と言う。過小評価が標準装備だ。
帰り道の並木が影を作っている。九月の影は長い。太陽が低い分、影が伸びる。椎名の影と俺の影が重なったり離れたりする。歩幅が違うから。
それでも、今日は同じ方向を見て歩いている感じがした。結衣の勢いに押されて始まった実行委員も、たぬきカフェ未遂も、お化け風味の喫茶店も、全部まだ形のない話だ。
でも椎名はもう、その形のないものに名前をつけ始めている。何が必要で、どこから決めて、どうすれば動くのか。クラスの浮かれた文化祭話を、現実の手触りのあるものに変える準備を、もう始めている。
たぶん明日から忙しくなる。
結衣はもっと騒ぐ。美咲はかわいいを増やす。凛は静かに精度を上げる。航は文句を言いながら手を動かす。
その真ん中で、椎名はノートを開く。
文化祭まで三週間。
まだ笑い話みたいな段階なのに、椎名だけがもう少し先を見ていた。
駅に着いた。電車は十五分後。ホームのベンチに並んで座った。
椎名が鞄からノートを出した。見覚えのあるノート。方眼紙のやつ。小さな字で何かを書き始めた。
覗き込んだ。
文化祭のスケジュール表。もう作り始めている。日付と項目。「備品確認」「予算見積もり」「装飾デザイン案」「メニュー試作日程」。箇条書き。きれいな字。小さくて整っている。
「……気合入ってるな」
椎名がペンを止めた。視線を落としたまま。
「……初めてだから。文化祭の実行委員」
「中学のときは?」
椎名が一拍、黙った。
ペンの先がノートの上で止まっている。動かない。一秒。二秒。短い時間だが、椎名の沈黙には重さがある。いつもの「……」とは違う。何かを呑み込んでから出す「……」だ。
「……中学は……やらなかった」
それ以上は言わなかった。俺も聞かなかった。椎名の中学の話題はいつもこうだ。一拍の間がある。その間に何が入っているのかは知らない。知りたいとも思うし、無理に聞くべきじゃないとも思う。
椎名がペンを動かし始めた。スケジュール表の続き。
ノートの端っこに、小さなたぬきの絵が描いてあった。走り書き。丸い体。短い手足。点の目。——下手だ。たぬきちのぬいぐるみより下手かもしれない。でも、ちゃんとたぬきだとわかる。
電車が来た。乗った。並んで座った。椎名がノートをしまった。背もたれに頭を預けて、目を閉じた。眠そうだ。いつも眠そうだが、今日は少しだけ顔が明るい。唇の端が微かに上がっている。寝かけているのに、口元が笑っている。
ノートを閉じる寸前、欄外に小さなチェック欄が増えているのが見えた。誰に頼まれた仕事なのかは分からない。椎名は何でもない顔で、それを明日の予定の中にしまった。




