第44話「おかえり」
九月一日。
目覚ましが鳴る前に目が覚めた。
六時十分。カーテンの隙間から光が漏れている。朝の光。夏休みの間もずっと朝は来ていたのに、今日の朝は違う。質が違う。学校に行く朝だ。体が覚えている。四月からの五ヶ月間で身についた朝のリズムが、夏休み中もサボらずに残っていた。
起き上がった。窓を開けた。九月の朝の空気が入ってきた。暑い。残暑。でも八月の暑さとは種類が違う。空の色が少し変わっている。夏の青が入道雲ごと南に退いて、代わりに秋の透明度が北から降りてきている。そんな気がする。科学的根拠はない。感覚だ。
制服を着た。夏服。半袖のシャツ。腕を通す感覚が久しぶりだ。夏休み中は私服しか着ていなかった。制服の布の質感が肌に触れると、条件反射的に学校モードに切り替わる。
鏡で確認した。寝癖。直した。直しきれない。横の髪が一束だけ右に跳ねている。水で濡らしても戻らない。いつも通り。
朝食。食パン。目玉焼き。味噌汁。母が「二学期だねえ」と言った。「うん」と答えた。「楽しみ?」。「普通」。普通じゃない。足が速くなっている。気づいている。
◇◇◇
通学路。
歩くスピードが速い。自覚している。GW明けの時と同じだ。あの時も足が速かった。五日間椎名に会えなかった後の朝。無意識にスピードが上がった。今回は夏休み——いや、自習室で会ったし、花火でも会った。図書館でも。完全に会えなかったわけじゃない。
でも、教室で会うのは七月以来だ。隣の席。あの距離。消しゴムの匂いが届く距離。
足が速い。坂道を上がる。鹿沼の住宅街。朝の日差し。影が長い。九月一日の太陽は八月一日より角度が低い。影が伸びている。自分の影が前を歩いている。
正門。生徒が多い。久しぶりの制服姿の群れ。日焼けしている奴がいる。髪を切った奴がいる。少し背が伸びた奴がいる。夏は人を変える。
昇降口で上履きに履き替えた。靴箱の金属の冷たさ。上履きの布地。廊下を歩く。廊下の匂い。ワックスと埃と石鹸の匂い。校舎の匂い。四月からずっと嗅いでいた匂い。覚えている。体が覚えている。
教室の入り口。
ドアが開いていた。教室の中が見えた。窓が全開。風が抜けている。残暑だがエアコンはまだついていない。朝の教室は風で凌ぐ。九月の風は八月の風より、ほんの少しだけ軽い。
席を見た。
隣の席。窓際の後ろから二番目。
椎名がいた。
座っている。いつもの場所に。机に頬杖をついている。窓の外を見ている。目が半分閉じている。眠そう。相変わらず眠そう。九月になっても十月になっても、たぶん三月になっても椎名は眠そうだ。
日焼けしていなかった。白い。夏を経ているのに白い。椎名は日光を浴びない。カーディガンと帽子と日傘で日光を遮断して生きている。たぬきは夜行性だから——と椎名は言い訳する。たぬきを自分に重ねすぎだ。
でも、その白さに安心した。変わっていない。椎名は変わっていない。
椅子を引いた。自分の席。椎名の隣。座った。
「おう」
椎名が窓の外から視線を戻した。こちらを見た。眠そうな目が少しだけ開いた。認識。俺を認識した目。
「……おはよ」
声がぼそい。いつもの椎名。音量が低い。朝だから余計に低い。周囲のざわめきに埋もれる声。でも俺の耳には届く。隣の席だから。この距離なら、椎名のぼそぼそは全部聞こえる。
隣の席。この距離。
椎名が座っている。距離にして六十センチ。机の端と端が接している。消しゴムの匂い。椎名の使っている消しゴムはMONO。四月からずっと同じだ。匂いを覚えている。シャーペンの音。椎名が何かメモを書いている。万年筆じゃなくてシャーペン。日常用。カリカリという音が聞こえる。
肩のあたりの力が抜けた。
教室に来るまで無駄に速かった足も、席に座った瞬間にようやく止まった気がした。
夏の間、LINEで話した。電話で話した。図書館で隣に座った。花火で手が触れた。全部の距離が、この「隣の席」とは違う。LINEはどこにいても届く。電話はどこにいても聞こえる。でも消しゴムの匂いは、この距離じゃないと届かない。
椎名が消しゴムを使った。紙を擦る音。消しカスが出た。小さな白い粒。椎名の机の端にたまっている。
椎名がぽつりと言った。
「……たぬきは、秋になると巣穴に戻ってくるの」
唐突。脈絡がない。朝の教室の、二言目が「たぬきの帰巣本能」の話。椎名以外にはあり得ない会話の飛び方。
でも、わかった。
椎名は「帰ってきた」と言いたいのだ。巣穴に。——この席に。
「おかえり」
自然に出た。考えたわけじゃない。椎名の翻訳を理解した瞬間に、口が勝手に動いた。
椎名が止まった。
手が止まった。シャーペンが紙の上で動かなくなった。顔がこちらを向いた。目が開いた。眠そうな目が——開いた。瞳が見えた。黒い。深い。椎名の目の色は黒だ。茶色がかった黒。光が当たると少しだけ栗色に見える。今、朝の光が窓から入っていて、椎名の目が栗色に光っている。
「……ただいま」
声が、とても小さかった。椎名のぼそぼその、さらに半分。教室のざわめきにほとんど溶けている。俺じゃなければ聞こえなかっただろう。隣の席の、この距離でしか聞こえない音量。
椎名の耳が赤くなっていた。髪で隠れているが、前髪の隙間から耳の端が見える。赤い。九月の朝。教室。隣の席。「ただいま」の後の赤い耳。
笑った。押さえられなかった。声は出さなかった。口元だけ。でも笑った。
椎名が気づいた。俺の笑いに。
「……笑わないで」
「笑ってない」
「……笑ってる」
笑ってる。認める。でも理由は言えない。嬉しかったから、とは。
◇◇◇
二学期の初日。全校集会。校長の話が長い。体育館は暑い。エアコンがない。扇風機が数台回っているだけ。千人以上の生徒の体温と九月の気温が合わさって熱帯雨林みたいな湿度になっている。
教室に戻ると結衣が爆発した。
「あんたら夏休み中も会ってたでしょ」
結衣の声が教室に響いた。教室というか、廊下まで響いたと思う。結衣の声量は鹿沼一だ。
「グループでも会っただろ。川とか花火とか」
「違う、二人で! 二人で会ってたでしょ! 図書館とかーー!」
情報源は誰だ。俺は言ってない。椎名も言わないだろう。航か。航は口が堅い。凛は論外。美咲——美咲は知らないはず。
結衣が「だってちさのLINE見ればわかるもん! 『図書館行ってきた』って!」
椎名が送ったのか。グループLINEだったか個別だったか。椎名はグループLINEではほとんど発言しない。でも結衣とのDMでは——知らない。椎名と結衣の関係は、俺から見えない部分がある。
「……別に」
椎名が言った。
「……別に」
俺が言った。
同時。また同時。花火の後の「人混みで」と同じ。打ち合わせていない。
結衣の目が細くなった。にやっとした。口が開いた。
「また息ぴったり! なにそれ! 怖! 仲良!」
航が教室の後ろで椅子を傾けていた。「放っとけ」。航の声は低い。結衣の暴走を止める時の航の声。
凛が微笑んだ。静かに。何も言わずに。凛は全部見ている。全部わかっている。でも言わない。凛はそういう人だ。
美咲がにこにこしながら言った。
「なんか二人の距離縮まってない? 夏前と全然違うよ?」
美咲は鋭い。天然に見えて、人の距離感に対する感度が高い。観察力じゃなくて直感。美咲の直感は正確だ。
縮まっている。確実に。四月の頃は椎名の声を聞き取るのに集中が必要だった。今は自然に聞こえる。椎名のぼそぼそが、背景音じゃなくて直接届く。耳が慣れたのか、椎名が少しだけ声を大きくしたのか。——たぶん、両方だ。
それに、教室の中で一番落ち着く場所が、もうはっきり決まってしまっている。窓際の後ろから二番目。椎名の左隣。
花火で手が触れた。図書館で隣に座った。理由だけ並べれば、どれも説明できる。
それでも、四月と九月で椅子の温度が違う。
◇◇◇
放課後。
教室から生徒が帰っていく。夏休み明けの初日は午前授業だ。昼過ぎに終わる。部活を持っている生徒は部活へ。持っていない生徒は帰宅。俺は陸上部だが、今日は休み。初日だから。
椎名が帰り支度をしていた。鞄に教科書をしまっている。文芸部も今日は休みらしい。余ったプリントを丁寧にクリアファイルに挟んでいる。椎名は紙を折らない。手のプリントもファイルに挟む。几帳面を超えている。
椎名が鞄を持って立ち上がった。机の横に立った。俺の方を見た。
「……夏休み、楽しかった」
言った。たぬきの話じゃなくて。
直接。
「夏休み、楽しかった」。七月からの四十日間を、その一言でまとめた。川遊びも花火も図書館も通話も全部を含んだ「楽しかった」。たぬきの翻訳を経由しないで。
「俺も」
椎名の眠そうな目が少し和らいだ。力が抜けたとも言える。椎名は感情を表に出すとき力むことがある。言いにくいことを言う時、肩に力が入る。今、それが抜けた。
「……二学期も、よろしく」
「何だよ改まって」
「……別に。言ってみただけ」
椎名が視線を外した。鞄の紐を握る手が少し動いた。握り直した。白い指。いつも通り冷たそうな指。
「よろしく」
俺も返した。改まって。椎名がやったんだから俺もやる。椎名がほんの少し笑った。眠そうに。口元だけ。いつもの。
椎名が「……じゃあね」と言って教室を出て行った。廊下を歩く足音。軽い。小さい。遠ざかっていく。
俺は教室に残った。窓から外を見た。校庭が見える。午後の日差し。グラウンドに人影はない。野球部がまだ準備をしている。遠くでバットの素振りの音がかすかに聞こえた。
椎名が正門を出ていくのが、窓から見えた。小柄な体。白いシャツ。紺のスカート。カーディガンは着ていない。九月だ。まだ暑いから。でもすぐに着始めるだろう。十月になればカーディガンの季節。
椎名の背中が小さくなっていく。正門を出て、右に曲がって、住宅街の道に消えていく。日焼けしていない白い腕が、最後に見えた。
鞄を持って教室を出た。廊下。階段。昇降口。外。九月の太陽。暑い。でも風に秋がいる。ほんの少し。背中を通り抜ける風が、八月よりわずかに乾いている。
明日の昼には、また机の境界で何かが往復する気がした。
二学期は、そういう温度で始まった。




