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椎名さんは眠そうに笑う  作者: 雨宮 沙奈
隣の席は、呼吸の距離
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第43話「最後の一日、短すぎる」


八月三十一日。


夏休み最終日。


窓の外を見た。空が高い。八月の頭と空の色が違う。あの頃は白っぽかった。水蒸気で霞んでいた。今日の空は青が濃い。透明度が上がっている。雲の輪郭がくっきりしている。風がある。けど暑い。三十二度の予報。九月になっても暑いのは確定している。残暑。鹿沼の残暑は長い。


宿題は終わっている。


椎名のおかげだ。読書感想文は椎名がアドバイスしてくれた。数学のプリントは航と一緒に自習室で片付けた。理科のレポートは自力で。全部終わった。八月三十一日に机の上に宿題が積まれていない夏休みは初めてだ。小学校の頃から最終日は修羅場だった。


何もすることがない。


何もすることがない最終日は、思ったより落ち着かなかった。暇なら嬉しいはずなのに、時計ばかり見ている。午前が長い。午後はもっと長い。結衣なら絶対に外に出ているだろうし、航ならギリギリまで寝ているかゲームだ。凛はたぶん写真の整理、美咲は鏡の前で二学期の自分を調整している。


椎名は——本を読んでいる気がした。あるいは、もう秋のたぬきの話を書いているかもしれない。夏のたぬきはどう過ごしたのだろう。川で遊んだ。花火を見た。手が触れた。——それはたぬきじゃなくて俺の夏だ。


昼を過ぎても、夏休み最終日らしい事件は何も起きなかった。起きないからこそ、終わる感じだけがじわじわ濃くなる。


机の引き出しを片づけた。使い終わったレポート用紙。終業式の日にもらったプリント。図書館の貸出票。感想文用のメモ。夏のあいだに増えた紙ばかりだ。


その中に、椎名の付箋のコピーがあった。『……ここが好き』。


たったそれだけで、夏休み全部の匂いが戻ってくるから困る。


朝練は昨日で終わった。明日から二学期。今日は完全な空白。夏休み最後の空白。


スマホを開いた。グループLINE。


結衣が昨夜から暴れている。


『宿題終わった人ー?』


凛。

『終わったよ。先週には』


美咲。

『やばいやばいやばい まだ自由研究終わってない』


航。

『……』


既読のみ。航の沈黙は雄弁だ。終わっていない。確定。


結衣。

『航、終わってないでしょ!笑』


航。

『うるせえ』


否定しない。つまり図星。


美咲。

『航くんもなんだ! 仲間!』


航。

『仲間にすんな。あと半分はある』


結衣。

『半分あるの!? あんた何してたの夏休み!』


航。

『走ってた』


嘘じゃない。航は陸上の自主練を毎朝やっていた。俺もだが、航の方が練習量が多い。航は才能がある。走ることに関しては。その分、宿題に回す時間が削られる。


椎名。

『……』


既読のみ。椎名は宿題を七月中に終わらせている。清書も完了済みだ。あの万年筆で。椎名は既読をつけるだけだが、それが全てを物語っている。余裕。圧倒的な余裕。


結衣。

『ちさは当然終わってるよね?』


椎名。

『……うん』


結衣。

『勝ち組すぎる! ちさ羨ましい! あたしも昨日徹夜して終わらせた!』


美咲。

『徹夜したの!? 偉い!』


結衣。

『偉くない! 最初からやっとけばよかった! 毎年同じこと言ってる!』


凛。

『来年こそは早く終わらせようね』


結衣。

『来年も同じこと言うと思う! 自信ある!』


画面が流れていく。スタンプが飛び交う。結衣の花火スタンプ。美咲のハートスタンプ。凛の猫スタンプ。航は既読のみ。椎名も既読のみ。


俺は何も送らなかった。読んでいるだけ。スマホの画面の中に六人の夏休みが流れている。


結衣がトーンを変えた。


『明日からまた学校かー。なんか嬉しいけど面倒』


航。

『面倒しかない』


美咲。

『でも皆に会えるじゃん!』


結衣。

『それは嬉しい! 皆に会いたかった!』


凛。

『私も。夏休み長かった』


椎名。

『……』


既読。何も送らない。でもずっと既読をつけている。グループの全メッセージを読んでいる。椎名は言葉を送らないが、全部受け取っている。椎名にとってこのグループは——巣穴の一部なのかもしれない。


◇◇◇


夕方。部屋にいた。宿題がないと本当にやることがない。走りに行こうかと思ったが、暑い。部屋のエアコンの中で本を読んでいた。椎名が選んでくれた本。図書館で借りた方じゃない。感想文用の本だ。感想文は書き終わったが、もう一度読んでいた。二度目の方が細部が見える。


スマホが鳴った。個別LINE。


椎名。


『……明日から九月』


見た。当たり前のことを言っている。カレンダーを見ればわかることを。でも椎名がわざわざ送ってきたのは、それが椎名にとって当たり前じゃないからだ。


『だな』


既読。二十秒。


『……夏、終わっちゃうね』


手が止まった。


『また隣の席だろ』


送った。迷わなかった。


既読。十秒。


『……うん』


椎名の「うん」。この二文字を何回見ただろう。今年の四月からずっと。二文字なのに返信のスピードや前後の文脈で意味が全然違う。今のは——安心した「うん」だと思う。思いたい。


『なら大丈夫じゃん』


自分で打って、自分で読み返した。「大丈夫」。何が大丈夫なのか。夏が終わっても大丈夫。また会えるから。隣の席だから。——それだけで大丈夫だと言い切れる自分に、少し驚いた。


椎名からの返信が来なかった。既読のまま。長い沈黙。何か打っては消しているのかもしれない。椎名はよくそうする。言いたいことを文字にして、眺めて、消す。何度か繰り返してから送る。あるいは送らない。


一分。二分。三分。


椎名。


『……たぬきは、秋になると毛が生え変わるの。……新しい季節の準備』


また、たぬきの話に戻った。


でも「新しい季節の準備」のところだけ、少し遅れて胸に落ちた。


『お前も生え変わるの?』


『……生え変わらないよ』


『じゃあそのまんまで』


送ってから、意味不明すぎたと思った。取り消す前に既読がついた。


椎名。


『……』


三点リーダーだけ。それ以上の言葉が出てこなかったのだろう。あるいは言葉を考えている途中で送信を押してしまったのか。


十五秒。


『……おやすみ』


二十二時。まだ寝るには早い。でも椎名は早く寝る。二十二時が椎名の上限だ。それ以降に起きていると翌日がさらに眠くなる。椎名の眠気は日常的だが、睡眠不足の日はもっとひどい。目が三割しか開かなくなる。


『おやすみ』


送った。スマホの画面が暗くなった。


部屋の天井を見た。エアコンの音。扇風機は消してある。窓は閉まっている。蝉の声は遠い。八月三十一日の蝉は、八月一日の蝉より鳴き方が違う気がする。数が減っているのか。それとも種類が変わっているのか。ミンミンゼミの大合唱は少し控えめで、代わりにツクツクボウシが混ざっている。季節が移っている。音が変わっている。


机の上には、明日の持ち物をまとめた鞄がある。夏休み前と同じ教科書。同じ筆箱。同じ上履き。


あの鞄を持って行けば、明日はまた隣の席だ。


夏が終わるのは惜しいのに、明日の朝だけは早く来てほしかった。


目覚ましを、いつもより十五分だけ早くした。

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