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椎名さんは眠そうに笑う  作者: 雨宮 沙奈
隣の席は、呼吸の距離
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第42話「宿題と巣穴」


お盆が明けた。


八月二十五日。朝。空気が変わった——と言いたいところだが、何も変わっていない。三十五度の予報。蝉が鳴いている。エアコンの室外機が回っている。鹿沼の夏は、お盆の前も後も同じ顔をしている。


変わったのは空気じゃない。


椎名が帰ってきた。


昨日の夜にLINEが来た。


『……帰った。たぬきちも無事』


たぬきちの無事を先に報告する椎名。相変わらずだ。


『おかえり。たぬきちよかったな』


『……うん。従弟にたぬきちの耳引っ張られて大変だった』


『耳引っ張るなよ』


『……たぬきちの耳は大事なの。あの丸さが大事なの』


熱弁。椎名がたぬきちの話になると急に饒舌になるのは、もう知っている。ぬいぐるみの耳の丸さについて三十秒で五通のLINEが来た。椎名の最速記録だと思う。


三日間。長かった。航と二人で自習室に行った日。一人で部屋にいた日。朝練に行って帰ってきた日。全部いつもの夏休みなのに、どこか薄かった。LINEはした。電話もした。でも椎名の声がスマホ越しだと、近いのに遠い。


手も触れない。


——今日、会える。


◇◇◇


学校の自習室が開放されている。夏休み中の特別措置。エアコンの効いた教室を使わせてもらえる。自宅のエアコンより学校のエアコンの方が業務用で強い。それだけで来る価値がある。


航と待ち合わせた。昇降口。航が来た。Tシャツとジーンズ。航の私服はいつも同じ系統だ。色違いを何枚も持っている。効率的なのか無頓着なのか。


「宿題やんねえとヤバい」


航が開口一番に言った。


「お前まだ終わってないのかよ」


「お前もだろ」


「……はい」


数学のプリントの残り二ページ。あと読書感想文の清書。合わせて三、四時間。終わる。たぶん。


自習室に入った。窓が開いている。風が通る。冷房と自然風のハイブリッド。机が教室の半分くらい並んでいる。数人が既に座って勉強していた。知らない顔。他のクラスか、上の学年だろう。


航と机を並べた。航が数学のプリントを広げた。最初のページから白い。まだ手をつけていない。夏休みが始まって一ヶ月以上経っているのに。


「お前……最初からかよ」


「うるせえ。お盆で実家帰ってて時間なかった」


廊下を歩く足音が聞こえた。静かな足音。上履きが床を擦る音がほとんどない。軽い。小さい。


椎名が入ってきた。


鞄を肩にかけている。白いTシャツ。紺のカーディガン。夏でもカーディガン。冷房が寒いから——という理由を椎名は言う。でも本当は、腕を隠しているのかもしれない。椎名は肌の露出が少ない。年がら年中、長袖か七分袖かカーディガンだ。


目が合った。


椎名の目が半分閉じている。眠そう。お盆から帰ってきたばかりで疲れているのか、単にいつも通り眠いのか。


「……たぬき、帰ってきた」


唐突だった。挨拶でもなく。おはようでもなく。「たぬき、帰ってきた」。自分のことをたぬきに託して報告している。いつものパターン。でも今のは——帰ってきた、と言いたかったんだと思う。自分が。ここに。


笑った。声が出た。


「無事でよかったな」


椎名の耳が赤くなった。カーディガンの袖を引いた。顔を伏せた。「……うん」と小さい声。


航が顔を上げた。俺と椎名を交互に見た。何か言いかけた口が閉じた。航は察しがいい。何も言わずにプリントに視線を戻した。


椎名が俺の隣の席に座った。航の反対側。三人並んだ。椎名が鞄から文具を出した。ペンケース。シャーペン。消しゴム。ノート。原稿用紙。全部丁寧に並べる。椎名は物を置く位置にこだわる。シャーペンの角度まで揃えている。


「何やってんの」


「……読書感想文の清書」


「もう本文できてるのに清書?」


「……字が気に入らなかった。書き直す」


完璧主義。椎名の字は元から綺麗なのに。細くて丁寧な字。図書館で付箋に書いてあった「ここが好き」の字。あの字がまだ頭に残っている。


三人で机に向かった。航は数学。俺も数学の残り。椎名は原稿用紙に万年筆で——万年筆?


「お前万年筆使うの」


「……清書の時だけ」


「なんで」


椎名が少し考えた。


「……筆圧で、気持ちが乗るから」


意味がわかるようなわからないような。でも椎名が万年筆のキャップを外した時、指の動きが普段と違った。丁寧に。大切に。安い万年筆だ。高級品じゃない。でも椎名にとっては特別な道具なのだろう。


椎名のペン先が原稿用紙を走り始めた。かすかな音がした。万年筆のインクが紙に乗る音。教室の静けさの中では、その微かな音まで聞こえた。


三人の時間が流れた。航のシャーペンのカチカチという音。俺のシャーペンが紙を走る音。椎名の万年筆のさらさらという音。三つの音が教室に重なっていた。蝉の声は窓の外。エアコンの低い唸り。時計の針の音。


椎名が時折、俺の手元を覗いた。


気づいていないと思っているのだろう。視線だけ。顔は動かさない。目だけ横に流れる。俺のプリントの答えを見ているのか——いや、感想文の下書きの方を見ている。


「……ここ」


椎名がぼそっと言った。俺の感想文の下書きの一箇所を指差している。


「ここ、『感動した』だけだと弱い。……どこに感動したか、具体的に書いた方がいい」


「どこって言われても」


「……あの場面。川で少年が石を投げるところ。……あそこで何を感じたか。それを自分の言葉で」


的確だった。椎名は小説を書くだけあって、文章の勘所がわかっている。「感動した」では伝わらない。何に、どう、なぜ。椎名の声は小さいのに、言葉は鋭い。


「なんでお前俺の感想文読んでんの」


「……見えた」


嘘だ。俺の手元は見ようとしないと見えない角度だ。見ようとして見た。でもそれを指摘するのは野暮だ。


「サンキュ」


「……うん」


椎名が視線を自分の原稿用紙に戻した。万年筆が走る。字が並んでいく。椎名の字は本当に綺麗だ。一文字一文字が等間隔で、整っている。でも機械的な整い方じゃない。手書きの温かさが残っている。椎名の字には人格がある。


◇◇◇


航が先に帰った。


「プリント半分終わったから帰る」


「半分しか終わってないだろ」


「明日やる。——じゃあな」


航が鞄を持って出て行った。振り返らなかった。航はいつも振り返らない。でも出て行く直前に一瞬だけ——ほんの一瞬だけ——俺と椎名を見た気がした。何かを確認する目。花火の夜の時と同じ目。


二人になった。


教室に他の生徒はもういない。夕方。窓から赤い光が射している。夏の日は長い。五時を過ぎてもまだ明るい。でも光の色が変わっている。白い昼の光から、赤みを帯びた夕方の光へ。


椎名が原稿用紙にペンを置いた。万年筆のキャップを戻した。丁寧に。背筋を伸ばして——伸びをした。


腕を上に上げて。背中を反らして。小さく。


「ふぁ」


声が漏れた。


固まった。


動けなかった。シャーペンを持ったまま。プリントの途中。手が止まった。頭が止まった。


何だ今の。可愛い。可愛いとかそういう——いや違う。可愛いじゃ足りない。何だあの声。何だあの生き物。椎名という生き物は何なんだ。カーディガンの中に猫が住んでいるのか。


椎名が気づいた。俺が固まっていることに。


「……何」


「何でもない」


声がかすれた。顔が熱い。耳が熱い。見るな。こっちを見るな。


「……変な顔してる」


「してない」


してる。自分でわかる。どんな顔をしているか具体的にはわからないが、普通の顔じゃないことは確実だ。


椎名が首を傾げた。理解を諦めたらしい。椎名は深追いしない。追わないでくれて助かる。


窓の外。赤い光。教室の壁がオレンジ色に染まっている。黒板が赤茶色に見える。椎名のカーディガンの紺が、夕日に照らされて少しだけ紫がかっている。


片付けを始めた。二人とも。椎名が原稿用紙を丁寧にクリアファイルに挟んだ。万年筆をペンケースにしまった。俺はプリントを鞄に突っ込んだ。椎名の几帳面さと俺の雑さが並んでいる。


教室を出た。廊下。上履きの足音が二つ。静かな校舎。夏休みの校舎は人が少ない。自分たちの足音が反響する。


昇降口で靴を履き替えた。椎名がサンダルに足を入れた。白いサンダル。爪が見えた。素足。椎名の足は白い。手と同じ。日焼けしない体質なのか、外に出ないからなのか。


外に出た。暑い。教室のエアコンが効いていた分、外気との差がひどい。むわっとする熱気。アスファルトの照り返し。空は赤い。西の空に太陽が沈みかけている。


並んで歩いた。通学路。いつもの道。椎名の歩幅に合わせると、俺の歩数が増える。椎名が小柄だから。歩くことに文句はない。この速度でいい。急ぐ理由がない。


椎名がぼそっと言った。


「……お盆、つまんなかった」


「親戚の家だろ」


「……従弟が騒がしくて。ゲームしようゲームしようって」


「お前ゲームやんの」


「……やらないから困った」


想像できた。椎名が親戚の子供に囲まれて、ゲームのコントローラーを持たされて、困った顔をしている姿。眠そうな目のまま、何をすればいいかわからずにボタンを押している姿。


「お前んちの沙季の方が騒がしいだろ」


「……それは。……そう」


沙季。椎名の妹。元気な中学生。川遊びの時に来た。「お姉ちゃんが心配だから!」と言っていた。確信犯の目をしていた。


「……でも」


椎名が一拍置いた。言葉を選んでいる。たぬきの話に逃げるか、本当のことを言うか。選択の瞬間が見えた。


「……鹿沼の方が、いい」


「そりゃそうだろ。自分の家だし」


「……そうじゃなくて」


椎名が止まった。足が止まった。立ち止まって——俺の方を見た。夕日が椎名の横顔に当たっている。赤い。眠そうな目が、少しだけ開いている。


何かを言おうとした。口が動きかけた。でも閉じた。飲み込んだ。


「……たぬきは、自分の巣穴が一番」


たぬきで逃げた。予想通りだった。でもトーンが違った。いつもの「たぬき雑学」じゃない。声の温度が一段低い。低いというか——深い。


巣穴。椎名の巣穴は椎名の家だ。鹿沼の家。部屋。たぬきちのいるベッド。


——でも、それだけじゃない気がした。


学校。教室。隣の席。自習室。図書館。椎名が「いい」と思う場所。椎名が帰ってくる場所。そこに俺が含まれているのかどうか。


含まれていてほしい。


そう思った。はっきりと。


「……じゃあね」


椎名が分かれ道で立ち止まった。夕日が低い。椎名の影が長く伸びている。


「おう。——清書、頑張れよ」


「……うん」


椎名が歩いていく。背中。白いTシャツ。紺のカーディガン。小柄な体が住宅街の奥に溶けていく。


角を曲がって見えなくなったあと、八月三十一日が急に近くなった。


一人になった。


歩きながら考えた。椎名の「鹿沼の方がいい」。その言葉だけが頭に残っている。椎名にとって鹿沼が「いい」理由。家があるから。学校があるから。友達がいるから。それだけか。


言ってないし。椎名は。たぬきの話に逃げただけ。巣穴が一番。それだけ。


でも「そうじゃなくて」と言いかけた。家だからじゃなくて。じゃあ何なんだ。


西の空が燃えている。鹿沼の夕焼けは、空の端まで全部赤い。遮るビルがないから。山の稜線の上に、空が丸ごと赤い。


含まれていてほしい。椎名の「いい」の中に。


——含まれていなくても、隣にいるけど。


◇◇◇


夜。二十二時前。


宿題の清書をしていたら、スマホが鳴った。椎名からだった。


『……電話していい?』


少し意外だった。今日は昼に会って、放課後も並んで帰った。その上で電話。話すことがまだ残っているのか。


通話ボタンを押す。


「もしもし」


「……もしもし」


椎名の声。夜版。少し低い。背後で扇風機が回っている音がする。


「どうした」


「……感想文、清書終わった?」


「今やってる」


「……遅い」


「お前が早すぎるんだよ」


少しだけ、間。


「……親戚の家、夜が静かすぎて落ち着かなかった」


不意打ちだった。宿題の話から、いきなりそっちへ飛ぶ。


「静かな方が寝やすいだろ」


「……そう思ったんだけど。……違った」


扇風機の音の向こうで、椎名が言葉を探しているのがわかった。


「……鹿沼は、虫の声がするし」


「するな」


「……踏切の音も、たまにするし」


「する」


「……きみがいるし」


息が止まった。


でも次の瞬間、椎名が慌てたみたいに続ける。


「……学校に、って意味」


「知ってる」


知っていることにした。知っていることにしないと、声がうまく出なかった。


通話の向こうで、椎名が小さく息を吐いた。たぶん耳が赤い。見えないのに、そう思った。


「……明日も自習室、来る?」


「行く」


「……そっか」


その二文字が、昼の帰り道より柔らかかった。


窓を開ける。夜風。虫の声。


「今、そっち何の虫鳴いてる?」


「……高いやつ」


「雑だな」


「……でも、こっちの方がいい」


通話を切ったあと、部屋の静けさが前より薄かった。


明日も自習室に行く。たぶん大した会話はしない。それでも、会う前提で夜が終わるのは悪くない。

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