第41話「離れた指」
目が覚めた。
六時半。カーテンの隙間から朝の光が射している。白い。まだ低い角度の太陽だ。昨日は夜遅かったのに、体が勝手に起きた。陸上部のリズムが抜けない。夏休みでも朝練がある日は五時半に起きていた。今日は練習なし。なのに六時半。
天井を見た。
手のひらを見た。
右手。何もない。当たり前だ。昨夜の痕跡なんか残るわけがない。
——なのに、右手だけが昨日のままだった。
起き上がった。洗面台で顔を洗った。水が冷たい。八月だが朝の水道水はまだひんやりしている。タオルで顔を拭いた。鏡を見た。寝癖。いつも通りの顔。何も変わっていない。
でも、右手だけが昨日から置き場所を失っていた。
花火で手が触れた。それだけのはずだ。名前をつけるほどのことじゃない。
右手の指先を、左手でなぞった。椎名の指が触れていたのは、このあたりだ。人差し指の第二関節。小指の付け根。そのへんが、まだ冷えているような錯覚。
◇◇◇
リビングに降りた。母が朝食を作っている。目玉焼きの匂い。トーストの焦げた匂い。
「あら、早いじゃない。昨日遅かったのに」
「目、覚めた」
「花火楽しかった?」
「まあ」
「まあ、って。もうちょっと何かないの」
ない。あるけど、母に話す内容じゃない。
椅子に座った。目玉焼きとトースト。オレンジジュース。母が向かいに座る。テレビがついている。天気予報。「今日も猛暑日の予報です」。知ってる。窓の外はもう暑そうだ。空が白い。雲じゃなくて、空気の中の水蒸気が光を散乱させている。鹿沼の夏の空。東京の空とは違うと航が言っていた。航は小学校まで東京にいた。
スマホを開いた。グループLINE。
昨夜の花火の写真で溢れていた。凛が撮った写真。さすがだった。夜の花火を一眼レフで撮ると、スマホとは全然違う。花火の輪郭がくっきりしている。光の筋が一本一本見える。空の黒が深い。
六人で撮った写真もあった。花火が始まる前にシートの上で。結衣がセルフタイマーで撮った。全員が写っている。結衣が中央でピース。美咲が満面の笑み。凛が控えめに微笑んでいる。航が無表情。俺が——普通の顔をしている。たぶん。
椎名が端にいた。目が半分閉じている。眠そう。いつもの椎名。浴衣の白さがフラッシュの光で際立っている。
その下に、凛が追加した写真が一枚あった。少しぶれている。たぶん終わり際に連写していたやつだ。花火を見上げている横顔の列。みんな同じ方向を向いているのに、視線がそこに止まった。
写真の端で、俺と椎名の手が近い。
触れている瞬間じゃない。そこまでは写っていない。でも、あと少しでそうなっていた距離だけが、はっきり残っていた。数センチ。言い逃れできる程度の距離で、言い逃れしにくい形だ。
結衣がスタンプを連打している。花火のスタンプと「最高!」のスタンプと「また来年も!」のスタンプ。
「楽しかったーーー!」
美咲がスマホを覗き込みながら叫んだ。
凛が花火の写真をさらに三枚追加する。
「凛のカメラいいな」
航が画面を見てぽつりと言う。
「ありがとう」
凛が小さく返した。
結衣が追撃した。
『ちさの浴衣、優勝じゃなかった!?』
その後にもう一つ。
『ていうかこの端っこの指先、拡大したら怒られるやつじゃない?』
凛がすぐに『拡大しないで。花火に夢中だっただけでしょ』と返した。流している。でも、見えてはいる。
美咲もすぐ反応した。
『わかるー! 白に藍って反則だよね』
航。
『朝からうるせえ』
椎名は——既読だけ。何も送っていない。いつものことだ。椎名はグループLINEで滅多に発言しない。既読をつけるのが精一杯。それでいい。椎名はそういう人だ。
個別LINEを開いた。
椎名とのトーク画面。最後のメッセージは昨日の昼。『……十九時、駅前ね』『おう』。それ以降、何もない。
花火が終わった後、帰り道で「じゃあね」と言い合った。それだけ。あの後何もLINEしていない。俺も、椎名も。
何か送るべきなのか。「昨日楽しかったな」。——いや、それは普通すぎる。「浴衣似合ってた」。——それは今更すぎる。言うなら昨日言うべきだった。言えなかったけど。「手——」
やめた。何を送ろうとしている。
スマホを閉じた。トーストをかじった。焦げた部分が苦い。目玉焼きの黄身を崩した。ぐにゃりと黄色が広がった。
◇◇◇
昼。部屋にいた。エアコンが効いている。外は三十六度の予報。窓の向こうの空が白い。蝉が鳴いている。ミンミンゼミの大合唱。
宿題をやろうとした。数学のプリント。最後の五ページ。椅子に座ってシャーペンを持った。今度は手のひらを見ないように、そのまま一問目に取りかかった。
シャーペンが走る。二次方程式。判別式。解の公式。手は勝手に進むのに、頭は昨夜のままだった。
椎名の浴衣。焼きとうもろこしの醬油の匂い。人混みで触れた手。花火の色ごと変わる横顔。帰り道の「じゃあね」。
二ページで止まった。普段なら二十分で終わる量なのに、今日はやけに遠い。
ペンを置いた。指先が少しインクで汚れている。シャーペンの芯の粉。何でもない汚れのはずなのに、視線が勝手にそこへ戻る。
ベッドに倒れ込んだ。天井。扇風機の風が顔に当たった。
◇◇◇
夕方。空がオレンジ色になり始めた頃、スマホが鳴った。
椎名。個別LINE。
昨日の花火以来、初めてのメッセージだった。
『……お盆、親戚のところに行くの。三日くらい』
文面を見た。三点リーダーから始まる。いつもの椎名。お盆。親戚。三日。
『了解。いつから?』
三十秒。
『……明後日から』
明後日。あさっての朝に出発して、三日後に帰ってくる。短いはずなのに、妙に長く感じた。
『たぬきち連れてくの?』
送ってから、何を送っているんだと思った。ぬいぐるみの心配をしてどうする。
『……当然』
『当然なんだ』
『……たぬきちは家族だから』
椎名のたぬきちへの信頼は揺るがない。あのへたった茶色いぬいぐるみ。椎名の部屋のベッドの上に鎮座しているらしい。見たことはない。椎名が教えてくれた。夜電話した時に「たぬきちが枕を占領してる」と言っていた。
『じゃあ気をつけて』
送った。
既読。
返信が来ない。五秒。十秒。三十秒。
『……うん』
それだけだった。
入力欄を開いたまま、指が止まる。
『楽しんできて』は遠い。『お土産よろしく』は軽い。『早く帰ってこい』は近すぎる。
結局、何も足せなかった。スマホを閉じた。
窓の外が暗くなり始めている。夕焼けからの移行。オレンジが紫に変わる時間帯。鹿沼の西の空は、山の稜線の上に色が広がる。綺麗だった。
手のひらを見た。今日何度目だ。もう数えていない。
冷たくない。当たり前だ。椎名がいないから。椎名の手が触れていないから。
グループLINEの写真をもう一度開く。指先の数センチ。あれは触れていない。触れていないのに、見たやつには十分だ。
部屋が暗くなっていた。電気をつけていなかった。窓の外が紫色から紺色に変わっている。最初の星が見えた。宵の明星。椎名ならたぶん「金星」と言うだろう。たぬきの話に絡めて。「たぬきは夕方に出てくるの。金星が出るころ」とか。
机の端にあった卓上カレンダーを引き寄せた。出発の日に小さく丸をつけて、その三日後にも丸をつける。帰ってくる日。
その三日分だけ、教室の左側が先に空いた気がした。
送れなかった一文だけが、丸をつけた指先に残った。
早く帰ってこい。




