第40話「花火どころじゃない」
夏祭りの空気は、日常の空気とは別の成分でできている。
十九時。駅前の集合場所。人が多い。浴衣の人も私服の人もいる。焼きそばの匂いが風に乗っている。綿菓子の甘い匂い。屋台の発電機が低く唸っている。提灯が道沿いに並んでいる。赤と白。風に揺れている。足元は砂利。下駄の音がぱたぱたと重なっている。
結衣が手を振った。「こっちこっち!」。声がデカい。祭りの喧騒に負けていない。結衣は浴衣を着ていた。黄色っぽいやつ。向日葵みたいな柄。結衣に合っている。
美咲がいた。ピンクの浴衣。華やかだ。帯の結び方が凝っている。お母さんに着付けてもらったと言っていた。美咲は浴衣を着ると雰囲気が変わる。いつものカジュアルな明るさに、どこか艶っぽさが混ざる。
凛がいた。紺の浴衣。去年のやつ。白い帯。控えめだけど、凛が着ると落ち着いた品がある。髪をまとめていた。いつものショートボブをピンで留めて、うなじが見えている。一眼レフを首から下げている。浴衣なのに。カメラを手放さない凛らしい。
航が私服で立っていた。Tシャツとジーンズ。浴衣を着る気はないらしい。俺も私服だ。男で浴衣を着るのはハードルが高い。航と目が合った。航が顎を上げた。「よう」。
美咲の浴衣に、航の視線が一瞬だけ止まった。一瞬。コンマ何秒。航自身は気づいていないだろう。無意識の動作だ。視線がすぐに戻った。何事もなかったように。
——でも、見えた。
椎名がまだ来ていなかった。
結衣が「ちさ遅くない?」とスマホを見た。美咲が「LINE送った?」。凛が「もうすぐ来るんじゃない」。
路地の向こうから、人混みを縫って歩いてくる小柄な姿が見えた。
椎名だった。
白地に藍色の柄。
LINEで聞いた通りだった。白と藍。お母さんの浴衣。小柄な椎名の体を、柔らかく包んでいた。帯が紺。紺の帯が腰のあたりで結ばれていて、浴衣の白さを引き締めている。下駄。木の下駄。ぱたぱたという音が人混みの中でも聞こえた。
髪をいつもと変えていた。横の髪を耳にかけている。普段は髪が頬にかかって耳が見えないのに、今夜は耳が見えていた。イヤリングはしていない。椎名はアクセサリーをつけない。何も飾っていない。浴衣だけ。それだけで。
——感覚が止まった。
一秒。全部が目に入った。浴衣の襟元。鎖骨の線がわずかに見えている。うなじ。髪を上げたから首の後ろが見えた。白い。蛍光灯の白さじゃなくて、皮膚の白さ。椎名の白さ。提灯の橙色の光に照らされて、白い肌がほんのり温かい色に染まっていた。
目が開いている。眠そうじゃない。こちらを見ている。反応待ちのまま固まっている目だった。
結衣が飛びついた。「ちさ可愛い! やば! 超似合う!」。美咲が「千沙ちゃん可愛いー! 白似合う!」。凛がカメラを構えた。シャッター音が一つ。一枚だけ。凛はいつも一枚で決める。
椎名が目を伏せた。
「……普通」
息を吸うのを忘れた。
声が出なかった。何か言わないといけない。「似合ってる」とか「かわいい」とか。結衣も美咲も言った。俺も言うべきだ。でも口が動かなかった。声帯が固まっている。
航が俺の肩を叩いた。
「おい」
「……ん」
「固まってんぞ」
「……うるせえ」
声がかすれた。航がにやっとした。見たことのない表情だ。航は普段笑わない。にやっとはもっとしない。でもした。一瞬だけ。すぐにいつもの無表情に戻った。
椎名がこっちを見ていなかった。結衣に話しかけられていた。「浴衣、お母さんの? クラシックで良い!」。椎名が「……うん」と答えている。耳は——見えている。今日は髪を耳にかけているから。
赤い。耳が赤い。
◇◇◇
六人で屋台を回った。
提灯の灯り。屋台の蛍光灯。二種類の光が道を照らしている。人が多い。声が多い。祭りの空気は密度が高い。
射的の屋台に着くなり、結衣がまっすぐ棚を指さした。
「あたし絶対あのぬいぐるみ取る!」
横に引きずられた航が顔をしかめる。
「勝手に巻き込むな」
「一発打ってみなよ!」
結衣の目はもう景品しか見ていない。
航がだるそうに銃を構えて——一発で棚の端のぬいぐるみを落とした。
「えっ! うまっ! なんで!」
結衣の声が一段上がる。
「狙えばいい」
航は肩をすくめた。
「狙ってんだよこっちは!」
美咲がかき氷の屋台で「いちご!」と頼んでいた。目が輝いている。スプーンで削って食べて、「舌が赤い!」と凛に見せた。凛が写真を撮った。美咲は撮られ慣れている。ポーズを取る動作が自然だ。
俺と椎名がグループの後ろを歩いていた。
椎名が下駄に慣れていない。歩くのが遅い。一歩一歩を確かめるように踏んでいる。砂利の上を下駄で歩くのは難しいのだろう。何度か足がぐらついた。
自然と、二人がグループから離れた。前を歩く四人が人混みに紛れて、提灯の灯りの向こうに遠ざかっていく。
椎名が焼きとうもろこしの屋台を見ていた。立ち止まって、屋台の向こうで焼かれているとうもろこしに目をやっている。醬油の焦げた匂い。香ばしい。
「食うか」
椎名が顔を上げた。少し驚いた目。それから、ほんの少し頷いた。
買った。一本。椎名に渡した。割り箸に刺さっている。椎名が両手で受け取った。浴衣の袖が少し邪魔そうだった。袖を抑えながら、かじった。
不器用だった。前歯でかじるのだが、粒がうまく取れなくて、顎を横に動かしている。口の周りに醬油がついた。ほんの少しだけ。唇の端。椎名は気づいていない。
笑った。声が出た。
椎名がこちらを見た。
「……笑わないで」
「いや、口のとこ」
椎名が慌てて袖で拭こうとした。浴衣だから——「おい、袖で拭くな」。ポケットからティッシュを出して渡した。椎名が受け取った。指が冷たかった。一瞬だけ触れた。
「……ありがと」
声が小さい。提灯の光が椎名の横顔を照らしていた。橙色。眠そうな目が、祭りの灯りの中で少しだけ開いている。
◇◇◇
人混みが増えてきた。花火の時間が近いのだ。河原に向かう流れができている。群衆が一方向に動き始めた。
六人が合流した。結衣が「花火始まるよ! 場所取り!」と叫んだ。河原に向かって走り出した。凛がついていく。美咲が「待ってー!」と追いかけた。航がため息をついて歩いた。
結衣と凛が先に行った。美咲が途中で立ち止まってスマホを見ている。航が追い抜いていった。
椎名と俺が最後尾だった。椎名の下駄が遅いから。
人が増えた。密度が上がっていく。河原に向かう道が狭くなった。左右に屋台があって、その間を群衆が流れていく。椎名の小柄な体が人波に押された。ぐらついた。下駄の歯が砂利に取られたのだ。倒れかけた——
手が動いた。
考える前に。
椎名の手に触れた。
冷たい。いつも冷たい椎名の指。夏の夜なのに、椎名の手は冷たかった。細い。指が細い。骨の形がわかるくらい。
「——はぐれるなよ」
声が出た。自分の声が耳に遠い。祭りの喧騒に紛れている。でも椎名には聞こえたはずだ。隣にいるから。
椎名がびくっとした。手が震えた。指先が跳ねた。触れた瞬間の、電気みたいな反射。
——でも、振り払わなかった。
手の甲どうしが触れたまま、人波に押されるたび離れかけて、また戻る。
前だけ見て歩いた。目は前。足も前。手だけが隣にいた。
椎名の冷たさが、触れているところからじわじわ移ってきた。
手を繋いでいるわけじゃない。
でも、完全には離れない。
◇◇◇
河原に出た。
人が多い。シートを敷いて座っている人。立って待っている人。子供がはしゃいでいる。川面が黒い。夜の川は光を吸い込む。対岸の打ち上げ台が暗闇の中にうっすら見えた。
結衣たちと合流した。結衣がシートを広げている。「ここ! ここ座って!」。全員がシートに腰を下ろした。
手は——
もう離れていた。
群衆を抜けた瞬間に、自然と離れた。どちらが離したのかは、やっぱりわからなかった。気づいたら離れていた。でも、触れていた時間の記憶は残っている。指先に。手の甲に。温度の境界線だった場所に。
離れた瞬間、右手の置き場が一瞬わからなくなった。ほんの一歩ぶんだけ、隣との距離が急に広くなった気がした。
最初の花火が上がった。
ヒュウウウウ、と音が夜空を切った。暗い空に光の線が昇っていく。一瞬の沈黙。空が止まる。
——ドン。
腹に響いた。衝撃波が肌に当たった。空に色が弾けた。赤。丸い光が広がって、先端が垂れて、消えていく。煙が残った。硝煙の匂いが風に乗って降りてきた。
次の花火。青。青白い光が夜空に円を描いた。川面に反射している。上と下で二つの花火が咲いている。
金。細い光の筋が放射状に散った。柳みたいに垂れ下がっていく。ぱらぱらと小さな音がして、光の粒が一つずつ消えていく。
音がうるさい。打ち上げの度に空気が震える。周囲の歓声。子供が叫んでいる。会話は聞こえない。隣に座っている椎名の声も——聞こえない。
だから、何も言わなくていい。
花火の光が椎名を照らしていた。
赤い花火の時、椎名の白い浴衣が赤く染まった。青い花火の時、椎名の横顔が青白く浮かんだ。金の花火の時、椎名の黒い瞳に光の粒が映り込んだ。
椎名が空を見上げている。口が少し開いている。目が開いている。眠そうじゃない。花火の光を、瞳の中に入れている。
光が変わるたびに椎名の色が変わった。赤。青。金。白。椎名の横顔が万華鏡みたいだった。同じ顔なのに、光の色で全部違う表情に見えた。
椎名が一瞬だけこちらを向いた。花火の光。赤い。椎名の目に赤い光が映っている。目が合った。
何も言わなかった。椎名も何も言わなかった。花火の音がうるさいから。そういうことにした。
椎名の指先が——
俺の手の甲をかすめた。
さっきみたいに握ったわけじゃない。触れたのとも違う。かすめた。指先が手の甲の上を、一瞬だけ通過した。蝶が止まって、すぐに飛び立ったみたいに。
確認だったのかもしれない。さっきまで触れていた距離を、もう一度確かめたかったのかもしれない。
花火が上がり続けた。空に色が散り続けた。俺は空を見ていた。椎名も空を見ていた。手は——繋がっていない。繋がりかけたまま、夏の夜の空気の中で、数センチの距離を保っている。
最後の花火が上がった。
大玉。空全体に広がった。赤と金と銀。音が何重にも重なった。空が光で埋まった。
そして——消えた。
暗闇が戻った。煙だけが残った。空はまた黒い。
拍手。歓声。周囲が動き始めた。シートを片付ける音。立ち上がる人。
少し離れたところで、凛が一眼レフのモニターを確認していた。花火の終わり際に何枚か連写していたらしい。結衣が「ちゃんと撮れた!?」と覗き込んで、凛が「たぶん」と短く返す。
椎名が立ち上がった。浴衣の裾を直した。こちらを見なかった。
俺も立ち上がった。手の甲が——冷たい。椎名の冷たさが移ったのか。触れていた場所だけが、まだ温度を覚えている。
◇◇◇
帰り道。六人で歩いた。
結衣が「きれいだったーーー! 最後のやつすごくない!?」。美咲が「写真撮れなかった! 暗い!」。凛が「三枚撮れたよ」。航が「三枚で充分だろ」。
結衣が振り返った。俺と椎名が後ろを歩いている。
「あんたらどこ行ってたのーー!? 屋台巡りの途中でいなくなったでしょ!」
「人混みで」
椎名が同時に答えた。
「……人混みで」
同じ答え。同時に。打ち合わせたわけじゃない。
結衣がニヤッとした。口が開きかけた。何か言おうとした。
凛が結衣の袖を引いた。静かに。首を横に振った。今はそっとしておけ、という顔。凛はわかっている。
結衣が口を閉じた。珍しいことだ。結衣が何か言いたいのを我慢したのは、俺が知る限り初めてだった。
六人で駅まで歩いた。分かれ道。いつもの場所。「じゃあねー!」と結衣が手を振った。美咲が手を振った。凛が会釈した。航は「じゃ」と言って自転車に跨がった。
二人が残った。
椎名と俺。
街灯の下。
椎名が俺の方を見なかった。俯いている。浴衣の裾を見ている。下駄の先を見ている。
何か言わないといけない気がした。手が触れたこと。花火のこと。浴衣のこと。——言葉が見つからなかった。
「……じゃあね」
椎名が先に言った。声がいつもより小さい。いつものぼそぼそのさらに半分くらいの音量。
「ああ。——気をつけて」
「……うん」
椎名が動かなかった。
下駄の先を見たまま、ほんの少しだけ口が動いた。
「……浴衣、変じゃなかった?」
聞き方がずるいと思った。変じゃなかった、で済ませる顔じゃない。
「変なわけないだろ」
言ってから、やっと続きが出た。
「……似合ってた」
椎名が止まった。耳が、街灯の下ではっきり赤い。
「……そっか」
椎名が歩き出した。下駄の音が遠ざかっていく。ぱたぱた。ぱたぱた。暗い住宅街の中に吸い込まれていく。
白い浴衣の背中が、街灯の光の中で一瞬だけ浮かんで——暗闇に消えた。
一人で立っていた。
花火の音はもう聞こえない。煙の匂いだけが微かに残っている。
右手だけが、まだ祭りの方を向いていた。




