第39話「花火の約束」
グループLINEが鳴った。
結衣だ。結衣のLINEには音量がある。文字なのに声が聞こえる。
『花火行くでしょ!? 全員! 鹿沼花火大会! 異論は認めない!』
スタンプ三連打。花火、花火、たぬきのスタンプ。たぬきは椎名向けだろう。結衣は椎名にだけ毎回たぬきのスタンプを送る。椎名は毎回スルーする。
航。
『行くけどうるせえ』
美咲。
『浴衣着る? 着たい! みんなで着よ!?』
凛。
『着るつもり。去年の紺のやつ出していい?』
結衣。
『凛のあの紺のやつかわいいからそれで! 美咲は?』
美咲。
『ピンクのやつ! お母さんに着付けてもらう!』
女子の浴衣トークが始まった。画面が流れていく。着付けの話、帯の色、髪型、下駄か草履か。航と二人で既読だけつけて見ている。男に発言権のない領域。
椎名が既読をつけたまま何も送らなかった。
いつもそうだ。グループLINEでの椎名は読む専門。四、五十メッセージ流れても既読だけ。よほどのことがないと文字を打たない。声と同じで、椎名の言葉は少ない。少ないから、出てきたときに重みがある。
結衣が名指しした。
『ちさ! 行くでしょ!?』
十秒。既読のまま。
椎名。
『……考える』
結衣。
『考えるじゃないの! 行くの! ちさが来なきゃ六人じゃないでしょ!』
結衣の圧力が画面越しに飛んできた。椎名は返事をしなかった。「考える」で閉じた。椎名の「考える」は八割方「行く」に変わる。結衣もそれを知っている。だからこれ以上は追わない。
航が俺にメッセージを投げた。
『おい藤原も返事しろ』
『行く』
一文字で返した。航が『了』。結衣がスタンプ五連打。画面が花火と星で埋まった。
スマホを置いた。枕の横。天井を見た。
花火大会。椎名と——六人で行く。全員で行くんだから、俺と椎名がどうとかいう話じゃない。六人の夏の続きだ。川遊びの次は花火。結衣の企画力に乗っかるだけ。
それなのに、頭の中で先に浮かぶのは二人の方だった。図書館の帰りに半分寄せてくれた日傘。付箋の「ここが好き」。原稿用紙を渡してきた時の震える指先。そういう細かい記憶が並んだ先に、花火が来る。
頭の中に映像が生まれた。
花火。夜空に散る光。屋台の灯り。人混み。椎名が隣にいる。浴衣を——
消す。
消した。
消えない。椎名の浴衣姿。見たことがない。見たことがないから想像しようとする。でも出てこない。白いTシャツとカーディガンの椎名。制服の椎名。帽子の椎名。浴衣の椎名は未知の領域で、脳が像を結べなかった。
結べないのに、見たいと思った。
スマホをもう一度開いた。椎名との個別トーク。何か送ろうとして、やめた。
『花火、楽しみだな』
普通すぎる。削除。
『浴衣着るの?』
聞かなくても、たぶん着る。いや、わからない。聞いた時点で気にしているのがバレる。削除。
結局、何も送れなかった。
◇◇◇
八月十六日。夏の登校日。
昇降口を入った瞬間、校舎の空気が久しぶりだった。七月の終業式以来だ。埃っぽい。窓が全部開け放たれている。廊下に風が通っている。夏休み中の校舎は人が少なくて、いつもの騒がしさがない。代わりに蝉の声が近い。窓から直接入ってくる。
教室に入った。
結衣がいた。教室の前の方で手を振っている。「おーい、はると!」。声がデカい。教室に響く。航が窓際で椅子を傾けている。美咲がスマホを見ながら手を上げた。凛が「おはよう」と静かに笑った。
椎名がいた。
隣の席。いつもの場所。窓際の後ろから二番目。椅子に座って、机に頬杖をついている。目が半分閉じている。暑さと眠さが半々だろう。窓から入る風が椎名の前髪を揺らしている。
「おう」
椎名が顔を上げた。目が合った。
「……おはよ」
声がぼそい。いつもの椎名だ。何も変わっていない。でも——夏の登校日に椎名の顔を見て、何かがほっとした。LINEで話していたのに。電話もしたのに。画面越しと、隣の席での距離は違う。
登校日は午前中だけだった。プリントの配布。宿題の提出状況チェック。椎名は例によって全部終わっている。チェックリストに最初に丸がついた。俺は残り三つ。読書感想文と、数学ドリルの最後の五ページと、理科のレポート。椎名のおかげで感想文は下書きまで終わっている。
結衣が帰り支度をしながら叫んだ。「花火! 十九日! 全員来るよね!」。航が「くどい」。美咲が「行く行く! 浴衣買った!」。凛がうなずいた。
椎名は何も言わなかった。机の中に教科書をしまいながら、黙っていた。
帰り支度が終わった。昇降口まで全員で移動する。靴を履き替える。椎名がサンダルに足を入れた。白いサンダル。足が小さい。踵が少しはみ出ている。
外に出た。正門。ここで方向が分かれる。結衣と美咲と凛は駅方面。航は自転車。椎名と俺は同じ方向だ。途中まで。
「じゃあねー!」結衣が手を振った。「花火楽しみ!」。美咲が手を振った。凛が会釈した。航が自転車に跨がって、無言で去った。
六人が二人になった。
住宅街の道。並んで歩いている。アスファルトからの照り返しが足元で揺れている。生垣の緑が濃い。八月の太陽が真上にある。影が短い。
椎名がぼそっと言った。
「……花火、行く」
「おう」
「……きみは?」
「行くよ。LINE返したろ」
「……そっか」
沈黙。
蝉が鳴いている。二人の足音。椎名のサンダルのぺたぺたという音。俺のスニーカーのざっざっという音。リズムが違う。
何か言いたかった。言いたいことの形がわからなかった。「花火楽しみだな」——それは普通の台詞だ。でも椎名に対して「楽しみ」と言うと、それは「椎名と一緒に行くのが楽しみ」の意味になる気がして、口から出なかった。
椎名も何か言いかけた。口が開いた。小さく。でも音になる前に閉じた。たぬきの話で埋めるか、何も言わないか。椎名の選択肢は二つしかない。
夏の登校日の校舎は静かだ。人が少ない分、沈黙がよく聞こえる。
だからこそ、言えない一言の形だけが、妙にはっきり見えた。
後ろから声がした。
「花火、集合十九時にメシ食ってからな。駅前」
航だった。自転車で追いついてきた。さっき去ったはずだ。何で戻ってきた。忘れ物か。——いや、わざわざ合流場所の念押しをしに来た。
「了解」
椎名が「……うん」と頷いた。
航が自転車のペダルに足を乗せた。一瞬だけ俺を見た。それから椎名をちらっと見た。何かを確認するような目。航が何を確認したのかはわからない。「じゃ」と言って去った。今度は本当に。
航が割り込んだことで、さっきの沈黙が解体された。言いかけた何かは、もう言えない空気になった。日常に戻った。
分かれ道が近い。
「……じゃあね」
椎名が左に曲がる手前で立ち止まった。
「ああ。十九日な」
「……うん」
椎名が歩き出す。三歩。四歩。——五歩目で。
「……浴衣」
聞こえた。聞こえたのか、聞こえた気がしたのか。
「ん?」
振り返った椎名の顔は見えなかった。もう背中を向けていた。帽子。白い。小さい背中。
「……何でもない」
白い帽子のつばだけが、少し揺れた。
浴衣、という二文字だけが、暑い道に残った。
帰り道。一人。蝉の声が響いている。住宅街の坂道。影が短い。暑い。
ポケットのスマホを握った。LINEを開いた。椎名とのトーク画面。何か送ろうとした。「浴衣楽しみにしてる」——指が止まった。削除した。「何色?」——それも削除した。何を送っても「浴衣のことが気になっています」という自白になる。
何も送れないまま、画面だけ閉じた。
◇◇◇
夜。
部屋。天井を見ている。扇風機が首を振っている。窓を開けると虫の声が入ってくる。鹿沼の夜は暗い。東京みたいにビルの灯りがない。
スマホの画面が光った。
椎名。個別LINE。
『……浴衣、白に藍かな。……お母さんのやつ』
打って、止まって、もう一通。
『……何でもない。気にしないで』
返事を打った。消した。打ち直した。消した。
『楽しみにしてる』
送った。花火のことだ、という顔で。
既読。三十秒。返信が来ない。椎名がスマホの前で固まっている姿が見えた。いや、見えるわけがない。でも想像できた。
『……うん』
それだけだった。
スマホを伏せても、その二文字だけが残った。
白に藍。頭の中でやっと像が結べた。白い浴衣。紺の帯。椎名の小柄な体。耳が見えるかもしれない。見えたら、たぶん困る。
三日後の夜だけが、少し近くなった。




