第38話「図書館ではちょっと近い」
八月の半ば。朝の自主練を終えて部屋に戻った。シャワーを浴びて、濡れた髪のまま床に転がっている。エアコンの風が首筋に当たる。旧型だから音がうるさい。効きも悪い。窓の外は白い。アスファルトが溶けそうな日差し。蝉が狂ったように鳴いている。鹿沼の蝉は声が大きい。東京の蝉より元気がある。自然が近いからだろう。
スマホが鳴った。
椎名。
『……読書感想文の本、図書館にあるよ』
読書感想文。夏休みの宿題。そういえばまだ本すら決めていなかった。航とゲーセンに行ったり、自主練をしたり、椎名に電話をしたりしているうちに八月が半分過ぎていた。
数秒後、もう一通。
『……一緒に行く?』
三点リーダーから始まる。椎名のLINEはいつもそうだ。声と同じで、最初に一拍おく。
指が動いた。
『行く』
二文字。打って、送って、画面を見つめた。椎名が既読をつけた。
それだけなのに、今日の暑さだけが少し違って見えた。
◇◇◇
鹿沼の市立図書館。古い建物だった。コンクリートの外壁が年月で灰色に煤けている。玄関前の花壇にマリーゴールドが咲いていた。オレンジ色。暑さに耐える花だ。自動ドアの動きが遅い。ゆっくり開いて、ゆっくり閉まる。建物の年齢が動作に出ている。
中に入った瞬間、空気が変わった。冷たい。外の猛暑が嘘みたいだ。エアコンの風が天井から降りてくる。静けさが耳にまとわりつく。紙の匂い。古い本特有の、埃とインクと日焼けした紙が混ざった匂い。木の棚の匂いも混ざっている。図書館の匂いは好きだ。理由はわからないけど、落ち着く。
椎名がもう来ていた。
カウンターの横に立っている。白いTシャツに、薄い水色のカーディガンを羽織っていた。冷房対策だろう。袖が長くて、指先だけ出ている。髪をいつもの黒いヘアピンで止めている。帽子はない。図書館の中だから。
俺に気づいた。顔を上げる。目が合う。
「……来た」
「おう」
それだけ。椎名がカウンターから離れて歩き始めた。迷いがない。棚と棚の間を、自分の家の廊下みたいに抜けていく。足音が静か。図書館に馴染んだ歩き方だった。何度も来ている人間の足取り。俺はその後ろを歩いた。椎名の背中が小さい。カーディガンの裾が歩くたびに揺れる。
椎名が棚の前で止まった。背伸びをして、上から二段目の棚に手を伸ばした。指先が一冊を引き出す。新書。表紙に青い装丁。
「きみ、理系っぽいからこれ」
渡された。手に取る。軽い。新書だからページ数は多くない。タイトルを読んだ。科学系のノンフィクション。人間の知覚に関する本らしい。
「理系じゃないけど」
「……雰囲気」
雰囲気で人を分類するな。でも椎名が俺のために選んでくれた本だ。どんな内容でも読む。そう思ったことは言わない。
「……感想文、書きやすいと思う。……読みやすいし」
椎名がぼそぼそ付け加えた。読みやすいかどうかを事前にチェックしている。椎名は俺のために、自分が先に目を通した本を選んでいる。そういうことを、何でもないように言う。
「ありがとな」
「……別に」
椎名が視線を逸らした。棚の方を向いている。指先がもう一冊の背表紙をなぞった。自分用の本を選んでいる。何を選ぶのかは——見なくてもわかる気がした。
椎名が一冊抜いた。文庫本。動物学のコーナー。やっぱりだ。
「……自分の」
自分で注釈をつけた。聞いていないのに。
◇◇◇
閲覧席は窓際にあった。大きなテーブルが三つ並んでいて、椅子が等間隔に置かれている。平日の午前中、利用者はほとんどいない。隅の方でおばあさんが新聞を読んでいた。ページをめくる音が、時々思い出したように響く。奥の席に高校生らしき女の子が一人。参考書を開いている。ペンが動いている。
椎名が窓際の席に座った。俺はその隣。机が広いから席を一つ空けて座ることもできた。でも椎名が隣の椅子を引いた。何も言わずに。だから隣に座った。
教室と同じ配置。椎名が左、俺が右。
でも教室じゃない。夏休みの図書館に二人だけ——二人だけじゃないが、知り合いは二人だけだ。
静かだった。エアコンの低い唸り。遠い場所で蛍光灯が微かにジジジと言っている。窓の外では蝉が鳴いているが、二重のガラスに遮られて、水の底みたいにぼやけた音になっている。
本を開いた。椎名が選んでくれた新書。一ページ目。イントロダクション。
読み始めた。面白い。人間の目が受け取る光の波長は可視光線の範囲だけで、世界にはもっと多くの光が飛び交っている。赤外線、紫外線、X線。全部見えない。見えないものの方が多い。人間は世界の断片しか知覚していない。
十ページ、二十ページと進んだ。著者の文章がわかりやすい。難しいことを簡単に書く筆力がある。椎名が「読みやすいし」と言ったのは正しかった。
——隣から、ページをめくる音がする。
椎名が本を読んでいた。姿勢がいい。教室の椎名は机に突っ伏していることが多い。授業中に首がゆっくり傾いていくのを何度も見てきた。でも今の椎名は背筋が伸びている。本に向き合って、わずかに前傾している。椅子の背もたれに体重を預けていない。
目が開いている。
好きなことをしている時の椎名は、眠そうじゃなくなる。教室でのあの半分閉じた瞼が嘘みたいに、黒い瞳がはっきり見えている。文字を追っている。右から左へ、規則正しく視線が動く。
シャーペンを取り出した。細いの。椎名のシャーペンは0.3ミリだ。それでノートに何か書き始めた。字が小さい。罫線の上半分だけ使って文字を並べている。ぎっしりしているのに整然としている。読書メモだろう。読みながら考えたことを書き留める作業。椎名にとって読書は受動的な行為じゃない。書くことと一体になっている。
カリカリ、とシャーペンの音。
その音を、俺は聞いていた。
本を読んでいる。目は活字の上を滑っている。でも脳が処理しているのは文字情報じゃなくて、隣から聞こえる音の方だった。紙がこすれる音。シャーペンの先が紙を引っ掻く音。椎名の呼吸。静かで規則正しい。鼻から吸って、口から吐く。吐く息がわずかに聞こえる。
椎名の横顔が近い。
図書館の蛍光灯は白い光だった。教室の照明より均一で、影がほとんどできない。その光の中で、椎名の横顔がくっきりしていた。額。鼻筋。唇。顎のライン。一本の輪郭線みたいだ。まつげが長い。瞬きのたびに睫毛の影が頬にちらついた。
椎名が不意にこちらを向いた。
「……きみ、読んでる?」
心臓が跳ねた。
「読んでるよ」
「……ページ、さっきから進んでない」
バレていた。椎名は自分の本を読みながら、俺のページの進み具合を把握していた。どうやって。俺が隣の気配に気を取られている間に、椎名も俺の方を見ていたのか。
「……ちょっと考え事してた」
「……何を」
感想文のこと——と言いかけた。やめた。嘘になる。感想文のことなんて一ミリも考えていなかった。椎名の横顔のことを考えていた。図書館の光の中の、椎名の横顔。
「この本。面白くて、つい止まった」
半分本当。本は面白い。でも止まった理由は本じゃない。
椎名が「……そう」と言って、自分の本に戻った。追及しない。椎名はいつもそうだ。人の言葉の裏を感じ取れる。でも感じ取った上で、踏み込まない。そっとしておく。
今のやりとりで、椎名が俺のページを気にしていたことだけが残った。椎名も——俺の方を見ていたのか。本を読みながら。
考えるな。本を読め。せっかく椎名が選んでくれたんだから。
ページを繰った。今度はちゃんと読んだ。文字を頭に入れた。面白かった。
◇◇◇
三時間が過ぎていた。
窓の外の光が変わっている。午前の白い光が、少しだけ黄色を帯び始めていた。昼を過ぎたのだ。図書館の中は温度も明るさも変わらない。時間が止まっている空間。でも窓の向こうだけが正直に時間を刻んでいた。
椎名がペンを置いた。ノートを閉じた。本に栞を挟んだ。
「……帰ろっか」
「もうそんな時間か」
腕の時計を見た。十二時半。入ったのが九時過ぎだから、三時間半。あっという間だった。椎名の隣にいたら三時間半が三十分みたいに過ぎた。教室の五十分授業は永遠に感じるのに。
椎名が本をカウンターに持っていった。貸し出し手続き。椎名のカードは使い込まれていた。角が丸くなっている。何度もこのカウンターに立ったのだろう。俺も自分の本を借りた。学生証で仮カードを作ってもらった。
外に出た。
暑い。
自動ドアが開いた瞬間、むわっとした熱気が体を包んだ。温度差がすさまじい。図書館の十九度から、外の三十七度。皮膚が一瞬で汗を噴き出す。アスファルトが白く光っている。照り返しが目を焼く。蝉の声が一気に近くなった。あの二重ガラスの向こうにいた蝉が、今は真上で叫んでいる。
「……やっぱり図書館がいい」
椎名が呟いた。目を細めている。日差しが眩しいのだろう。白い肌に夏の陽光は暴力だ。
「わかる」
椎名が鞄からそれを取り出した。折りたたみの日傘。白い。開いた。小さい。一人用。
——前にもこれがあった。
雨の日。放課後。椎名の折りたたみ傘に二人で入った。小さすぎて肩が触れた。俺が傘を椎名の方に傾けて、椎名が「……半分」と言った。あの時と同じ傘。あの時と同じサイズ。
椎名が何も言わずに日傘を俺の方に傾けた。
聞かなかった。前は「入る?」と聞いてきた。今は聞かなかった。最初から半分寄越した。当然のことみたいに。
「俺は大丈夫だって——」
「……半分」
前と同じ台詞。でも声のトーンが違った。前より柔らかい。前より迷いがない。
日傘の下に入った。
狭い。傘が小さいから、二人で収まるには距離を詰めるしかない。椎名の肩が俺の腕に当たっている。華奢だ。骨の形が触れてわかる。肩甲骨のあたりの、薄い骨。カーディガンごしの体温は——涼しい。椎名はいつも体温が低い。真夏なのに、触れている部分だけ温度が違う。
歩いた。
日傘の影が地面に落ちている。一つの影。その中に二人分の足がある。椎名のサンダルと、俺のスニーカー。歩幅が違う。俺が合わせないと椎名が遅れる。ゆっくり歩いた。急ぐ理由がない。日傘の外の日差しは殺人的だが、この影の中は——悪くない。
住宅街の道。塀の向こうで犬が吠えている。庭の水やりのホースの音。どこかの家から昼のニュースの音声が漏れている。空が高い。入道雲が白い。
蝉の声の隙間に、椎名の足音だけが聞こえる。サンダルのぺたぺたという音。隣を歩いている。同じ影の中で。
分かれ道が近づいてきた。ここから左が椎名の家。右が俺の家。
椎名が足を止めた。日傘の影が止まる。
「……また来る? 図書館」
声が小さい。でもはっきり聞こえた。
「まあ、宿題終わってないし」
椎名が「……そっか」と言った。
日傘を畳んだ。椎名に返す。二人の影が二つに分かれた。さっきまで一つだった影が。
「じゃあな」
「……うん」
椎名が少し間を空けて、もう一つ。
「……気をつけて」
帽子を鞄から出して被った。白い帽子。つばが広い。図書館の中では帽子がなかった。外に出たら帽子と日傘。椎名は日差しから自分を守っている。白い肌を守っている。
背中を向けて歩き始めた。五歩進んで振り返った。椎名はもう歩き出していた。小さい背中。帽子の白。日傘の白。陽の中でそこだけ薄く光っていた。振り返らなかった。
◇◇◇
帰宅した。靴を脱いで、部屋に直行した。
エアコンをつける。旧型が唸りながら起動する。まだ涼しくならない。シャツが汗で張りついている。着替える。
机の上に、借りた本を置いた。椎名が選んでくれた本。
開いた。
付箋が挟まっていた。
薄いピンクの付箋。いつ挟んだ。カウンターで貸し出し手続きをしている時か。俺が仮カードを作ってもらっている間か。横で椎名が本を触っていたのは知っていた。でも付箋を挟む動作は見えなかった。
付箋に字がある。
椎名の字。小さい。罫線の半分サイズ。さっき図書館で見た読書メモと同じ筆跡。
『……ここが好き』
ページの端に、付箋の矢印が小さくのぞいていた。一節の脇を、ちょこんと指している。椎名は図書館の本に線を引くような人間じゃない。公共物に書き込みはしない。そういうところはきっちりしている。だから、好きな箇所だけ静かに示したのだろう。
印のついた一節を読んだ。
世界を全部知ることはできない。知覚できるのは断片だけだ。でも、その断片を拾い上げた瞬間に、断片は「自分だけのもの」になる。不完全な知覚が、世界に自分だけの意味を与える——。
椎名がこの箇所を好きだと言っている。付箋に「ここが好き」と書いて、俺が読む本に残した。
付箋を指で触った。紙の薄さ。ピンクの色。椎名の字の凹み。
図書館の白い空気と、日傘の下の影だけが、まだ指に残っていた。
本を閉じた。付箋はそのまま挟んでおいた。捨てられない。感想文はこの箇所を軸に書くことにした。椎名が好きだと言った一節を、俺が言葉にする。
窓の外で蝉が鳴いている。八月の日差しが白い。明日も暑いだろう。
貸出票の返却日を指でなぞった。そこまで待つ気は、あまりしなかった。




