第37話「六人の夏」
結衣の企画力は異常だ。
集合は朝九時。鹿沼から車で二十分の川。結衣の兄がまたワンボックスを出してくれた。蛍の時と同じだ。兄が「今日も?」と言った。結衣が「夏だもん!」と答えた。兄は諦めた顔で鍵を回した。
車の中。結衣だけテンションが異次元。航がサングラスをかけている。似合っていない。美咲が日焼け止めを塗っている。「もう五回目なんだけど」。凛が一眼レフを持ってきている。安いモデルだが、凛が使うと安く見えない。
千沙が帽子を被っていた。白い。つばが広い。帽子の下の眠そうな目。全身からインドア派の気配を放射しているが、ちゃんと来た。
もう一人いた。
「お姉ちゃんが心配だから!」
沙季。
結衣が「え、沙季ちゃんも来るの?」。千沙が「……ついてきた。勝手に」。沙季が目を輝かせている。「先輩たちと川遊び! 青春じゃないですか!」。千沙が「帰れ」。沙季が「ここ車の中だよ」。
七人になった。
車が山道に入ると、窓の外の緑が一気に増えた。結衣が「夏って感じ!」と叫び、美咲が「エアコン強くない?」と文句を言い、航が無言で温度を一段上げた。凛は助手席の背もたれ越しに、後部座席の全員を一枚に収める角度を探している。
千沙は窓の外を見ていた。流れていく木々。田んぼ。遠くの山。帽子のつばに隠れて表情は見えない。でも景色を追う速度だけで、ちゃんと見ているのがわかった。
◇◇◇
川に着いた。
水が透明だった。底の石が見える。浅瀬が広がっていて、大人の膝くらいの深さ。流れは緩やか。両岸に木が茂っていて、木漏れ日が水面を踊っている。
空が青い。直球の青。雲がひとつもない。鹿沼の夏は空が近い。
結衣が靴を脱いだ。ジャージの裾を捲り上げた。「行くぞー!」。川に飛び込んだ。水しぶき。冷たいのか「きゃっ!」と叫んでいる。楽しいのか「最高!」と叫んでいる。結衣は全部声に出す。
航は岸で足だけ浸けた。「冷たい」。それ以上入る気なし。美咲が「きゃーーー!」と叫びながら膝まで入った。凛は川べりに座って写真を撮っている。全員を画角に入れようとしている。
千沙は岸辺の木陰に座っていた。足だけ水につけて。文庫本を開いている。帽子の影。涼しそうな顔。水と木陰があれば千沙は満足するらしい。
結衣が「ちさももうちょい入ってきなよ!」と手を振った。千沙が首を横に振る。
「……ここがいい」
「おばあちゃんか!」
「……たぬきは日陰にいるものだから」
即答だった。結衣が笑って水を跳ね上げる。細かい飛沫が木陰まで飛んできて、千沙が「つめたい」と小さく肩をすくめた。でも頬についた水滴を拭おうとしない。指先で一度触れて、そのまま文庫本に目を戻した。嫌がっていない。夏の飛沫くらい、千沙にとっては許容範囲らしい。
沙季が結衣の方に駆け寄っていった。膝まで水に浸かりながら。
「結衣先輩、あっちの方深いですよ! 行きましょ!」
「おっ、沙季ちゃんノリいいじゃん! 行こ行こ!」
二人で上流に向かっていく。水を蹴散らしながら。航が巻き添えを食う前に三歩下がった。危機察知能力だけは高い。美咲が「航くんも行けばいいのに」と笑う。航が「冷たい」。それだけ。でも美咲が笑った方向に、一瞬だけ視線が動いた。本人は気づいていない。凛は岸辺でカメラを構えていた。何を撮ったかは、たぶん凛にしかわからない。
俺は川に入った。冷たい。でも気持ちいい。流れが肌に触れる感覚。石の上を滑る水。足裏に石のごつごつ。水の中の光が揺れている。見上げると木の隙間から空が見えた。
東京では川遊びなんてしなかった。多摩川の河原は歩いたことがあるが、入ったことはない。水が澄んでいるのが信じられない。底の石の模様まで見える。小さな魚の影が足元を横切った。
流れに逆らって一歩、二歩。水圧が脛にかかる。冷たさが慣れてくると、むしろ心地いい。
沙季が千沙の帽子を取った。
「沙季!」
千沙が声を上げた。沙季がケラケラ笑いながら川に入っていく。帽子を頭上に掲げている。千沙は追えない。膝に文庫本がある。水に落としたらアウトだ。
千沙が立ち上がった。本を慎重に鞄にしまった。しまい終わる前に沙季が川の中ほどまで逃げていた。
「返して」
「取りに来てー!」
千沙の顔が険しい。でも水に入りたくない。靴を脱ぐのが面倒。でも帽子がないと日差しが直撃する。
俺が動いた。
川を横切って、沙季の横に立った。「おい」。沙季が「あっ」と見上げた。帽子を取り上げた。沙季が「あー!」。千沙の元に帽子を持っていく。水から上がって、千沙に渡した。
「はい」
「……ありがと」
小さい声。帽子を被り直した。つばの下で、チラッとこちらを見た。
被り直したあと、千沙は少しだけつばを深くした。耳を隠すみたいに。日差しのせいだけじゃない気がした。
後ろで沙季がにこにこしている。「先輩ナイスです!」。してやったりの顔だった。
「お姉ちゃん、ちゃんと取りに行ってもらえてよかったね」
「……最初から取るな」
少し離れたところで結衣が「何それー! ちさ姫じゃん!」と笑った。千沙が帽子のつばをさらに深くした。沙季だけが満足そうに頷いている。
◇◇◇
昼食。コンビニのおにぎりと、結衣が持ってきたスイカ。
「割るぞ! スイカ割り!」
結衣がタオルで目隠しをして、棒を振り回している。航が「左。……左。……右。……もう一歩。……あ、通り過ぎた」。ナビゲーションが雑だ。美咲が「そこそこ! もうちょい右!」。もっと雑だ。凛が「二歩前」。唯一まともな指示。
千沙は木陰で見ている。スイカ割りには参加しない。でも見ている。口元が動いている。たぶん笑っている。
結衣が「えいっ!」とスイカをしばいた。外れた。地面に棒が突き刺さった。「えええ!?」。
二番手の航がスイカを割った。一発。正確に中央。航は目隠しをしていても空間把握が正確らしい。「……めんどくせ」と言いながら棒を渡した。スイカの断面が赤い。甘い匂い。種が黒く点在している。
沙季が「航先輩かっこいい!」と拍手した。航が「……別に」。結衣が「あんた本当なんでもできるよね! ムカつく!」。航が「褒めてんのかけなしてんのか」。結衣が「両方!」。
スイカを食べた。冷えていないスイカだったが、川の水で冷やすアイデアを凛が出して、ビニール袋に入れて浅瀬に沈めておいたから程よく冷たい。甘い。水分が体に染み込んでいく。夏の日差しに焼かれた後のスイカは、たぶん世界で一番うまい食べ物だ。
種を飛ばす遊びが始まった。美咲のスマホが鳴った。にこにこしながらLINEを返している。航がちらっと美咲の方を見た。一瞬だけ。視線が戻った。川面を見ている。
その航を、凛が見ていた。スマホを構えた。何を撮ったのかは、分からない。
結衣はその横でスイカの種飛ばし対決を始めていた。美咲が本気で勝ちにいって、結衣が「アイドルなのに口から種飛ばすの!?」と笑う。美咲が「別にアイドルじゃないし!」と怒る。凛は航から美咲へ移る視線を、たぶん見逃していない。
千沙は木陰に戻っていた。帽子をかぶって、スイカを小さくかじっている。夏の群像劇の中心には絶対に来ないくせに、いないと景色が締まらない。
沙季がスイカの種を千沙に向かって飛ばした。千沙が「きゃっ」と声を上げた。「さ、き」。怒りの声。でも半分笑っている。追いかけっこが始まりかけて、千沙が「暑い」と途中で脱落した。体力が足りない。
六人——七人。騒がしくて、くだらなくて、暑くて。でも楽しかった。
午後になると、水の冷たさにも慣れた。結衣が二回転んで、美咲が一回だけ本気で怒って、航がその全部を面倒くさそうに回収していた。凛のカメラには、たぶんそういうどうでもいい瞬間ばかりが溜まっていく。
千沙はその輪の少し外にいる。でも完全には外れない。誰かが笑うと口元が動く。沙季が騒ぐと眉が寄る。俺が帽子を返した時みたいに、小さい声でちゃんと礼を言う。
六人の夏に、沙季が勝手に混ざって、七人の夏になった。
日が傾いてきた。川面に映る空の色がオレンジに変わり始めている。木々の影が伸びて、さっきまで日向だった浅瀬が影に入った。水の温度が少しだけ下がった。蝉の声が変わっている。昼のミンミンゼミからヒグラシに切り替わる時間帯。鹿沼の夏は、音の変化で時刻がわかる。
結衣が川から上がってきた。「さむっ」。ついさっきまで「最高!」と叫んでいた人間が、日が陰った途端に震え始める。美咲がタオルを投げた。凛がそのタオルを受け取る結衣を撮った。「今の撮んないでー!」。凛が「いい顔してた」と笑う。
沙季が千沙の隣に座った。濡れた髪が肩に貼りついている。千沙が無言でタオルを差し出した。沙季が「お姉ちゃん優しい!」。千沙が「うるさい。風邪ひくから拭いて」。姉の声。教室では絶対に聞けない声だった。
凛が一眼レフを構えた。「最後に一枚」。結衣が「えっ待って顔やばい!」と言いつつピース。美咲が前髪を直した。航が腕を組んで無表情。俺は——たぶん普通の顔をした。千沙は帽子のつばを少し上げて、目だけ見せた。沙季が千沙に寄りかかる。千沙が「重い」。シャッターが切れた。
何気ない一枚。今はまだ、ただの一枚。
◇◇◇
夕方。帰りの車。
全員疲れていた。結衣が助手席でまだ喋っている。「今日楽しかったーーー! また来年も来ようね!」。全員が「気が早い」と返した。声が揃った。その揃い方が面白くて、車内で笑いが起きた。
窓の外を田んぼが流れていく。夕日が稲を金色に染めている。行きに見た景色と同じ道なのに、色が全然違う。朝は青くて白くて眩しかった。今はオレンジに柔らかい。疲れた体に夕方の光は優しい。
沙季が千沙の肩にもたれかかっている。「お姉ちゃん、肩」。千沙が「重い。何回目」。押し返さない。沙季の目が閉じかけている。遊び疲れたのは沙季の方が先だった。
航が助手席の背もたれに頭を預けている。サングラスを外した顔が疲れている。でも、嫌な疲れじゃない顔。美咲が隣の列のシートでスマホを触っている。今日撮った写真を見返しているらしい。「航くんのスイカ割りの動画すごい。一発だもん」。航が前を向いたまま「……うるせ」。声が柔らかかった。
千沙が隣にいた。帽子を膝に置いている。目が閉じかけている。疲れたのだろう。日差しと水遊び。インドアの千沙には限界を超えた一日だったはずだ。
千沙が笑った。
帽子の下で。眠そうに。口元だけ。誰にも見えない角度。俺だけが見えた。
隣だから。
笑った、というより、こぼれた、に近い。楽しいと大声で言うタイプじゃない。けど今日の千沙は、ちゃんと楽しかった顔をしていた。
また来年も来よう、と結衣が言った時、誰も否定しなかった。
来年。一年後。俺たちが二年生になっても、こうやって集まれるだろうか。集まるだろう。結衣がいる限り、集まらないという選択肢は存在しない。
来年の夏にも、こうして隣に座っていればいいと思った。
帰ったら読書感想文の本を決めないといけないことを思い出した。
面倒な宿題のはずなのに、最初に浮かんだのは「椎名ならもう選んでそうだな」だった。
スマホが震えた。
画面に出た名前は、椎名千沙。
『……読書感想文の本、まだなら図書館にあるよ』
その下で、入力中の点が三つ揺れた。




