第36話「夏と声」
夏休み。八月。
部屋が暑い。エアコンが旧型で、設定温度まで室温が下がらない。扇風機を併用しても三十度を切らない。窓を開けると外の方が暑い。蝉が全力で鳴いている。蝉は暑さを訴えているのか、暑さを楽しんでいるのか。たぶん後者だ。あいつらは夏のために七年待ったのだから。
朝練から帰ってきたばかりだった。シャツの背中がまだ汗で重い。鹿沼の朝は七時までは走れる。七時を過ぎると太陽が本気を出してくる。今日も八時前には肺まで熱くなった。
玄関で靴を脱いだ時、土の匂いがした。グラウンドの匂い。もう走る場所の匂いはアスファルトじゃない。土だ。草だ。朝露だ。
母が仕事に出た後、一人で部屋にいた。テレビをつけていたが見ていない。甲子園の中継が流れている。金属バットの音。歓声。遠い。
画面の中の夏だけが、部屋の熱気から少し遠かった。
千沙からLINEが来た。
『……今日37度だって』
『知ってる。溶ける』
『……たぬきは毛皮があるから夏は大変なの』
『脱げよ』
『……脱げないよ』
笑った。声に出して。一人の部屋で。
このやりとりの形が、いつの間にか出来上がっていた。
『……きみ、朝練終わった?』
『終わった。死にかけた』
『……水分取って。たぬきも脱水になるの』
『たぬきのこと心配しろ』
『……たぬきのことだよ』
そう返ってくると思った。
少しして、写真が一枚送られてきた。たぬきちが保冷剤を抱えている。いや、正確には抱えさせられている。ソファの上で、ぐったりした顔のまま、青い保冷剤に寄りかかっていた。
『……夏仕様』
『雑だな』
『……でも涼しそう』
椎名の家のリビングが写り込んでいる。木のテーブル。レースのカーテン。見覚えのある景色。二回しか行ったことがないのに、もう見慣れた気がするのが変だ。
千沙の原稿のコピーを渡してもらったのは先週だった。もう三回読んだ。読むたび、行間の奥に千沙がいる。灯りを遠くから見ているたぬきが、椎名千沙そのものだと——読むたびに確信が深くなる。
机の端には、そのコピーがまだ置いてある。角が少しだけ柔らかくなっている。触りすぎたせいだ。四百字詰めの原稿用紙の罫線が、今では見慣れた景色になっていた。
一枚目の余白に、無意識に指が触れる。紙は冷たくない。でも、椎名の手から受け取った時の温度だけは覚えている。
昼前、さすがに部屋にこもっているのが限界で、近所のコンビニまで麦茶を買いに出た。玄関を開けた瞬間に熱気がぶつかってくる。アスファルトが白く光っている。数分歩いただけで、Tシャツの背中に汗が戻った。
コンビニの冷蔵ケースの前で、ふとスマホを開く。新着はない。
別に、常に来るものじゃない。わかっている。わかっているのに、確認してしまう。画面は静かなままだった。
麦茶を二本買った。一本でいいのに、二本手に取っていた。一本を棚に戻した。——椎名はここにいない。
帰り道、電柱の影を選んで歩いた。鹿沼の夏は影まで熱い。
◇◇◇
夜。十一時。
千沙から『……電話していい?』。
千沙は、こういう時だけ電話をかけてくる。文字じゃ足りない時だけ。
通話ボタンを押した。
「——もしもし」
千沙の声。夜版。昼の教室で聞くぼそぼそとは少し違う。もう少し低い。もう少しゆっくり。夜の千沙は力が抜けている。
背後で扇風機の音がしている。千沙の家のリビングだろう。
「原稿の感想、もう少し聞きたくて」
「ああ。あのたぬきが灯りを見てるところ、切ないな」
千沙が黙った。二秒。
「……そう?」
声が小さい。嬉しそうだ。嬉しい時の千沙の声は音量が下がる。喜びを漏らさないように蓋をしているみたいに。
「特に、灯りの記憶が巣穴に残るってところ。温かくないのに温かく感じるのが——うまく言えないけど、分かる」
「……」
千沙の「……」。これは「もっと聞きたい」の「……」だ。
「あと、子供が『きみ、だれ?』って聞くとこ。たぬきが逃げないのがいい。普通逃げるだろ。でも逃げない」
「……逃げられなかったの」
「逃げたくなかったんだろ」
沈黙。長い。通話画面の秒数が増えていく。千沙の呼吸だけが聞こえる。
「……ありがとう」
「礼を言うことか」
「……言うよ。読んでもらったから」
話題が変わった。読書感想文の話。千沙が「何読んだ?」。俺が「まだ読んでない」。千沙が「八月なのに?」。俺が「お前は終わったのか」。千沙が「七月中に」。俺が「化け物か」。
千沙が図書館で選んでくれた本をまだ読み切れていない。付箋が挟まっている本。千沙の「ここが好き」のページ。あのページだけは何度も読んだ。
通話の間に沈黙が挟まる。夏の夜の沈黙。虫の声がスマホ越しに聞こえた。ひぐらしじゃない。何の虫だろう。鈴を振るような高い音。千沙の家の方が自然に近いから、虫の声も濃い。
「……きみの家からも虫の声聞こえる?」
「少しだけ」
窓を開けた。夜風が入る。蒸し暑い。虫の声が部屋に入ってきた。こちらは蝉の残り声と、遠くの車の音が混ざっている。千沙の方は——もっと静かだろう。
「そっちは?」
「……こっちは、ひぐらしじゃないやつ。高い音の」
「説明が雑だな」
「……でも、きみにも聞こえてるかもしれないと思って」
窓の外の夜が、少しだけ近くなった。
「……同じ虫かな」
「さすがに違うだろ」
「……でも、同じ鹿沼だから」
同じ鹿沼。同じ空の下。同じ虫の声——じゃないけど、同じ季節の虫が鳴いている。
「……そうだな」
通話が長くなっていた。時計を見ると十二時を回っていた。
「……眠い?」
千沙の声がさらに低くなっている。眠いのは千沙の方だ。通話が進むにつれて千沙の声はどんどん重力に負けていく。
「お前の方が眠いだろ」
「……たぬきは夜行性だから」
嘘だ。千沙は夜に弱い。教室でも午後は使い物にならない。夜行性のたぬきに自分を重ねているが、実態は昼行性どころか朝限定で稼働する太陽電池型の生き物だ。
「寝ろ」
「……もうちょっと」
もうちょっと。その言葉が、暗い部屋の中で妙に鮮明に響いた。
通話の向こうで、紙をめくる音がした。
「何してんの」
「……きみの感想、原稿に書き込んでた」
「真面目かよ」
「……大事だから」
扇風機の音が、一瞬だけ遠くなった。
原稿の感想なんて、読んで面白かったと返せばそれで終わるものだと思っていた。椎名は違う。受け取った言葉をちゃんと持って帰って、文字の隣に置く。そういう丁寧さで書いている。
だから、あの原稿のたぬきはあんなに寂しくて、温かいんだろう。
「……おやすみ」
千沙が先に言った。声が布団の中からみたいにくぐもっていた。もう横になっているのかもしれない。
「おやすみ」
通話を切った。
窓を開けたままだった。蒸し暑い夜風。虫の声。千沙も今、同じ虫の声を聞いているのかもしれない。同じ鹿沼だから。
通話終了の表示が消えても、スマホはしばらく耳から離せなかった。
机の上の原稿を閉じて、ライトを消した。
暗くなった部屋に、まだ少しだけ椎名の声が残っていた。
その直後、グループLINEが鳴った。
結衣。
『明日! 川! 九時集合! 寝坊したら沈める!』
航。
『脅迫だろ』
美咲。
『日焼け止め持った!』
凛。
『タオル多めがいいかも』
既読が一つ増えた。椎名。
『……帽子、持っていく』
笑った。たぶん明日も暑い。
明日は声じゃなくて隣で聞ける。そのことだけが、寝る前まで残った。




