第35話「書きかけの原稿」
テスト期間のあいだ、あのLINEが頭の隅に残っていた。
『……テスト終わったら、見せたいものある』
終業式の日。通信簿。
航が自分の席で安堵の息をついていた。「赤点なし。生きた」。結衣が「ギリギリだったでしょ」。航が「一点差は合格だ」。凛が「それは反省した方がいいと思う」。
椎名は通信簿を静かに鞄にしまった。見せない。聞かない。俺も聞かない。
「俺は中の上だった」
航が「充分だろ」と言った。充分だ。椎名に英語を教えてもらったおかげで文法の点が跳ね上がった。この事実は航には言わない。
結衣が「千沙どうだったの!」と食いつき、美咲が「絶対すごいやつでしょ」と乗る。椎名は「……普通」といつもの答えで逃げた。普通じゃないことは全員知っている。凛が「たぶん上の方だよね」と微笑んで、そこで終わった。凛は追い詰めない。見えていても、言わない時は言わない。
終業式後、結衣が「夏休みの予定決めよう!」と叫んだ。美咲が「海!」。航が「遠い」。結衣が「川! また蛍のとこ!」。凛が「蛍はもう終わりだよ」。結衣が「じゃあ川遊び!」。千沙が「……」。既に決まったものとして受け入れている「……」。
椎名が「……僕は夏休み、部誌書く」と言った。文芸部の部誌。椎名はそっちが本業みたいな口ぶりだ。実際そうなのかもしれない。
◇◇◇
放課後。教室はほとんど空になっている。終業式の日の放課後は早い。みんな夏に急いでいる。
椎名が鞄を持ったまま、俺の机の前に立った。
「……文芸部室、寄っていく?」
心臓が跳ねた。
椎名が俺を部室に誘ったのは、初めてだった。
「いいの?」
「……きみなら」
「きみなら」。その言葉の重さを、椎名は分かっているのかいないのか。たぶん半分分かっていて、半分は無自覚だ。
◇◇◇
文芸部室は、古い校舎の端にあった。階段を二階まで上がって、廊下の一番奥。ドアに「文芸部」と手書きの紙が貼ってある。字が丁寧だ。椎名の字だと一目でわかる。
中に入った。
小さい部屋だった。六畳くらい。窓が一つ。校庭が見える窓。リレーの日、椎名がここから見ていた窓。壁の三面が本棚で埋まっている。文庫本、辞書、古い雑誌。文芸誌のバックナンバーが年代順に並んでいる。ホコリの匂い。でも不快じゃない。古い紙の匂い。木の匂い。図書館に似ている。
机は二つ。パイプ椅子が四つ。先輩の机には何もない。椎名の机に、原稿用紙と辞書とペン立てが置いてある。ペン立てにはシャーペンが三本と赤ペンが一本。
こういう場所で、椎名は書いている。
椎名が机の引き出しを開けた。原稿用紙の束を取り出した。クリアファイルに挟まっている。二十枚くらい。四百字詰めだから——八千字前後。
椎名が束を両手で持って、俺に差し出した。
「……読む?」
手が震えていた。ほんの少し。原稿用紙の端が揺れている。
「いいのか? 前は『まだ見せない』って——」
「……きみなら。……いい」
二回目の「きみなら」。椎名の目がこっちを見ている。眠そうじゃない。怖い目だ。怖がっている目。書いたものを見せる。それが椎名にとってどれほどのことか。たぬきの話で守っている自分の内側を、文字という形で差し出す。鎧の下を見せる。
受け取った。椎名の手から原稿用紙の束が移動した。軽い。紙の重さしかない。でも椎名の指が離れる瞬間、かすかに抵抗があった。
パイプ椅子に座って、読み始めた。
◇◇◇
たぬきの話だった。
——でも、ただのたぬきの生態じゃなかった。
たぬきの視点から描かれた世界。山の端に住む一匹のたぬきが、夜になると里に下りてくる。人間の家から漏れる灯りを、遠くから見ている。灯りは温かそうだ。中で人間が笑っている声がする。食事の匂いがする。
たぬきは近づきたい。でも近づくと追い出される。石を投げられたこともある。だからいつも遠くから見ている。灯りの温かさを想像して、自分の巣穴に帰る。巣穴は暗くて、狭くて、でも安全だ。誰にも石を投げられない。
ある夜、たぬきは灯りの近くに人間の子供を見つける。子供は泣いている。たぬきは近づけない。でも離れられない。たぬきは暗闇の中で座って、子供が泣き止むのを待つ。
子供が泣き止んだ。ふと顔を上げて、暗闇の中にたぬきの目を見つける。
「……きみ、だれ?」
たぬきは逃げない。逃げない代わりに、動けない。
子供が笑う。
「もふもふだね」
それだけ。子供は家に帰っていく。たぬきは一人で巣穴に戻る。
でもその夜から、たぬきの巣穴は少しだけ温かくなった。灯りは届かない。でも、灯りの記憶が巣穴の壁に残っている。
——そこで原稿は終わっていた。
◇◇◇
読み終わった。
椎名が窓際に立っていた。窓の外を見ている。背中がこちらを向いている。指を組んで、自分の手を見ている。
怖い。書いたものを見せた。反応を待っている。怖くて、こちらを見られない。
「……お前のこと書いてるだろ」
椎名がぴくっとした。肩が跳ねた。
振り返らなかった。でも首が少し傾いた。聞いている。
「面白い」
椎名の背中が揺れた。
「——もっと読みたい」
椎名が振り返った。目が開いていた。驚いている。睫毛が上がって、黒い瞳が丸く見えた。眠そうな目の椎名しか知らない俺には、その目は別人に見えた。
「……本当に?」
「嘘言ってどうする」
椎名の耳が赤い。でも今回は耳だけじゃなかった。目が潤んでいた。泣いてはいない。泣く手前。泣くほどじゃない。でも——何かが溢れかけている。喜び。言葉にならない喜び。
書いたものを読んでもらえた。感想をもらえた。
椎名にとってそれがどれほどのことか。文芸部で書いている。先輩は二人いるが、同年代で原稿を見せた相手は——たぶん、俺が初めてだ。
「……ありがとう」
小さい声。でもたぬきの話じゃなかった。椎名の声だった。素の、防壁のない声。
「もう一回読んでいい? コピーある?」
「……家の方に。……帰ったらコピーして、渡す」
「頼む」
椎名がうなずいた。窓の外に夕日が落ちかけていた。文芸部室がオレンジ色に染まった。本棚の背表紙が光っている。椎名の横顔にも光がかかっている。目がまだ潤んでいる。鼻の頭が少し赤い。
俺は原稿を返した。椎名が両手で受け取った。大事そうに。クリアファイルに戻して、引き出しにしまった。
帰り道。鞄の中に原稿はない。でも、中身は全部覚えている。たぬきの巣穴。灯り。「きみ、だれ?」。
椎名の小説は、たぬきの話で書かれている。でもそのたぬきは椎名だ。
——椎名の本当の声は、文字の中にあるのかもしれない。
部室を出る前、椎名がもう一度だけ引き出しを開けた。中からコピー用紙の束を取り出して、その一番上を俺に差し出した。
「……予備。持ってって」
「いいのか」
「……家でも読んで。気が変わらないうちに」
最後の一言が椎名らしかった。怖いのだ。今は見せられていても、夜になったら恥ずかしくなって返してと言いたくなるのかもしれない。
「じゃあ、その前にもらっとく」
椎名が少しだけ笑った。ほんの少し。目は伏せたまま。
帰ってから、もう一度読んだ。夕方の部室で読んだ時より、静かに刺さった。机のライトの下で読むと、たぬきの巣穴の暗さが近くなる。灯りの届かない場所に残る温度の話が、妙に離れなかった。
最後の一行の下に、余白が広い。そこで終わっているのに、続きを読みたくなる余白だ。
スマホを開いて、感想を送ろうとした。
『最後の、灯りの記憶が残るところ好きだ』
そこまで打って、少し迷った。好き、という単語が画面にあると妙に落ち着かない。作品の感想だ。それ以上じゃない。自分に言い聞かせて、そのまま送った。
椎名から返ってきたのは一分後だった。
『……よかった』
たった四文字なのに、部室で見たあの潤んだ目が、そのまま文字になっていた。




