第34話「試験前夜、通話は長い」
六月の末。期末テストが近い。
朝から教室の空気が落ち着かなかった。いつもはうるさい結衣まで、珍しく自分の席で単語帳をめくっている。美咲は「やばい、歴史の年号が全部同じ顔に見える」と意味不明なことを言っていた。凛がそれを静かに無視している。椎名だけがいつも通りで、いつも通りすぎて逆に浮いていた。学級委員の提出物の確認まで済ませた上で、自分の勉強も進めている。人間の処理能力じゃない。
「お前、緊張とかしないの」
一限前、何となく聞いた。
椎名がノートから顔を上げる。
「……するよ」
「嘘だろ」
「……でも、やることやったら、あとは点になるだけだから」
怖いことを平然と言う。結衣が後ろから「千沙その発想できるの強すぎ!」と叫んだ。椎名は首を傾げただけだった。本気で何が強いのかわかっていない顔だった。
航が珍しく自分から声をかけてきた。「ハルト、勉強しようぜ」。
「めずらしいな」
「赤点取ったら親に殺される。比喩じゃなく」
航の父親は公務員で、成績に厳しいらしい。航はそれを「めんどくせ」で処理しているが、赤点は避ける程度の危機管理能力はある。
放課後の教室。航と向かい合わせで机を並べた。椎名が隣の席で自習を始めた。誰にも聞かれていないのに、いつの間にか教科書を開いている。
航が数学のプリントを広げた。二次関数。航の顔が曇っている。数字を見ると生命力が下がるタイプ。
「ここ、何でxがマイナスになるんだ」
「グラフが下に開くからだろ」
「なんで下に開くんだ」
「aが負だから」
「なんでaが」
「最初から読め」
航が唸っている。椎名が隣で自分のペースで黙々と進めている。シャーペンの音が規則正しい。英語の長文問題。辞書は使っていない。辞書なしで読めるのか。
航が椎名に声をかけた。「椎名さん、ここわかる?」
椎名がぼそぼそと解説を始めた。
「……ここ、頂点の座標を求めるの。平方完成して……xの二乗の係数でくくって……」
的確だった。回りくどくない。結論から言って、補足を後から添える。先生より分かりやすい。
航が「おお」と声を上げた。「わかった。なんで先生の説明であれだけ分からなかったのに」
「……先生は途中式を省略するから」
省略。椎名は省略しない。全部のステップを見せてくれる。一つ飛ばしにする先生とは違う。数学が苦手な人間の躓くポイントを、ちゃんと知っている。
「お前頭いいのな」
「……普通」
「普通で学年十五位は取れねえだろ」
椎名が黙った。反論しない場合は事実だ。学年十五位。知らなかった。聞いたこともなかった。椎名は自分の成績を言わない。成績も、たぬきの鎧の内側にある。
航が「俺の中の普通が音を立てて壊れた」とぼやいた。結衣がいれば絶対に大騒ぎしていただろうが、今は航と俺と椎名だけだ。静かな教室で、航の絶望だけがやけに鮮明だった。
「赤点回避だけならここ覚えればいい」
椎名が航のプリントに丸をつけた。必要最低限の公式。捨てる問題。拾う問題。取捨選択が容赦ない。
「容赦ねえな」
「……戦いは、勝つところで勝てばいいの」
「誰だよお前」
「……たぬきは無駄な狩りをしない」
戻った。少し安心した。椎名がたぬきの話をしないと、こっちの呼吸が変になる。
航が椎名の丸印を見て、プリントを一枚めくった。「じゃあここは?」。椎名が「……捨てていい」。航が「マジで?」。椎名が「……配点が低いから。時間をかけるなら、次の大問の(1)と(2)」。航が「参謀か」。椎名が「……たぬきは小さな獲物を確実に」。航が「もういいよたぬき」。
俺はそのやりとりを聞きながら、航の問題集の表紙を見ていた。航は椎名と話す時、少しだけ声が柔らかくなる。普段の「めんどくせ」の壁が一段低い。椎名も航相手だと少しだけ言葉が多い。三人でいると、二人の時とは違うリズムが生まれる。
◇◇◇
航が七時前に帰った。「じゃ帰る。ハルト、ありがとな。椎名さんも」
「……頑張って」
「お前に言われると重い」
航がドアの向こうに消えた。足音が廊下に反響して、遠くなって、消えた。
教室に二人だけが残った。
六月末の夕方。窓から光が斜めに入っている。西日。教室の半分がオレンジ色に染まっていて、残りの半分が影になっている。机の上のプリントが半分だけ光に照らされている。俺と椎名は影の側にいた。
椎名が英語のノートを開いたまま、こちらを見た。
「……きみ、英語苦手でしょ」
「……なんで分かる」
「……さっき航くんに教えてたとき、数学はすらすらだったのに、英語の問題はプリントをひっくり返してた」
見ていたのか。俺が何をひっくり返したか、隣の席から見ていた。航に教えている間、椎名は自分の勉強をしていたはずだ。でも見ていた。
「苦手というか、文法が嫌い」
「……教える?」
椎名の申し出。テスト勉強を。二人きりの教室で。
「……頼む」
椎名がノートを俺の方に向けた。小さい字がびっしり書かれている。整理されている。項目ごとに色分けされたラインが引かれていて、例文が添えられている。ノートの取り方が完璧だ。几帳面というより、自分の思考を正確に外部化する能力が高い。椎名の頭の中が、そのままノートに転写されている感じ。
「……ここ、関係代名詞。主語がwhoで——」
椎名の指がノートの上を動く。白い細い指が文字をなぞる。爪は短く切ってある。マニキュアはしない。椎名はそういう装飾をしない。でも指先が妙に綺麗だ。関節が細くて、爪の形が揃っている。
指が近い。俺の手と椎名の手が、ノートの同じページの上にある。距離は五センチくらい。航がいた時はこの距離は気にならなかった。二人になった途端に、五センチが近い。
「……ここ、先行詞がtheyだから——」
「ああ、なるほど」
椎名の声を聞きながら、椎名の横顔を見ていた。
教えている時の椎名は、眠そうじゃない。目が開いている。シャーペンの先でノートを指す仕草が真剣だ。言葉を選んで、正確に、一つずつ。たぬきの話の時のぼそぼそと違って、文法を説明する時の椎名は声に芯がある。自分の知識を正確に伝えたいという意志が声に乗っている。
「……きみ、聞いてる?」
「聞いてる」
半分嘘だ。半分は椎名を見ていた。西日がノートの端をオレンジ色に染めている。椎名の髪にも光がかかっている。黒い髪がほんの少しだけ茶色に透ける。六月の西日は低い。教室の奥まで届く。椎名の横顔に影が長く伸びて、まつ毛の影が頬に落ちていた。
「……この構文は頻出だから、覚えて」
「わかった」
椎名がノートに書き足した。例文を一つ。丁寧な字。
——This is the town where he grew up.
例文は普通だった。普通なのに、椎名の字で書かれているだけで妙に意識する。自分でも面倒くさいと思う。
椎名がこっちの顔を見た。「……何?」
「何でもない」
「……顔赤い」
「西日のせい」
椎名が窓の方を見た。確かに西日がきつい。オレンジ色が顔を直撃する角度だ。椎名が「……そうだね」と納得した。純粋に。疑っていない。
助かった。
「……次」
椎名がページをめくる。距離がさらに近くなる。肩がほとんど触れそうだ。窓から入る夕方の風がノートの端をめくろうとする。椎名が左手で押さえた。白い指。細い。俺の視線が一瞬そこに行って、すぐノートに戻す。
「ここ、関係副詞。……さっきのと似てる」
「似てるけど違うのが嫌いなんだよな」
「……きみは、そういうの苦手そう」
「雑な評価だな」
「……でも当たってる」
当たっているから反論できない。椎名が小さく息を吐いた。笑ったのかもしれない。声には出さないけど、肩が一度だけ揺れた。教えている時の椎名は機嫌がいい。自分の知っていることを人に伝えるのが——嫌いじゃないのだろう。たぬきの鎧をつけたまま、でも少しだけ薄着になっている。
◇◇◇
帰り道。七時半。空がやっと暗くなり始めている。六月は日が長い。
並んで歩いた。椎名は文芸部に寄らなかった。テスト前だから。
住宅街の道。街灯がぽつぽつと灯り始めている。どこかの家の窓からテレビの音が漏れている。夕飯の匂いがする。カレーだ。鹿沼の住宅街の夕方は、どこかしらカレーの匂いがする。
「……テスト、頑張って」
「お前もな」
「……僕はたぶん大丈夫」
「敵に回したくない言い方だな」
椎名の口元が動いた。暗くて見えにくい。でも——笑った。たぶん。口角が五ミリ上がった程度の、椎名の笑い。
「……きみの英語、心配だから」
「そこまで言うか」
「……関係代名詞、忘れないでね」
「忘れない」
忘れるわけがない。椎名の指がノートの上を動いていた光景ごと覚えている。文法の構文よりも、椎名の横顔の方が鮮明に記憶されている気がするが——それは言わない。
分かれ道。椎名が右に曲がる。俺は直進。
椎名が立ち止まった。振り返らない。背中だけがこっちを向いている。小さい背中。制服の白が街灯の光を吸って少しだけ青く見える。
「……おやすみ」
「おやすみ」
椎名が歩き出した。小さい背中が住宅街の灯りの中に溶けていく。一つ目の角を曲がるまで見送った。椎名は一度も振り返らなかった。
帰宅。自分の部屋。机の上にノートを広げた。椎名に教えてもらった文法のページ。椎名の字が添えてあるページ。小さくて、きっちりしていて、でもどこか丸みのある字。
This is the room where students study after school.
ここは、生徒たちが放課後に勉強する部屋。
椎名はただの例文として書いた。でも俺にとっては——あの教室は、もう「ただの教室」じゃなくなっている。西日が入る放課後の教室。椎名の指が動くノートの上。五センチの距離。
テスト勉強をしなければいけないのに、ノートの上の椎名の字を見ていたら三分経っていた。
我に返って、関係代名詞の例文を暗唱した。声に出す。部屋に自分の声だけが響く。
覚えた。文法も、椎名の横顔も。
He was where she expected.
もう一回読んだ。
偶然だ。偶然。
その下に、自分で書いた訳がある。
——彼は、彼女の思っていた場所にいた。
偶然じゃなくて、悪意だろ。いや、椎名にそんなつもりがあるとは思えない。思えないのに、ノートを閉じるのが少し惜しかった。
椎名の字が残っているページ。それだけで、今日の放課後の教室が全部戻ってくる。西日と、シャーペンの音と、椎名の横顔。
スマホが震えた。
椎名からだった。
『……テスト終わったら、見せたいものある』
ノートを閉じる手が、少しだけ遅れた。
英単語より先に、その一文だけが机の上に残った。




