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椎名さんは眠そうに笑う  作者: 雨宮 沙奈
隣の席は、呼吸の距離
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第33話「名前のない一瞬」


蛍を見に行った夜から二日経った。


教室では、椎名はいつも通りだった。


河原で見た黄緑色の揺れ。水面に映る光。暗い中で、隣に立っていた小柄な体。


教室で椎名の横顔を見るたび、まぶたの裏にあの蛍がちらついた。


昼休み。いつもの六人。弁当を広げて、いつもの配置。結衣が机を寄せて、美咲がお茶を出して、航がイヤホンを片方だけ外す。椎名が弁当箱を開ける。今日は卵焼きが二切れ多い。

結衣が話題を投げた。


「将来の夢って何ー?」


唐突だった。結衣はいつも唐突だ。前触れなく核心に踏み込む。それが結衣の強さで、ときどき他人の地雷になる。しかも本人に悪気がないぶん、余計にたちが悪い。


航が箸を止めずに答えた。「……考えてねえ」


結衣が「考えなよ!」。航が「めんどくせ」。定型のやりとり。


美咲が「芸能人と付き合いたい」。航の箸が一瞬止まった。本当に一瞬だけ。唐揚げを挟んだ指に力が入って、すぐ緩んだ。再開した。俺以外は気づいていない。


結衣が「あたしは社長!」。凛が「何の?」。結衣が「何でもいい! 社長ってかっこいいじゃん!」。凛が「……まあ、結衣は向いてるかも」。結衣が「でしょ!?」。


凛が「私はまだわからない」と静かに言った。凛にしてはめずらしく曖昧な答えだ。凛はたいてい何でも答えを持っている。持っていないことを認めるのは珍しい。でもその「わからない」には投げやりさがなかった。本当にいろんな選択肢を見ていて、どれか一つに決めていない——そういうニュアンスの「わからない」だった。


俺にも話が回ってきた。


「藤原は?」


「走ること……くらいかな」


「くらいって何! もっとこう、ドーンとしたの!」


「ドーンとか言われても」


結衣が「つまんなーい」と頬を膨らませた。航が「言ったとおりだろ。考えてねえやつに聞いても無駄」。俺は航に分類されたらしい。不本意だが否定できない。


それぞれがそれぞれの未来を、笑いながら口にする。航は本気で考えていない顔だったし、美咲は半分冗談だ。でも、冗談でも口にできる未来があるのは少し羨ましかった。鹿沼に来てからは毎日が新しくて、先のことを考える余裕があまりなかった。目の前の日常を受け取るだけで精一杯だった。


椎名はどうなんだろう。


文芸部で書いている話のこと。たぬきのこと。将来、という言葉を向けられた時、椎名の中で一番先に浮かぶのは何なんだろう。


椎名の番が来た。


結衣が椎名に目を向けた。「ちさは?」


椎名が箸を止めた。卵焼きが箸の先に挟まったまま、宙に浮いている。


「……たぬきは、将来のことは考えないの。……今の巣穴が安全なら——」


結衣が遮った。


「千沙のほんとの夢は? たぬきじゃなくて」


教室の空気が変わった。微かに。結衣は悪気がない。心の底から聞きたくて聞いている。ストレートに。でもこの一言は、椎名の前に壁を置いた。いつも椎名が自分で立てている壁とは違う、他人が立てた壁。「たぬきの話じゃなくて」と言われた椎名に、逃げ道がなくなった。


美咲が「たしかに気になる」と頷いた。凛は口を挟まない。ただ、椎名の方を見ている。航は唐揚げを噛みながら、視線だけ上げた。


全員が、椎名の返事を待つ形になった。


椎名が、黙った。


卵焼きが箸から落ちた。弁当箱の中に、からん、と小さな音を立てた。椎名はそれに気づいていない。箸を持ったまま、宙に手を止めている。


五秒。


長い五秒だった。教室のざわめきが遠くなるような五秒。窓の外でチャイムの予鈴が鳴っている。遠い。隣の教室から笑い声が漏れている。それも遠い。俺の周りだけ、空気の密度が変わった気がした。


椎名の喉が小さく動いた。飲み込んだのか、言葉を押し戻したのか。


椎名の目が開いた。


いつもの眠そうな目じゃなかった。瞼が上がっている。黒い瞳が少しだけ広くなって、窓から入る光を映している。何かを見ているような目。ここではない、どこか遠くを見ているような目。いつも半分閉じている瞼が持ち上がると、椎名の目はこんなに大きいのかと初めて知った。口元が微かに動いた。言葉を探している。言葉が喉元まで来ている。


「……ずっと、書いてたい」


声が出た。出かかった。いつものぼそぼそじゃない。もう少しだけ、芯がある声だった。たぬきを挟まずに出たぶん、妙に近い。


——でも。


椎名の目が伏せられた。すっと。シャッターが下りるように。


光が消えた。睫毛が落ちた。肩の力が抜けた。箸を拾い直した。弁当箱の中に落ちた卵焼きを挟んだ。


「……たぬきの巣穴で暮らすの」


いつもの椎名だった。いつもの鎧。いつものたぬき。何もなかったみたいに。声も元に戻っていた。ぼそぼその眠そうな声。五秒前に開いていた目が、もう半分閉じている。完璧に。間合いまで含めて、いつも通りだ。


結衣が「えー、つまんなーい」と笑った。美咲が「千沙らしいけどね」。凛が微笑んだ。航は弁当を食べ続けていた。


誰も拾わなかった。


弁当の時間が、そのまま元の速さに戻っていく。俺だけが、さっき開いた目を覚えていた。


◇◇◇


午後の授業。世界史。先生がフランス革命の話をしている。プリントの年号を板書している。チョークの音。扇風機の風。六月の教室はぬるい。窓の外で部活のランニングの声が聞こえる。


隣の席で、椎名が板書を写している。シャーペンの音がカリカリと規則正しい。姿勢はいつも通り。少し猫背で、左手で紙を押さえて、右手で細かい字を書く。


いつもの椎名。


俺は板書を写すフリをして、椎名の横顔を見ていた。


さっきの五秒が、まだ頭から離れない。


「……ずっと、書いてたい」。その八文字が頭から離れない。たぬきに翻訳される前の声だった。それだけで、板書が三行ぶん頭に入らない。


「……藤原」


椎名の声。俺を呼んでいる。


「ん?」


「……ノート、進んでないよ」


椎名がこっちのノートを覗いていた。板書が三行分止まっている。えんぴつを持ったまま、ノートの上で手が止まっていたらしい。


「ああ……悪い」


「……先生の話、聞いた方がいい。フランス革命はテストに出る」


「なんで知ってんの」


「……去年の過去問に三問出てた」


「調べたのか」


「……たぬきは冬眠前に食料を調べるの」


戻った。完全に。いつもの椎名だ。


でも、俺の方は戻れなかった。シャーペンの音の下に、さっきの五秒がまだ残っている気がした。


先生が黒板に年号を書き足すたび、チョークの粉が舞った。窓から入った風で白い粉が流れる。椎名の髪が揺れる。横顔はもういつもの椎名だ。


何もなかったみたいにノートを取っている。シャーペンの音がカリカリと鳴っている。


でも——そのシャーペンの音が、さっきよりほんの少し速い気がした。板書を写す手に、いつもより力が入っている。椎名なりの動揺が、ペンの音に漏れている。気のせいかもしれない。隣の席に座っていなかったら、絶対に気づかない程度の差だ。


でも俺は隣の席にいる。


◇◇◇


帰り道。


一人だ。椎名は文芸部。航は先に帰った。


六月の夕方。日が長い。空がまだ明るい。オレンジ色が入り始めている。道端にアジサイが咲いている。青い。水滴は残っていないけど、花びらの色が濡れたように深い。雨上がりの匂いがまだ残っている。アスファルトの上に、水たまりの名残が光っている。


歩きながら、考えていた。


「……ずっと、書いてたい」


その八文字だけが残った。


聞いたら閉じる気がした。だから聞かない。


家に帰って宿題を広げても、余白に引いた線がまっすぐにならなかった。窓の外で六月の夜風が網戸を鳴らすたび、あの声だけが耳の奥で反復した。


もう一回あれを聞きたい。今度は聞き逃したくなかった。


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