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椎名さんは眠そうに笑う  作者: 雨宮 沙奈
隣の席は、呼吸の距離
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第32話「蛍の川」


六月の終わり。結衣が教室の扉を蹴り開けて叫んだ。


「蛍見に行くよ! 今日! 放課後! 全員!」


航が「めんどくせ」。結衣が「あんたはずっとそれ言っとけ」。美咲が「蛍って映える?」。凛が「暗いから撮るの難しいよ」。美咲が「じゃあ凛に任せた」。凛が「……はいはい」。


椎名は何も言わなかった。でもリュックを背負っていた。誰にも聞いていないのに準備が済んでいる。行く気満々だ。


「椎名、行く気早くね?」


「……蛍は、見逃すと一年待つから」


本気だった。声のトーンが違う。普段の「……たぬきは」で始まるぼそぼそとは別の、小さいけれど芯のある声だ。蛍の話をする時だけ、少しだけ目が開く。


結衣が「ほらね! ちさも乗り気!」と勝手にまとめた。椎名は否定しない。蛍の前では否定する気も起きないらしい。


俺は窓の外を見た。六月の空。梅雨の雲が少しだけ薄くなっている。薄い雲の奥に青空が透けていて、鹿沼の夏の入り口みたいな色だった。


放課後に蛍を見に行く、なんて発想は東京にいた頃にはなかった。蛍はテレビの向こう側のものだった。


鹿沼の郊外に川がある。車で二十分。結衣の兄がワンボックスを出してくれた。兄は大学生で、結衣と違って静かな人だった。「何時に迎えに行けばいい?」「九時! お願い!」「了解」。それだけのやりとりで全てが決まる。兄妹の温度差がすごい。


車内は騒がしかった。結衣が「蛍の待ち受けにする!」と宣言し、美咲が「え、暗くて撮れなくない?」。凛が「露光時間を伸ばせばなんとか」。航が助手席で目を閉じている。まだ着いてない。


椎名は後部座席の一番奥にいた。窓の外を見ていた。山が近づいてくる。街並みが減って、田んぼが増えて、道の両脇に木が立ち始める。窓を少しだけ開けたらしく、草と土が混ざった風が車内に入ってきた。椎名の髪が揺れた。


ワンボックスが止まった。結衣が「着いた!」。全員が車を降りる。草を踏んだ瞬間、靴底から柔らかさが伝わった。アスファルトとは違う。生きている地面だ。


◇◇◇


夕暮れ。河原に着いた。


鹿沼の空気が変わる時間だった。山の稜線が紫に染まっていく。草の匂いが濃い。水の音がする。川は浅くて広い。石がごろごろしている。虫の声がもう始まっている。ひぐらしの残り声と、名前を知らない虫の合唱。重低音は蛙だ。高音は鈴虫か、それに似た何か。こんな和音を、俺はまだ知らない。慣れたくないと思うくらいには。


河原に降りた。結衣が「まだ明るいからちょっと待とう」と石に座った。航がイヤホンを片方だけ外した。美咲が自撮りを始めた。「夕焼けバックで撮ろ」。凛がスマホを構えて、全員を入れたアングルを探している。


椎名は川の近くにしゃがんでいた。水面を眺めている。頬杖。眠そうな目が水の反射を映していた。裸足の足首が靴からのぞいていて、水辺の冷気が肌を撫でている。気にしていない。


隣にしゃがんだ。


「来たことあるの?」


「……去年も来た。一人で」


一人で。この河原に、一人で蛍を見に来た。暗くなる河原に、一人で。


「……たぬきは夜行性だから。一人で夜の川に来るの、別に普通」


普通じゃない。でも椎名にとっては普通だったのだろう。去年は俺も、航も、結衣もいなかった。六人じゃなかった。椎名はこの河原で、一人きりで蛍を見上げていた。


「今年は六人だな」


「……うん」


声が小さかった。でも、肯定だった。水面に映る空を見つめたまま、うん、と。


待つ時間は思ったより長かった。


夕焼けがゆっくり薄くなっていく。川の上を風が渡るたび、草がざわざわ鳴る。石に手をつくと、昼の熱がもう抜けていた。指先に苔のざらつきが触れる。


結衣が「まだかなー」と三回言った。美咲が「蚊に刺された!」と二回叫んだ。航が一回だけ「だから長袖にしろって」と言った。美咲が「だって暑いもん」。航が「知らねえ」。結衣が「航冷たくない? 虫除けスプレー貸してあげなよ」。航が「持ってねえよ」。結衣が「使えない男!」。航が「うるせえ。お前が持ってこいよ」。結衣が「あたしは企画担当だから持ち物は各自!」


凛はその全部を面白そうに眺めていた。スマホを構えて何枚か撮っている。蛍じゃなくて、騒いでいる四人を。凛の写真フォルダには、いつもこういう日常の写真が増えていく。


椎名は黙っていた。でも黙ったまま、川の向こう岸と、足元の草と、暗くなっていく空を順番に見ていた。膝を抱えて座っている。制服のスカートの裾が草に触れている。蛍が出る瞬間を、一番待っているのは椎名だとわかった。体の重心が前に傾いている。期待を声にしないだけで、体が正直だ。


「そんなに好きなのか。蛍」


「……好き」


即答だった。たぬきで包まない、裸の「好き」がそのまま出た。一拍置いて、自分の発言に気づいたらしい。肩が少し上がった。耳は——暗くて見えない。


それから少しだけ遅れて。


「……たぬきは夜の光が好きだから」


本音が先に出て、後からたぬきの包装紙を被せた。順番が逆だ。椎名にしては珍しい。蛍の力は、たぬきの鎧より速い。


◇◇◇


暗くなった。


最初のひとつは唐突だった。草むらの奥で、ぽつ、と光った。黄緑色。揺れて、消えて、また点いた。


「あ——」


美咲が声を上げた。


二つ目。三つ目。川沿いの草の間から、ぽつ、ぽつ、と光が生まれた。水面に反射する。川がもう一本の光の道を作っていた。上の光と下の光。実物と鏡像が同じリズムで揺れている。


「きれー!」


結衣が声を上げた。美咲がスマホを構えて「暗い! 全然撮れない!」。航が「だから言っただろ」。それは凛が言った。航は言っていない。凛がスマホの設定を触って、長時間露光で一枚だけ撮れた。画面に蛍の光が線になって映っている。光の軌跡が、川の上に淡い文字を書いたみたいに見えた。


俺は見ていた。


蛍の光は揺れる。規則正しくない。生き物のリズムで明滅する。心臓の鼓動みたいな間隔。でも一匹一匹がばらばらだ。同期しない。川のせせらぎと、虫の声と、蛍の光。三つが重なって夜を作っていた。空にはまだ夕焼けの残滓が紫色に残っている。星が三つ見える。


「……すげえ」


声が漏れた。ここへ来なければ、一生知らなかった光かもしれない。


光が増えていく。草の間から、水面の上から、空気の中から、無数の光が生まれていた。明滅のリズムがそれぞれ違う。同期しない。生き物の呼吸のリズムだから。規則正しくない光が、川沿いを埋め尽くしていた。闇の中に浮かぶ黄緑色の粒。近くの光は輪郭がぼんやりして、遠くの光は鋭い点になる。そのグラデーションが奥行きを作って、河原が宇宙みたいに広く見えた。


椎名がいつの間にか隣にいた。立っている。俺より頭ひとつ低い位置に、眠そうな目がある。蛍の光が椎名の横顔に反射していた。淡い。黄緑色が頬を掠めて消える。また灯る。消えて、灯る。呼吸のように。


椎名がぽつり。


「……たぬきは夜行性だから、蛍と同じ時間を生きてるの」


いつものたぬき。でも声のトーンが違う。教室で言う時より柔らかい。夜の空気に溶けるような声だった。虫の声に紛れてもいいくらいの声量で、でも俺の耳にはなぜかはっきり届いた。


「……きれいだな」


椎名の話にツッコまなかった。蛍を見て言ったのか、椎名の横顔に灯る光を見て言ったのか、自分でもわからなかった。わからなくていいと思った。どっちでも同じことだった。


椎名が少し顔をこちらに向けた。蛍の光が椎名の目に映っていた。眠そうな目が光を抱いている。黄緑色の小さな炎が、黒い瞳の中で揺れていた。


「……うん」


それだけ。


蛍は増えていった。ピーク。川沿いが光の帯になった。草の間を、水面を、空気を、無数の光が飛び交っていた。声を出す人間がいなくなった。六人とも黙って見ていた。蛍の光が人間を黙らせていた。結衣も美咲もスマホを下ろしていた。航がイヤホンを両方外していた。凛だけがシャッターを切っている。音もなく。


椎名の手が、隣にある。指先が白く光に浮かんでいた。触れられる距離。触れない距離。その間。


六人で来ているのに、その一瞬だけ、川辺の音が遠のいた気がした。


結衣の笑い声も、美咲の「撮れないー!」も、航のため息も、凛のシャッター音も、ちゃんと聞こえている。聞こえているのに、薄い膜を一枚挟んだ向こう側みたいに遠い。


目の前の蛍だけが近い。


その蛍の光を映した椎名の横顔も、近い。


去年、椎名はこの光を一人で見た。隣に誰もいない河原で、この光を見上げていた。たぬきの小説に出てくる「遠くから灯りを見ている」たぬきは——もしかしたら、去年のここがモデルなのかもしれない。一人で光を見て、一人で帰って、一人で書いた。


今年は隣に俺がいる。言葉にはしない。するつもりもない。ただ同じ場所で同じ光を見ている。


それだけのことが、なぜか大きく感じられた。


◇◇◇


九時。結衣の兄が迎えに来た。


帰り道。ワンボックスの中。結衣と美咲がスマホで蛍の写真を見ている。「凛の写真すごい!」「送って送って!」。航は助手席で寝ている。凛が窓の外を見ている。


後部座席の一番奥に、椎名と俺が並んでいた。行きより近い。肩が触れている。車の揺れで離れて、また触れる。離れて、触れる。揺れのリズムが椎名の体温を運んでくる。低い。いつも冷たい。でも、冷たいからこそ触れた瞬間に温度差がわかる。


椎名が窓の外を見ていた。暗い山道。街灯が少ない。蛍はもう見えない。


椎名の目が閉じかけている。眠いのだろうに、今日はこっちに倒れてこなかった。意識してるのか、していないのか。ただ車が揺れるたび、肩だけが触れて、離れた。離れるたびに椎名の側の空気がほんの少し冷える。触れるとまた温まる。繰り返し。


窓の外は真っ暗だった。街灯の少ない道。木の影が車のボディを流れていく。時々だけ、遠くの家の灯りが見える。ぽつん、ぽつん、と。山の中の小さな灯台みたいに。窓ガラスにぼんやり映る自分の顔と、その向こうの暗い山が重なっている。


東京の夜は、灯りが多すぎて空が低かった。


鹿沼の夜は暗い。暗いからこそ、灯りが一つあるだけで、その家の中まで想像してしまう。誰かがいて、飯の匂いがして、テレビがついていて、笑い声がある。


椎名の小説のたぬきが見ていた灯りは、きっとこういう灯りだったのかもしれないと思った。遠くの家の灯り。近づきたいけど近づけない光。でもたぬきは見ている。ずっと見ている。


後ろの席で結衣が「なんかさ」と言いかけた。凛が袖を引いた。小さく一度だけ首を振る。結衣は珍しく、その先を飲み込んだ。


凛は見えている。この後部座席の一番奥で何が起きているか。何も起きていないのに、何かが起きているということを。


俺も何も言わなかった。椎名も何も言わなかった。


ただ、行きより近いまま帰っていた。


車が俺の家の前で止まった。「ありがとうございました」と結衣の兄に言って降りた。ドアを閉める寸前、椎名と目が合った。暗い車内。街灯の光がかろうじて届く距離。椎名の目が少しだけ開いていた。眠いはずなのに。


「……おやすみ」


椎名の声。小さい。車のエンジン音に紛れそうなくらい小さい。


「おやすみ」


ドアが閉まった。ワンボックスが走り出す。テールランプが赤く光って、角を曲がって消えた。


家に入っても、川の匂いが服に残っていた。湿った草の匂い。水の匂い。夏の夜の匂い。


シャツを脱いで洗濯かごに入れようとして、やめた。少しだけそのまま椅子にかけておく。明日には消えてしまう匂いだ。だからもう少しだけ。


蛍はもういないのに、目の奥ではまだ揺れていた。


鹿沼に来てから、好きな匂いが増えた。好きな色が増えた。好きな音が増えた。


好きな——。


思考がそこで止まった。止めた。まだ早い。何が早いのかもわからないけど、たぶん早い。


窓を開けて夜の空気を入れた。鹿沼の六月の夜。蛙の声が遠くで鳴っている。星が見える。東京じゃ見えなかった星だ。


目を閉じると、蛍の光が瞼の裏に残っていた。その光の中に、小さな横顔がある。


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