第31話「走ると速すぎる」
翌週の火曜日。朝の教室は妙に落ち着かなかった。
落ち着かない理由は、右斜め前で騒いでいる結衣でも、窓の外で鳴いている鳥でもない。隣の席だ。
椎名がいつもより静かだった。
いや、椎名は元から静かだ。ぼそぼそ喋って、必要以上のことは言わない。けど今朝の椎名は、静かな上に、こっちを見ない。教科書を机に置く手つきも、ノートを揃える動きも、無駄に丁寧だ。意識を別のところへ逃がしている時の手つきだった。
理由はわかっている。
先週、風邪で寝込んだ椎名の家で、沙季が全部喋った。『今日藤原がね』から始まる家庭内報告。ご飯のおかわり。肩で寝た日に帰ってから自分の肩を触っていたこと。忘れろと言われた。忘れられるわけがない。
「ちさ、風邪もう平気?」
結衣が前の席から振り向いた。
「……平気」
椎名は短く答えた。やっぱりこっちは見ない。
「ほんとに? なんかまだ顔赤くない?」
「……暑いから」
六月の朝にしては苦しい言い訳だ。でも結衣は「あー、今日は蒸すもんね」と勝手に納得した。椎名の耳は髪で隠れていた。今日はいつもより髪を下ろしている。たぶん隠したいのは耳だ。
俺が席に座ると、椎名が一度だけ視線を寄越した。触れたら火傷しそうな速さで逸れた。
「……プリント」
朝の提出物が机の端に置かれる。指先が触れそうになって、触れなかった。
「おう」
それだけで喉が乾いた。
一限目は国語だった。先生が教科書を開くよう指示している間、視界の端で椎名の肩が見えた。いつもより少しだけ内側に巻いている。縮こまっている。たぶん、隣にいる俺の方に体が向かないよう意識しているせいだ。その意識の向け方が、椎名らしくて——少し可笑しくて、少し苦しかった。
消しカスが飛んでこなかった。いつもなら国境を越えてくる白い粒が、今日は一粒も来ない。椎名が消しゴムを使わないのではなく、使った後のカスを丁寧に手で集めて自分の側に戻しているのが見えた。
そこまでするか。
◇◇◇
体育のリレーは、俺の出番じゃないはずだった。
六月の校庭。空が白く焼けている。体育祭に向けたクラス対抗リレーの練習で、アンカーの岡本が昨日の部活で足を捻った。朝のホームルームで体育委員が困った顔をしていたら、航が俺の背中を叩いた。
「ハルト、お前走れ」
「なんで俺」
「足速いだろ」
いつ見た。入学してから走っているところを見せた覚えはない。陸上部の朝練は校庭の端を使うから、教室からは見えない。
航が面倒そうに首を傾けた。「……カン」
カンて。
体操服に着替えて校庭に出た。六月の日差しが首筋にへばりつく。空気が重い。湿度の壁みたいだ。アスファルトの照り返しがあるぶん東京より暑いと思ったが、目線を上げた瞬間にわかった。東京と決定的に違うのは、空の広さだ。視界を遮るビルがない。校庭の端から山の稜線まで、何もない。空がそのまま地面に落ちている。
トラック。バトンゾーンで待っている。俺はアンカーだ。前の走者は結衣。結衣は速い。が、相手のクラスのアンカーはもっと速い。陸上部の三年だ。
結衣がカーブを回ってきた。顔が必死だ。ポニーテールが揺れている。バトンを差し出す手が伸びる——が、二位のクラスとの差が十五メートルある。後ろに。
結衣の手からバトンを受ける。金属の感触。汗で滑る。握り直す暇はない。
走り始めた。
足裏がトラックを蹴る瞬間、いつも思う。団地の周りを回るしかなかった東京と違って、ここはまっすぐだ。
空が近い。視界が広い。足が伸びる。肺が大きく開く。一歩ごとに風の抵抗が減っていく感覚。体が前に倒れるのを足が追いかける。追いかけて、追い越して、体を前に運ぶ。風を切る。空気の壁が薄くなっていく。スピードが上がるほど、世界が静かになる。周囲の声も風の音も消えて、自分の心臓の音だけが残る。
十五メートル。
前を走る一位のアンカーの背中が見える。白い体操服に汗の染み。十メートル。横の景色が溶ける。七メートル。心臓が耳の中で叩いている。五メートル。足音が二つ重なる。三メートル。相手の呼吸が聞こえる。荒い。俺の方がまだ余裕がある。
横に並んだ。
一位のアンカーが視界の端でこっちを見た。目が見開いている。
抜いた。
ゴール。
胸がテープを切る感覚はない。そもそもテープはない。ただ白線を越えた。速度を落とす。呼吸が荒い。心臓が全力で血を送っている。足裏からふくらはぎ、太腿、腰、背中——筋肉が一斉にクールダウンを要求している。走っている最中は何も感じなかったのに、止まった途端に体のあちこちが主張を始める。痛みはない。痛みだけは、いつも通り来ない。
後ろから声が聞こえた。複数の声。
「え——」
「藤原くん?」
「うそ、今の何!?」
振り返ると、うちのクラスが混乱していた。結衣が両手を挙げている。「えええ!?」。美咲がスマホを落としている。凛がスマホを構えている。たぶん撮った。
航がトラックの脇から歩いてきた。いつものだるそうな顔だが、目だけが違う。
「……お前、足速かったのかよ」
「まあ」
「まあじゃねえよ今の何だよ。十五メートルひっくり返したぞ」
「走ったら追いついた」
航が黙った。「走ったら追いついた」を咀嚼しているような顔をして、それから小さく「……化け物か」と呟いた。
クラスメイトが集まってきた。「藤原すげえ!」「陸上部だっけ?」「何でリレー出てなかったの!?」。騒がしい。目立つつもりはなかった。走り始めたら体が勝手に。足が勝手に。空が広くて、トラックがまっすぐで、前に人がいたから抜いた。それだけだ。
結衣が目の前に来た。「藤原ぁ! あんたなんであたしにそれ先に言わないの! あたし必死で走ったんだけど!?」
「言ってない。走れって言われたから走っただけ」
「かっこよすぎて腹立つんだけど!」
褒めてるのか怒ってるのか分からない。たぶん両方だ。
先生までやって来た。「藤原、陸上部だったのか」
「一応」
「一応であれは困るな。体育祭、今年はいけるかもしれん」
クラスの男子がどよめいた。「優勝狙えるじゃん」「藤原、あと二回走れ」「殺す気か」。勝手に話が進む。俺はまだ呼吸を整えている途中なのに、周りだけが先に盛り上がっていた。
目立つのは苦手だ。東京にいた頃からそうだった。走るのは好きでも、速いと騒がれるのは好きじゃない。速さは見せるものじゃなくて、自分の中で完結するものだと思っていた。
でも今日は、そこまで嫌じゃなかった。
走りきった後の体が軽い。心臓はまだ速いが、足の裏から頭まで血が循環している感覚がある。風が汗を冷やしていく。空が広い。その広さだけで、肺の開き方まで違った。
嫌じゃなかった理由は、たぶん——走ることそのものが気持ちよかったからだ。鹿沼に来て初めて、全力で走った。朝練では七割くらいしか出さない。メニューがそうなっている。でも今日は十割出した。十割出しても体が壊れない。それが単純に嬉しかった。
◇◇◇
リレーの後、校庭でクールダウンしていた。ストレッチ。太腿が少し張っている。走りっぱなしだったから当然だ。膝を抱えて前屈した。地面の土が鼻先に近い。乾いた土と草の匂い。影が長くなり始めている。
ふと顔を上げた。
校舎の二階。古い棟の端。窓が一つ開いている。
文芸部室の窓。
何かが見えた気がした。でも距離があって確認できない。六月の日差しが窓ガラスに反射して、中は影になっている。人がいたのか、カーテンが揺れただけか。風がカーテンの裾を揺らしている。白い布が光の中でひらひら動いている。でもそれだけじゃない気がした。カーテンの奥に——小さな人影が立っているような。
走っている最中は前しか見ていなかった。トラックと風と呼吸しか意識になかった。だから気づかなかった。
校舎を見上げたまま、数秒。
もし誰かがあそこにいたとして、校庭のリレーが見えていたとして。あの人影が——椎名だったとして。
考えかけて、やめた。確認できないものを想像しても仕方がない。
結衣が「藤原ぁ! ストレッチ終わった? 教室戻るよ!」と呼んだ。視線を戻した。
◇◇◇
翌日の昼休み。
弁当を広げた。いつもの六人。結衣はまだ昨日のリレーの話をしている。
「十五メートルだよ十五メートル! あれ何回でも見返せるやつ!」
「撮ったよ」
凛がスマホを少し持ち上げた。
「えっマジで!? 見せて見せて!」
結衣が勢いよく身を乗り出し、その拍子に机が少し揺れた。
凛のスマホが回ってきた。画面の中の俺が、カーブの向こうから猛然と迫ってきて一位を抜き去っていた。自分で見ると変な感じがする。こんな走り方をしていたのか。前のめりで、でも上体はぶれていない。足が地面を叩くというより、撫でている。
航が「……うるせえ」と米を噛んでいる。美咲が「藤原くんの足、長くない?」と的外れな感想を言った。
椎名が隣で弁当を食べていた。卵焼きを箸でつまんでいる。凛のスマホが椎名の前を通過した時、ちらっと画面を見て、すぐ弁当に戻した。
そして唐突に言った。
「……きみ、速い」
「何が」
「……走り」
低い声。ぼそっと。いつもの言い方。でも、いつもの「たぬきは〜」じゃない。直接言った。たぬきに包まず、「きみ」と「速い」をそのままぶつけてきた。
「見てたのか?」
「……窓から」
やっぱり。昨日校舎を見上げた時、文芸部室の窓に見えたのは——椎名だった。カーテンの奥にいたのはカーテンじゃなくて、椎名だった。
「部室から校庭、見えるのか」
「……校庭の端だけ。……トラックのカーブから先が見える」
つまり、俺が前の走者に追いつき始めてからゴールまでが見えていた。一番見せ場の部分だけ、窓枠に切り取られていたことになる。
「いつも見てんの?」
「……」
陸上部の朝練は教室からは見えない。でも放課後の自主練なら——文芸部室の窓から見える。椎名が放課後に文芸部室にいる時間と、俺が自主練でトラックを走る時間は重なっている。
今まで気づかなかった。走っている時は前しか見ない。だから、二階の窓から見下ろしている目に気づかない。
椎名がいつから見ていたのか。四月からか。五月からか。毎日か。時々か。聞きたいような、聞いたら崩れるものがあるような。
椎名が卵焼きを飲み込んだ。視線が弁当に落ちたまま。箸先が次のおかずを探すふりをしている。探すふりだ。おかずの配置なんてとっくに把握しているくせに。
「……かっこ、」
止まった。
音が切れた。飲み込んだ。椎名が口を閉じて、箸を動かした。何事もなかったように次のおかずに移った。
「ん?」
「……何でもない」
何でもなくない。聞こえた。「かっこ」まで。その先は——想像できる。想像できるが、想像したら負けな気がする。
前の席で結衣が「何? 何て言ったの?」とすぐ食いついた。椎名が弁当箱に視線を落とす。
「……何も」
「絶対何か言ったじゃん!」
凛が結衣の肩を叩いた。「スマホの動画、航にも見せてあげなよ」。話題をずらした。結衣が「航見た? 見て見て!」と航に向かっていった。凛は一瞬だけこっちを見て、微笑んで、前を向いた。
助け舟だった。
椎名が弁当を食べている。何事もなかったように。でも、箸を持つ手が少しだけ強い。白い指の関節が浮いている。弁当箱のふちに視線を固定したまま、動かない。
凛の動画の中の自分より、さっきの三文字の方がずっと心臓に悪かった。
「かっこ」の先にあった言葉を、椎名は飲み込んだ。飲み込んだものは消えない。飲み込んだ椎名の喉が小さく動いたのを、俺は見た。
放課後。教室を出る時、航が横に並んだ。
「お前さ」
「ん」
「椎名さんがお前の走り見てたの、四月からだぞ」
足が止まった。
「……なんで知ってんだ」
航がイヤホンを片方だけ外して、面倒そうに顎を上げた。
「……文芸部室の窓にいつもいる。部室の場所くらい知ってんだよ。俺の教室から見えんの、あの窓」
航は別のクラスの窓から、文芸部室の窓が見えていた。そしてその窓に椎名がいることを知っていた。
「言うなよ」
航が歩き出した。イヤホンを戻す。
「言わねえよ。めんどくせ」
うしろ姿。航のパーカーの背中。俺はしばらくその場に立っていた。
椎名が、四月から——窓から見ていた。
走る理由が、ほんの少しだけ増えた気がした。




