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椎名さんは眠そうに笑う  作者: 雨宮 沙奈
隣の席は、呼吸の距離
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第30話「妹はだいたい全部言う」


翌週の水曜日の朝。椎名の席が空いていた。


結衣が「千沙休み?」と聞いてきた。航が「知らねえよ」。美咲が「LINE返ってこない」。凛が「風邪かも。昨日くしゃみしてたよ」。


一限の途中で、担任が出席簿を見ながら言った。「椎名、風邪で欠席な。学級委員、プリント頼むぞ」。


学級委員。椎名だ。椎名が休みだから——。


担任が俺を見た。「藤原、副委員だろ。頼んだ」


副委員長は俺だった。立候補者が誰もいなくて、椎名に「……きみがいい」と指名されたのが四月の話だ。以来、仕事らしい仕事をした記憶がない。


放課後。プリントの束をクリアファイルに入れて鞄に詰めた。


結衣が教室のドアから顔を出した。


「はると、ちさの家行くんでしょ?」


「プリント届けるだけだ」


「うんうん、届けるだけね。ゆっくりしておいで」


「届けるだけ」


結衣がにやにやしている。凛が後ろから「行ってらっしゃい」と手を振っている。航がイヤホンをつけながら「……がんばれよ」とぼそっと言った。何をがんばるんだ。


◇◇◇


住宅街。五月の午後。椎名の家の門をくぐる。庭の紫陽花はまだ咲いていない。つぼみが少しだけ膨らんでいる。


インターホンを押した。


出てきたのは沙季だった。


「あ、藤原先輩!」


満面の笑み。元気だ。この前会ったときと同じ太陽出力。制服じゃないから中学の部活帰りだろう。ジャージ姿。髪はポニーテール。


「お姉ちゃん寝てるんですけど、先輩上がってきます?」


「プリント渡すだけだから——」


「あ、お姉ちゃんに直接渡してあげてください。起きたら喜びますよ」


沙季がにこにこしている。俺が断る前に扉を開けてしまった。ここに来るのは二回目だ。玄関の靴の並び。写真立て。前と同じ匂い。木の家具と、今日はかすかに風邪薬の匂いが混ざっている。


リビングに入った。


ソファに毛布の塊があった。


人間の形をした毛布。そこから黒い髪がはみ出している。


沙季が毛布に向かって言った。「お姉ちゃん、藤原先輩がプリント持ってきてくれたよ!」


毛布がもぞもぞ動いた。


「……沙季」


低い声。ソファの奥から。眠そうだけど——殺気がある。殺気と体調不良が同居している。


毛布から顔だけ出た。


髪がぼさぼさだった。寝癖が四方八方に跳ねている。目がいつもの倍眠そうだ。熱があるのだろう。頬がうっすら赤い。風邪の赤さだ。マスクをしている。白い使い捨てマスク。目だけが見えている。


俺と目が合った。


毛布が一瞬止まった。


「……見ないで」


「見てるけど」


「……見ないで」


二回言った。毛布を顎まで引き上げた。マスクの上から目だけがこっちを睨んでいる。睨んでいるが、眠そうなので迫力がない。風邪で弱っている猫みたいだ。


「プリント」


クリアファイルをテーブルに置いた。


「……ありがと」


毛布の声。小さい。鼻が詰まっている。「ありがと」の「と」が少しだけ詰まった。


「ゆっくり寝てろ」


「……寝てた。沙季が起こした」


沙季が「起こしてないよ! 自分で起きたでしょ!」と反論している。椎名が毛布ごとそっぽを向いた。


◇◇◇


椎名が毛布に籠城した。完全に。顔を出さなくなった。毛布の塊がソファの端で丸くなっている。たぬきの巣穴だ。侵入者から身を守る姿勢。


沙季がお茶を出してくれた。前と同じ麦茶。やかんから。


テーブルを挟んで、俺と沙季が座った。沙季がにこにこしている。何かを待っている顔。犬が散歩を待つときの顔に似ている。


あるいは——何かを言いたくて仕方がない顔。


「先輩」


来た。


沙季が身を乗り出した。


「先輩、知ってます? お姉ちゃん、先輩のこと——」


毛布が動いた。


「沙季」


警告。低く、鋭い。風邪で声がかすれているぶん、かえって凄みがある。


沙季は止まらなかった。


「先輩の話になるとね、ご飯おかわりするんですよ」


静寂。


毛布から手だけが出た。沙季に向かって伸びている。指先が震えている。怒りか、恥ずかしさか、風邪の震えか。たぶん全部だ。距離が足りない。ソファからテーブルまで腕が届かない。


毛布が大きく揺れた。椎名がソファから起き上がろうとしている。毛布がもつれた。足が引っかかっている。


「やめ——」


声がパニックに近い。ぼそぼその千沙じゃない。声が上ずっている。風邪で弱っている体に恥ずかしさが直撃している。


沙季が畳みかけた。


「あとあと、先輩の肩で寝ちゃった日あったでしょ?」


時間が止まった。


あの日。こてん、と頭が肩に乗った日。シャンプーの匂い。体温。十分間。


「あの日はね、帰ってきてからずっと自分の肩のあたり触ってて——」


椎名が毛布を脱いだ。


風邪とは思えない速度でソファを蹴って、沙季に飛びかかった。マスクが外れた。髪がぼさぼさのまま宙を舞った。目が——覚醒していた。完全に。眠そうな目の片鱗もない。


「きゃー!」


沙季が椅子を蹴って逃げた。リビングを駆ける。テーブルを挟んで追いかけっこが始まった。椎名が右に行けば沙季は左によける。沙季が笑っている。椎名の目が本気だ。


俺はテーブルの前に座ったまま、麦茶を飲んでいた。


飲んでいるフリをしていた。


心臓がおかしい。音がうるさい。耳の中で脈が打っている。


ご飯おかわり。


肩で寝た日に、帰ってきてから——自分の肩を触っていた。


何を、していたんだ。何を確認していたんだ。俺の体温か。あのとき肩に乗っていた頭の感触を、自分の肩で再現しようとしていたのか。


——やめろ。考えるな。


椎名が沙季を捕まえた。後ろから抱きつくように腕を回して、口元を塞いだ。両手で。今度は塞げている。風邪の力を全部使って塞いでいる。


「もう黙って。お願い。黙って」


声が震えていた。怒りじゃない。恥ずかしさの圧力が声帯を揺らしている。マスクが外れた顔が、耳の先まで真っ赤だった。風邪の赤さを差し引いても余裕で赤い。目が潤んでいる。泣きそうだ。恥ずかしさで涙腺が決壊しかけている。


沙季が椎名の手の隙間から喋った。くぐもった声。


「ほへひゃん、はほあはひよ? はへのへひ?」


翻訳不能。でたぶん「お姉ちゃん、顔赤いよ? 風邪のせい?」と言っている。


悪意ゼロ。天然の破壊力。台風は悪気なく屋根を飛ばす。沙季は悪気なく姉の防衛線を粉砕する。


台所から母親が顔を出した。「あんたたち、病人が走り回らないの。沙季もいい加減にしなさい」。穏やかな声だが有無を言わさぬ力がある。


椎名がソファに崩れ落ちた。息が荒い。風邪の体に全力疾走は堪えたらしい。毛布を引き寄せて、頭まで被った。消えた。完全に。毛布の塊だけがソファに残った。


咳が二つ、毛布の中でくぐもった。


テーブルの端に置かれていたコップを、手の届く位置まで寄せる。毛布の隙間から白い指先が出てきて、コップを受け取った。


一口だけ飲んで、また毛布の中に消える。


毛布の中から、声がした。くぐもった、小さな声。


「……沙季の言ったこと」


俺に向かって言っている。


「全部忘れて」


◇◇◇


沙季が母親にリビングから追い出された。「あんたは自分の部屋に行きなさい」。沙季が「えー」と名残惜しそうにしながら廊下に消えた。去り際に俺に「また来てくださいね!」と手を振った。元気だ。台風一過。


リビングに俺と毛布だけが残った。


毛布が動く気配がない。


「……椎名」


「……」


「プリント、テーブルに置いてあるから」


「……」


「帰るわ」


毛布がかすかに動いた。顔は出てこない。


「……沙季の言ったこと」


同じ台詞。二回目。


「忘れて」


「……無理だろ」


言ってしまった。


毛布が硬直した。


「……お願い」


声が小さい。毛布というフィルターを通して、さらに小さくなっている。


「……家のことだから」


毛布の奥で、椎名が小さく息を吸ったのがわかった。


「……学校に、持っていかないで」


「持っていかない」


毛布が止まる。


「……忘れるのは無理だけど、言わない」


しばらく返事がなかった。毛布の端が、ほんの少しだけ揺れている。恥ずかしさか、風邪の寒気か。


「……ほんとに?」


「ほんと」


毛布から、ほっとした空気が漏れた。物理的に分かった。毛布の膨らみが少し小さくなった。力が抜けたのだ。


立ち上がって、玄関に向かった。


靴を履く。紐を結ぶ。振り返ると、リビングのドアの向こうに毛布が見えた。動かない。もう寝たのかもしれない。風邪だから。寝たほうがいい。


玄関を開けた。


「……藤原」


毛布の声。聞こえるか聞こえないかの音量。


「……ありがと。プリント」


「おう」


外に出た。扉を閉めた。


◇◇◇


帰り道。


一人で歩いている。五月の夕方。風が頬に当たる。温い風。日が長い。空がまだ青い。住宅街の角を曲がって、コンビニの前を通って、駅に向かう道。


沙季の声が頭の中で反芻されていた。


——『今日藤原がね』って始まるんです。


椎名が家で、俺の話をする。


——帰ってきてからずっと自分の肩のあたり触ってて。


椎名が。あの日の肩の感触を。


忘れろ。椎名が忘れてって言っただろ。忘れると約束しただろ。


忘れろ。


駅が見えた。改札を通った。ホームで電車を待った。


電車が来た。乗った。座った。窓の外を見た。夕方の景色が流れていく。


忘れろ。忘れろ。忘れろ。


——忘れられない。


椎名が、俺の話をしているとき。おかわりのお茶碗を差し出すとき。どんな顔をしているのか。眠そうな目のまま、口元だけ動くのか。それとも——あの家でだけ見せる、ちょっとだけ柔らかい表情で。


それを知ってしまったのに、明日からまた教室では何も知らない顔をする。


電車が揺れた。窓ガラスに自分の顔が映っていた。


耳が、少しだけ熱かった。


忘れたふりをしたまま、明日また隣の席に座るしかない。


それが、たぶんいちばん厄介だった。


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