第29話「椎名家、今日も台風」
少女が立っていた。
椎名に似ている。同じ血だと一目で分かる。でも全然違う。目がぱっちり開いていた。椎名の眠そうな半眼の面影はあるのに、完全に覚醒している。千沙の目が薄曇りの空だとしたら、この子の目は真夏の快晴だ。背は千沙より高い。三センチくらい。表情は——宝物を見つけた小学生のそれだった。
「——お姉ちゃんの友達!?」
声がデカい。結衣に匹敵する声量が椎名家のリビングを揺らした。
視線が俺を捉える。上から下まで。情報を猛速度で処理している。制服。男。リビングにいる。お茶が二つ。
「男!? えっ、男の人連れてきたの!?」
椎名が椅子から立ち上がっていた。さっきまでの猫背が消えている。背筋が伸びて、少女と俺の間に割り込むように立った。
「……沙季。うるさい。帰りなさい」
声がぼそぼそじゃない。低いけど芯がある。
少女——沙季が、きょとんとした。
「帰るってどこに!? ここ家だよ!?」
正論だった。
椎名の表情が崩れかけた。耳が赤い。頬も赤い。額まで赤い。赤をグラデーションで塗りつぶしたみたいに、見たことのない範囲まで赤が広がっている。学校では絶対に見せない色だ。
沙季が椎名の脇をすり抜けて、俺の前に来た。近い。距離感がバグっている。初対面の相手に対する距離じゃない。結衣タイプだと直感で分かった。人との距離が近い人間。でも結衣が太陽なら、この子は竜巻だ。巻き込み速度が違う。
「もしかして藤原先輩?」
「あ……はい」
沙季の目がさらに輝いた。輝度が上がった。物理的に光っているように見える。
「本物だ!」
本物。何の本物だ。
椎名が沙季の腕を引っ張った。後ろに引き戻そうとしている。沙季が身を翻してよける。ひらり、と。身体能力が高い。椎名が手を伸ばす。沙季がまたよける。二手先を読んでいるような動き。バスケか何かやっているのだろうか。姉と同じ遺伝子から出来ているとは思えない運動神経だ。
沙季が俺に向かって、にこにこしながら言った。
「お姉ちゃんから聞いてます!」
椎名が凍った。
「……あ、聞いてませんけど、聞こえてきます!」
聞いてないけど聞こえてくる。壁が薄いのか。椎名が部屋で俺の話をしているのか。どっちだ。いや、どっちでも意味は同じだ。
椎名の声が——上がった。
「何が聞こえてくるの!」
ぼそぼそが消えていた。声量がある。周波数が違う。妹に対して出す声。学校で一度も聞いたことがない声。姉の声だ。
俺はリビングのテーブルの前に立ったまま、嵐の中心にいた。
◇◇◇
嵐は収まらなかった。
椎名が俺を玄関に連行しようとした。沙季がそれを阻止した。方法は単純で、俺の鞄を持ってリビングの奥に退いたのだ。人質ならぬ鞄質。
「お茶のおかわり出しますよ! まだ早いですよね、帰るの!」
「出さなくていい!」
椎名の声が裏返りかけた。
「お姉ちゃんケチ」
「ケチじゃない!」
「だってせっかく藤原先輩来てくれたのに、お茶一杯で追い出すの?」
理屈は沙季にあった。椎名は反論に詰まった。黙って赤くなるところは学校と同じだった。でも今日は隠れ方が間に合っていない。
台所から母親の声。「沙季ー、あんまりからかわないのー」
沙季が振り返って台所に向かって答えた。「からかってないよ! 興味があるだけ!」
悪意はゼロだった。ただ、嬉しくて仕方がないだけだ。
結果として、俺は再びリビングの椅子に座ることになった。鞄を返してもらう交渉の余地がなかった。
椎名が俺と沙季の間に割り込むように座った。物理的な壁。挟まれる位置。沙季から俺を守ろうとしている。あるいは、俺から沙季を——いや、沙季から俺の耳を守ろうとしている。
沙季がテーブルの向こうから身を乗り出した。にこにこしている。
「先輩、東京から来たんですよね? お姉ちゃんが——」
椎名の手が伸びた。沙季の口を塞ぐ。物理的に。掌で。
「黙って」
沙季が椎名の手をぺりっと剥がした。
「お姉ちゃんの手ちっちゃいから塞ぎきれてないよ」
事実だった。椎名の手は小さい。沙季の口を完全にカバーするには足りない。椎名が両手で塞ごうとする。沙季が椅子ごと後ろに下がる。
俺は麦茶のおかわりを飲んでいた。沙季が淹れてくれた。椎名が「淹れなくていい」と言ったが、もう注がれていた。沙季の行動速度は椎名の制止速度を常に上回っている。
「先輩」
沙季が椎名の防衛線をかいくぐって話しかけてきた。
「お姉ちゃん、学校ではどんな感じですか?」
その質問は意外だった。暴露の方向じゃなかった。
「……普通だけど」
「普通?」
「ぼそぼそ喋って、めちゃくちゃ眠そうにしてて、たぬきの話をする」
沙季が笑った。声を出して笑った。明るい笑い声。
「やっぱそうなんだ! 家でもそうだよ! お姉ちゃんずーっとたぬきの話してる! たぬきちのことも、本で読んだたぬきのことも——」
「沙季」
椎名の声が低い。警告音。
「あ、ごめんごめん」
沙季が両手を合わせた。でも反省の色はない。目が笑っている。
椎名が額に手を当てた。疲労の動作。学校では見ない。学校の椎名は「疲れ」を表に出さない。眠そうではあっても、疲れた顔はしない。でも妹の前では——ダダ漏れだ。
沙季が改めて俺を見た。さっきまでのはしゃぎが少し引いて、観察するような目になった。一瞬だけ。
「先輩」
「ん?」
「お姉ちゃんのこと、よろしくお願いします」
唐突だった。
椎名が固まった。沙季も一瞬きょとんとした。自分で言っておいて、言葉の重さに気づいたらしい。
「あ、えっと、友達として! 学校での友達として!」
取り繕いが下手だ。姉に似ている。方向性は違うが、「言ってしまってから慌てる」ところが同じだ。
椎名が沙季を睨んだ。睨んでいるが、眠そうな目なので迫力が足りない。
「……わかった」
俺が答えた。
椎名がこっちを見た。俺が見えた。何か言いたそうで、何も言えない顔。沙季がにこにこしている。台所から母親が「お夕飯の支度するから、そろそろねー」と声をかけた。
帰る時間だ。
◇◇◇
玄関で靴を履いた。今度は両方ちゃんと履けた。
椎名が見送りに立っている。沙季は母親にリビングに留められている。「あんたはそこにいなさい」と言われたらしい。
椎名の顔はまだ赤かった。耳が特に。赤の残り火みたいに、じわじわと引いているが完全には消えていない。
「……ごめん。妹がうるさくて」
「いや」
「……迷惑だったでしょ」
「全然」
本当だった。迷惑じゃなかった。騒がしかったけど、嫌じゃなかった。
「面白い妹だな」
椎名がむっとした。いや、むっとしているのか照れているのか判別がつかない。眉が寄っているのに耳が赤い。矛盾した表情。
「……面白くない。迷惑。騒がしいだけ」
でも声にちょっとだけ——ほんのちょっとだけ——温度があった。妹の悪口を言っているのに、温かい。喉の奥に「でも嫌いじゃない」が詰まっている声。
椎名の家は、お茶と時計の音だけの家じゃなかった。沙季の声と、台所の母親の声と、椎名の「うるさい」が重なっていた。
靴を履いて、ドアノブに手をかけたとき。
背後から声が聞こえた。リビングの扉の隙間から。
「お姉ちゃーん、藤原先輩のこと——」
椎名がリビングの扉をバンッと閉めた。
壁に飾ってある写真立てが震動で傾いた。家族写真の中の四人が微かに揺れた。
「……忘れて」
椎名の背中が言っている。俺の方を向いていない。扉を押さえたまま、振り返れないでいる。
「何を」
「……全部」
全部。
沙季が「藤原先輩のこと——」の続きに何を言おうとしたのか。椎名が何を聞かせたくなかったのか。
「……わかった」
わかったと言った。でも忘れないだろう。
外に出た。五月の夕方。空がまだ明るい。門を出て、住宅街を歩く。振り返らなかった。
椎名の家の空気が、まだ鼻の奥に残っていた。木の家具の匂い。麦茶。母親が作り始めた夕飯の匂い。——少しだけ、カレーの匂いがした気がする。
あの家に四人分のカレーが並ぶ。四人分の椅子で、四人分の会話で、四人分の温度で。
普通だ。普通がいい。
歩きながら、沙季の最後の言葉を反芻した。「お姉ちゃんのこと、よろしくお願いします」。友達として、と取り繕った。でもあの目は——姉を大事にしている妹の目だった。
椎名は「変な人」だ。学校ではぼそぼそ喋って、たぬきの話をして、ほとんど笑わない。
でもあの家には、椎名を「お姉ちゃん」と呼ぶ人がいる。
そのことが、なぜか——安心した。
なのに、耳の奥にはさっき遮られた沙季の声が残っている。
『お姉ちゃん、藤原先輩のこと——』
続きがわからないままのほうが、たぶん厄介だった。




