第28話「椎名さんの家」
木曜日の放課後。
椎名が連絡帳を閉じながら言った。
「……プリント、届けなきゃ」
学級委員の仕事だ。欠席者への配布物を届ける。今日はクラスの田村が風邪で休んでいる。田村の家は——椎名の家の近くだ。
椎名がプリントの束をクリアファイルに入れながら、ぽつりと言った。
「……ついでに寄る?」
手が止まった。
「え?」
「……プリント届けた帰り。……お茶くらい出るよ」
椎名の家。椎名の家に行く。椎名が住んでいる場所。雨の日に門の前まで送ったあの一軒家。庭に花が咲いていた家。たぬきちがいる家。
「……まあ、暇だし」
言ってから、もう少しマシな返事はなかったのかと思った。
椎名がこっちを見た。
「……暇なんだ」
「悪いかよ」
「……別に」
椎名の口元が微かに動いた。笑ったのかもしれない。笑っていないのかもしれない。角度が浅すぎて判別がつかない。
◇◇◇
田村の家にプリントを届けて、そのまま住宅街を歩いた。五月の夕方。まだ明るい。日が長くなっていて、五時を過ぎても空が青い。
椎名の家の門に着いた。表札の「椎名」。庭の花はこの前より咲いていた。紫陽花だ。まだ色づいていない。緑のつぼみが膨らんでいる。六月になれば咲くのだろう。
椎名が門を開ける。玄関まで歩く。鍵を出す。
「ただいま」
声が変わった。
学校の椎名は低くてぼそぼそだ。言葉の端が消えていく話し方。でも今の「ただいま」は、少し違った。声が高い。半音くらい。柔らかい。角が取れている。
家の椎名は、少し違う。
玄関に入る。靴を脱ぐ。棚の上に写真立てがあった。家族写真。四人。父親、母親、椎名、もう一人——妹だろう。椎名より少し背が高くて、目がぱっちりしている。
靴が並んでいる。椎名の靴は小さい。その隣にもう一足、椎名よりわずかに大きい靴。白のスニーカー。
「お邪魔します」
声を出した瞬間、奥から足音がした。
台所から顔が出た。女性。四十代くらい。エプロン姿。穏やかな顔。
——千沙の目だ。
眠そうな目。でも母親版は「穏やか」に変換されている。千沙の目から眠気を引いて温かさを足したら、この目になる。
「お友達? いらっしゃい」
「あ、はい。お邪魔します」
椎名の母親が微笑んだ。リビングの方を示して、「ゆっくりしてってね」。
椎名がぼそっと言う。
「……クラスの。藤原」
母親の表情が変わった。穏やかさの中に、何かが加わった。知っている、という顔だ。
「ああ、藤原くん。聞いてるわー」
聞いてる。
何を聞いているのか。突っ込みたかったが、突っ込む勇気が出なかった。椎名が横で固まっている。母親の「聞いてる」の内容を知っている顔だ。額に冷や汗が滲んでいるかもしれない。見えないけど。
「……リビングで」
椎名が俺を誘導した。部屋には通さない。リビング。公共の空間。安全地帯。
◇◇◇
リビングに通された。
木のテーブル。四人掛け。椅子が四つ。テーブルの上に花瓶があって、庭の花が一輪挿してある。白い花。名前は知らない。
お茶とお菓子が出てきた。麦茶と、スーパーの個包装のクッキー。母親が「ごめんね、気の利いたものなくて」と笑った。椎名が「……いいから」と小声で返した。
テーブルを挟んで座った。椎名が向かい。お茶を飲む。
椎名がリラックスしていた。学校より明らかに。
姿勢が少し崩れている。椅子の背もたれに体を預けている。猫背気味。足がテーブルの下でぶらぶらしている——椅子が高いのかもしれない。椎名の足は短い。
学校では見ない顔だ。緊張の糸が何本かほどけている。眠そうな目は同じだけど、目尻の角度が少しだけ違う。柔らかい。ここが椎名のホームなんだと思った。
リビングの棚に本が並んでいた。動物図鑑が三冊。「日本の哺乳類」。「里山の動物たち」。その中に「タヌキ学入門」という背表紙が見えた。椎名の趣味なのか家族の趣味なのかは分からないが、この家にはたぬきの文献がある。
その横に小説が並んでいた。文庫本。背表紙が日焼けして色褪せているものがいくつかある。何度も読んだ本だ。宮沢賢治が数冊。夏目漱石。それからあまり知らない名前の本が続いている。
窓の外に庭が見える。紫陽花のつぼみ。その向こうに塀。塀の上に空。五月の空。
匂いを拾った。木の家具の匂い。お茶の湯気。壁紙の匂い。どこか懐かしいような、経年の温かさがある匂い。クッキーのバターの匂いが少しだけ混ざっている。時計の音が聞こえる。カチ、カチ、カチ。規則正しい。
「いい家」
口に出していた。
椎名がお茶を飲みながら、少しだけ首を傾げた。
「……普通」
「普通がいいんだよ」
椎名がちらっとこっちを見た。目が合った。眠そうな目が、少しだけ開いた。視線が俺の顔にしばらく留まった。何か読み取ろうとしている。「普通がいい」の裏を。
四人掛けのテーブルにお茶とクッキーが出てきて、庭に花が咲いていて、家族の写真が玄関にある。そういうものが、俺の家にはあまりない。
椎名は何も言わなかった。
読み取ったかもしれない。読み取らなかったかもしれない。どちらでもいい。椎名が何も言わないことに、救われた。
クッキーを一つ取った。個包装を開けると、バターの匂いがした。齧る。普通のバタークッキーだ。スーパーで買えるやつ。お茶請けとしてはこれ以上のものはない。
窓の外を見た。庭の紫陽花が風に揺れている。葉っぱの緑が濃い。六月が近いのだと思った。ここから見る庭は静かだ。塀の向こうに空がある。鹿沼の空は広い。東京とは違う。見上げなくても空が見える。
◇◇◇
クッキーを二つ目に手を伸ばしながら、椎名の家を眺めていた。
壁にカレンダーが掛かっている。手書きで予定が書き込まれていた。「沙季バスケ練習」「PTA」「千沙文芸部」。家族の予定が一覧になっている。うちにはカレンダーがない。母のシフト表がキッチンに磁石で留めてあるだけだ。
帰れば誰かの予定が並んでいて、誰かの「ただいま」が返ってくる家だった。
椎名がクッキーの包み紙を丁寧に折りたたんで、テーブルの端に置いた。几帳面だ。学校でもそうだ。消しゴムのカスは領土侵犯してくるくせに、自分の持ち物の管理は完璧。
「……きみ、飲む?」
椎名が麦茶のおかわりを注いでくれた。やかんから。ペットボトルじゃなくて、やかんだ。麦茶を煮出している家。普通だ。普通で、温かい。
「ありがと」
「……別に」
椎名がまた背もたれに体を預けた。足がぶらぶらしている。この姿勢は学校では見ない。
——俺はそこに招かれた。
お茶と、クッキーと、木の家具の匂いと、時計の音。この家の巣穴に。「ついでに寄る?」という、たった一言で。
その事実が、なぜか胸の奥にじんわり広がった。
椎名がふと、窓の外に目をやった。紫陽花のつぼみを見ている。
「……もうすぐ咲くかな」
「紫陽花?」
「……六月になれば」
独り言みたいな声量だった。窓の向こうを見る椎名の横顔は、学校で見るどの横顔より柔らかい。この家の光が、椎名の輪郭を柔らかくしている。
ここにいる椎名を見ていると、帰り道で別れるあの十字路が、少しだけ遠く感じた。
時計の針が進む。カチ、カチ、カチ。麦茶が残り半分になった。窓の外の空が少しだけ色を変え始めている。帰らなきゃいけない時間が近づいている。
そろそろ、と立ち上がりかけたときだった。
奥から声が聞こえた。
高い声。元気な声。弾むような足音が廊下を近づいてくる。
「お姉ちゃーーん! 今日おかず何——」
椎名の目が見開いた。
眠そうな目が、一瞬で覚醒した。今まで見たことのない速度で。体が強張り、椅子から腰を浮かせ、リビングの入口を見据えた。
「——あれ? お客さん?」
足音が止まらない。ドタドタと。走っている。
椎名が俺を見た。
「……帰って」
声が低い。切迫している。何かを阻止しようとしている。
遅かった。
リビングの扉が開いた。




