表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
椎名さんは眠そうに笑う  作者: 雨宮 沙奈
隣の席は、呼吸の距離
27/55

第27話「二人分の屋根」


天気予報は晴れだった。


朝、スマホの天気アプリを確認した。晴れマーク。降水確率十パーセント。傘は要らない。だから持ってこなかった。


六限目が終わる頃、窓の外が暗くなった。


教室にいた全員が窓を見た。灰色の雲が西から一気に押し寄せている。五月の空が十秒で曇天に変わった。先生が「天気予報外れたな」と苦笑する。


チャイムが鳴って、帰り支度を始めた瞬間——降った。


豪快に降った。五月の通り雨。バケツをひっくり返したみたいな雨が、窓を叩いている。ガラス越しに校庭が白く霞んでいる。


昇降口。


靴を履き替えて、外を見る。土砂降り。コンクリートに跳ねる雨粒が白い飛沫を上げている。水たまりが三秒で出来上がっていく。


傘がない。走るか。この距離ならダッシュで十五分。ずぶ濡れにはなるが、死にはしない。


「……入る?」


横から声がした。


椎名が立っていた。折りたたみ傘を手に持っている。茶色い、小さい折りたたみ傘。開くと直径が五十センチあるかないか。明らかに一人用だ。


「入れるか? それ」


椎名が傘を見た。俺を見た。傘を見た。


「……たぬきは、一つの巣穴に四匹くらい入るの」


「俺たぬきじゃねえし、そもそもこの傘二人は——」


椎名がもう歩き始めていた。


傘を開いて、昇降口から踏み出した。雨の中に。小さい傘の下に小さい体が収まっている。そして傘が、少しだけ俺の方に傾いている。


待っている。


言葉で「来い」とは言わない。傘を傾けるだけ。それが椎名の招待状だった。


溜息を一つ。小さい傘の下に入った。


◇◇◇


狭い。


当然だ。一人用の折りたたみ傘に二人で入っている。傘の端が俺の肩の位置にあって、左肩はすでに傘からはみ出している。右肩だけが傘の中だ。


椎名は俺の右側にいる。小さい体が傘の下にすっぽり収まっている。二人で歩くと、肩が触れる。触れないようにすると傘から出る。傘から出ないようにすると肩が触れる。どうにもならない。


雨の音が近い。傘を叩く音。アスファルトに跳ねる音。排水溝に流れ込む水の音。五月の雨は力強い。冬の雨みたいにしんみりしていない。ざあざあと降って、地面を叩いて、跳ね返って、また落ちる。


歩く。肩が触れたまま。


椎名のスカートの裾が少し濡れている。足元を見ると、椎名のローファーが水たまりを避けている。足が小さい。一歩の幅が俺の半分くらいだ。水たまりを避ける動作が丁寧で、まるで地面の地図を読みながら歩いているみたいに見えた。


会話はほとんどない。雨の音が会話の代わりだ。


ざあざあと降っている。傘を叩く音が頭のすぐ上で鳴っている。布地に当たる雨粒の振動が、柄を通して手に伝わっていた。柄を持っているのは俺だ。いつの間にか持ち手を引き受けていた。椎名が差し出して、俺が受け取った。その順番がいつ決まったのか覚えていない。自然に。無言のうちに。


通学路のアスファルトが光っている。水が薄く膜を張っていて、灰色の空を映していた。電柱の影が水面に揺れる。靴の底が水を踏むたびに、ぱしゃ、ぱしゃ、と音がする。


左肩が濡れていく。ぽたぽたと雨粒が制服に染みていく。重くなっていくのが分かる。生地が水を吸って、体に張り付いてくる。冷たいかと言われれば冷たいが、五月の雨だ。真冬の雨みたいに体温を奪っていく感じはない。


時々、風が吹く。ぶわっと横殴りの風が来ると、傘がたわんで雨粒が斜めに入ってくる。椎名が小さく肩をすくめる。その動作で肩が当たる。ぶつかるのではなく、もたれかかるでもなく、ただ、触れる。一瞬。触れて、離れて、また歩く。


商店街のアーケードの下を通り過ぎた。一瞬だけ雨がやむ。屋根がある。でも三十メートルほどでアーケードは終わる。終わった瞬間、また雨。ざあっと降ってくる。


椎名の横顔が見えた。前を向いている。目が少しだけ細くなっている。雨の向こうを見ている。何を見ているのかは分からない。水たまりを避ける足元だけに集中しているのかもしれないし、もっと遠くの何かを見ているのかもしれない。


ふと気づいた。傘が俺の方に傾いている。自分が傾けていた。無意識に。椎名の方に雨が当たらないように、傘を右に寄せていた。そのぶん俺の左肩が丸々はみ出している。


椎名が横を見た。


「……きみ、濡れてる」


「大丈夫」


椎名が傘の柄を引っ張った。俺の方に傘を戻す。椎名の左肩が傘の外に出る。雨粒が制服の肩に落ちた。紺色の生地に、濃い染みが広がっていく。


「おい」


「……半分」


椎名が前を向いたまま言った。声が小さい。雨の音にほとんど消されている。でも聞こえた。「半分」。傘も、濡れることも、半分ずつ。


返す言葉が見つからなかった。


しばらく無言で歩いた。


肩が触れたまま。左の肩が濡れて、右の肩に椎名がいる。雨が降っているのに寒くない。五月の雨は温かい。気温が高いから。それだけだ。それだけのはずだ。


水たまり。大きいのが一つ、道の真ん中にあった。


椎名が止まった。道が狭い。水たまりの右側は塀で、左側は車道だ。避けるスペースがほとんどない。


「……こっち」


椎名が俺の腕を軽く引いた。引いた、というより、触れた。指先が袖にかかっただけだ。でもそれだけで方向が分かった。塀に沿って、ギリギリの幅を通る。二人並ぶと通れない。


椎名が先に行った。俺が後ろから傘を差す。椎名の背中が近い。小さい。制服の背中が雨に濡れていないのは、さっき俺が傘を傾けていたぶんだ。片側だけ乾いている。


水たまりを抜けた。また並んで歩く。肩の距離が、さっきより少し近い気がした。


住宅街に入った。このあたりから道が細くなる。塀と塀の間の道。雨で薄暗い。街灯がもう点いている。橙色の光が水たまりに落ちて、ゆらゆらと揺れていた。


椎名の家の近くだと分かった。門が増えてきた。表札が並んでいる。どの家も庭がある。鹿沼の住宅街は東京と違って、一軒一軒に空間がある。


分かれ道。


椎名が傘から出ようとした。半歩、外に。


「送ってく」


椎名が止まった。


「……大丈夫」


「お前の家こっちだろ。まだ雨降ってんだから」


椎名が俺を見た。雨が降っている。傘の下の椎名の顔は濡れていないが、向こう側の肩はしっかり濡れている。紺色の制服が、片側だけ色が濃くなっている。


少し考えている。椎名の目が左右に動く。逡巡。二秒くらい。


小さくうなずいた。


「……ありがとう」


ほとんど聞こえなかった。雨の音にかき消された。でも口の動きで分かった。唇が「ありがとう」の形をしていた。


◇◇◇


椎名の家は住宅街の奥にあった。普通の一軒家。門に表札。「椎名」。庭に花が咲いている。何の花かは分からないが、雨に打たれて花弁が揺れていた。


門の前で立ち止まる。


「ここ」


椎名がうなずく。傘を閉じる。折りたたむ。雨が二人の上に降る。ここまで来たらもういい、という椎名の判断だったのかもしれない。あるいは、傘の下の時間を終わらせたかったのかもしれない。


椎名が玄関に向かう。三歩。四歩。門から玄関までは短い。


五歩目で振り返った。


「……ありがとう」


二回目のありがとうだった。さっきと違って、雨の音が少し弱まっていた。声がちゃんと聞こえた。低くて小さくて、でもはっきりしていた。椎名の声だ。


目が合った。


椎名の目は濡れていない。傘の下にいたから。でも髪が少し濡れている。分かれ道で半歩出た時に雨がかかったのかもしれない。前髪の先端に水滴がついていて、それが夕方の薄い光を受けて光っていた。


「おう。また明日」


椎名が小さくうなずいて、玄関に入った。ドアが閉まる。


一人になった。


傘は椎名のものだから返した。手が空になっている。雨が降っている。


走ればいい。家までダッシュで十五分。制服はもう片側が濡れている。今更走ったところで大差ない。


走らなかった。


歩いて帰った。雨の中を。


傘がない。頭から雨を浴びている。前髪が額に張り付く。制服の肩が両方とも濡れていく。左肩は前から濡れていた。右肩が追いついた。これで均等だ。


商店街を通る。アーケードの下に入ると、一息つけた。雨から解放される三十メートル。靴の底から水がしみ出している。靴下がぐしょぐしょだ。あとで乾かさないと。


アーケードの下を歩きながら、考える。


さっきの「半分」を思い返す。


傘も、濡れるのも、半分ずつ。自分だけ濡れない位置にいようと思えばできたはずなのに、椎名はそうしなかった。


アーケードが終わった。また雨。もう気にしない。どうせ全身濡れている。


雨が弱くなってきた。通り雨だ。さっきの勢いが嘘みたいに、しとしとと小降りになっていく。空の隅が明るくなっている。雲が切れかけている。もう少しすれば止むだろう。


学校で雨宿りしていれば、濡れずに済んだ。三十分待てば止んだ。


でも、待たなかった。


椎名が傘を差し出して、俺が入って、肩を触れ合わせながら歩いた。水たまりを避けて、商店街を抜けて、住宅街に入って——あの十五分は、雨宿りの三十分より——


よほど面倒だった。


そう思った時点で、もうだいぶ手遅れな気がして、考えるのをやめた。


家に着いて、濡れた制服を脱いで、タオルで髪を拭いた。鏡に映った自分の顔は、雨でぐしょ濡れの情けない顔だ。前髪が貼りついて額が丸出しになっている。


左肩の布地が水を吸って重くなっていた。右肩は軽い。


軽い方の肩に、二日前の記憶と今日の記憶が重なっていた。


こてん、と頭が乗った日。そして今日、肩が触れ続けた十五分。


右肩ばかり忙しい。


洗濯機に制服を放り込みながら、そう思った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ