第27話「二人分の屋根」
天気予報は晴れだった。
朝、スマホの天気アプリを確認した。晴れマーク。降水確率十パーセント。傘は要らない。だから持ってこなかった。
六限目が終わる頃、窓の外が暗くなった。
教室にいた全員が窓を見た。灰色の雲が西から一気に押し寄せている。五月の空が十秒で曇天に変わった。先生が「天気予報外れたな」と苦笑する。
チャイムが鳴って、帰り支度を始めた瞬間——降った。
豪快に降った。五月の通り雨。バケツをひっくり返したみたいな雨が、窓を叩いている。ガラス越しに校庭が白く霞んでいる。
昇降口。
靴を履き替えて、外を見る。土砂降り。コンクリートに跳ねる雨粒が白い飛沫を上げている。水たまりが三秒で出来上がっていく。
傘がない。走るか。この距離ならダッシュで十五分。ずぶ濡れにはなるが、死にはしない。
「……入る?」
横から声がした。
椎名が立っていた。折りたたみ傘を手に持っている。茶色い、小さい折りたたみ傘。開くと直径が五十センチあるかないか。明らかに一人用だ。
「入れるか? それ」
椎名が傘を見た。俺を見た。傘を見た。
「……たぬきは、一つの巣穴に四匹くらい入るの」
「俺たぬきじゃねえし、そもそもこの傘二人は——」
椎名がもう歩き始めていた。
傘を開いて、昇降口から踏み出した。雨の中に。小さい傘の下に小さい体が収まっている。そして傘が、少しだけ俺の方に傾いている。
待っている。
言葉で「来い」とは言わない。傘を傾けるだけ。それが椎名の招待状だった。
溜息を一つ。小さい傘の下に入った。
◇◇◇
狭い。
当然だ。一人用の折りたたみ傘に二人で入っている。傘の端が俺の肩の位置にあって、左肩はすでに傘からはみ出している。右肩だけが傘の中だ。
椎名は俺の右側にいる。小さい体が傘の下にすっぽり収まっている。二人で歩くと、肩が触れる。触れないようにすると傘から出る。傘から出ないようにすると肩が触れる。どうにもならない。
雨の音が近い。傘を叩く音。アスファルトに跳ねる音。排水溝に流れ込む水の音。五月の雨は力強い。冬の雨みたいにしんみりしていない。ざあざあと降って、地面を叩いて、跳ね返って、また落ちる。
歩く。肩が触れたまま。
椎名のスカートの裾が少し濡れている。足元を見ると、椎名のローファーが水たまりを避けている。足が小さい。一歩の幅が俺の半分くらいだ。水たまりを避ける動作が丁寧で、まるで地面の地図を読みながら歩いているみたいに見えた。
会話はほとんどない。雨の音が会話の代わりだ。
ざあざあと降っている。傘を叩く音が頭のすぐ上で鳴っている。布地に当たる雨粒の振動が、柄を通して手に伝わっていた。柄を持っているのは俺だ。いつの間にか持ち手を引き受けていた。椎名が差し出して、俺が受け取った。その順番がいつ決まったのか覚えていない。自然に。無言のうちに。
通学路のアスファルトが光っている。水が薄く膜を張っていて、灰色の空を映していた。電柱の影が水面に揺れる。靴の底が水を踏むたびに、ぱしゃ、ぱしゃ、と音がする。
左肩が濡れていく。ぽたぽたと雨粒が制服に染みていく。重くなっていくのが分かる。生地が水を吸って、体に張り付いてくる。冷たいかと言われれば冷たいが、五月の雨だ。真冬の雨みたいに体温を奪っていく感じはない。
時々、風が吹く。ぶわっと横殴りの風が来ると、傘がたわんで雨粒が斜めに入ってくる。椎名が小さく肩をすくめる。その動作で肩が当たる。ぶつかるのではなく、もたれかかるでもなく、ただ、触れる。一瞬。触れて、離れて、また歩く。
商店街のアーケードの下を通り過ぎた。一瞬だけ雨がやむ。屋根がある。でも三十メートルほどでアーケードは終わる。終わった瞬間、また雨。ざあっと降ってくる。
椎名の横顔が見えた。前を向いている。目が少しだけ細くなっている。雨の向こうを見ている。何を見ているのかは分からない。水たまりを避ける足元だけに集中しているのかもしれないし、もっと遠くの何かを見ているのかもしれない。
ふと気づいた。傘が俺の方に傾いている。自分が傾けていた。無意識に。椎名の方に雨が当たらないように、傘を右に寄せていた。そのぶん俺の左肩が丸々はみ出している。
椎名が横を見た。
「……きみ、濡れてる」
「大丈夫」
椎名が傘の柄を引っ張った。俺の方に傘を戻す。椎名の左肩が傘の外に出る。雨粒が制服の肩に落ちた。紺色の生地に、濃い染みが広がっていく。
「おい」
「……半分」
椎名が前を向いたまま言った。声が小さい。雨の音にほとんど消されている。でも聞こえた。「半分」。傘も、濡れることも、半分ずつ。
返す言葉が見つからなかった。
しばらく無言で歩いた。
肩が触れたまま。左の肩が濡れて、右の肩に椎名がいる。雨が降っているのに寒くない。五月の雨は温かい。気温が高いから。それだけだ。それだけのはずだ。
水たまり。大きいのが一つ、道の真ん中にあった。
椎名が止まった。道が狭い。水たまりの右側は塀で、左側は車道だ。避けるスペースがほとんどない。
「……こっち」
椎名が俺の腕を軽く引いた。引いた、というより、触れた。指先が袖にかかっただけだ。でもそれだけで方向が分かった。塀に沿って、ギリギリの幅を通る。二人並ぶと通れない。
椎名が先に行った。俺が後ろから傘を差す。椎名の背中が近い。小さい。制服の背中が雨に濡れていないのは、さっき俺が傘を傾けていたぶんだ。片側だけ乾いている。
水たまりを抜けた。また並んで歩く。肩の距離が、さっきより少し近い気がした。
住宅街に入った。このあたりから道が細くなる。塀と塀の間の道。雨で薄暗い。街灯がもう点いている。橙色の光が水たまりに落ちて、ゆらゆらと揺れていた。
椎名の家の近くだと分かった。門が増えてきた。表札が並んでいる。どの家も庭がある。鹿沼の住宅街は東京と違って、一軒一軒に空間がある。
分かれ道。
椎名が傘から出ようとした。半歩、外に。
「送ってく」
椎名が止まった。
「……大丈夫」
「お前の家こっちだろ。まだ雨降ってんだから」
椎名が俺を見た。雨が降っている。傘の下の椎名の顔は濡れていないが、向こう側の肩はしっかり濡れている。紺色の制服が、片側だけ色が濃くなっている。
少し考えている。椎名の目が左右に動く。逡巡。二秒くらい。
小さくうなずいた。
「……ありがとう」
ほとんど聞こえなかった。雨の音にかき消された。でも口の動きで分かった。唇が「ありがとう」の形をしていた。
◇◇◇
椎名の家は住宅街の奥にあった。普通の一軒家。門に表札。「椎名」。庭に花が咲いている。何の花かは分からないが、雨に打たれて花弁が揺れていた。
門の前で立ち止まる。
「ここ」
椎名がうなずく。傘を閉じる。折りたたむ。雨が二人の上に降る。ここまで来たらもういい、という椎名の判断だったのかもしれない。あるいは、傘の下の時間を終わらせたかったのかもしれない。
椎名が玄関に向かう。三歩。四歩。門から玄関までは短い。
五歩目で振り返った。
「……ありがとう」
二回目のありがとうだった。さっきと違って、雨の音が少し弱まっていた。声がちゃんと聞こえた。低くて小さくて、でもはっきりしていた。椎名の声だ。
目が合った。
椎名の目は濡れていない。傘の下にいたから。でも髪が少し濡れている。分かれ道で半歩出た時に雨がかかったのかもしれない。前髪の先端に水滴がついていて、それが夕方の薄い光を受けて光っていた。
「おう。また明日」
椎名が小さくうなずいて、玄関に入った。ドアが閉まる。
一人になった。
傘は椎名のものだから返した。手が空になっている。雨が降っている。
走ればいい。家までダッシュで十五分。制服はもう片側が濡れている。今更走ったところで大差ない。
走らなかった。
歩いて帰った。雨の中を。
傘がない。頭から雨を浴びている。前髪が額に張り付く。制服の肩が両方とも濡れていく。左肩は前から濡れていた。右肩が追いついた。これで均等だ。
商店街を通る。アーケードの下に入ると、一息つけた。雨から解放される三十メートル。靴の底から水がしみ出している。靴下がぐしょぐしょだ。あとで乾かさないと。
アーケードの下を歩きながら、考える。
さっきの「半分」を思い返す。
傘も、濡れるのも、半分ずつ。自分だけ濡れない位置にいようと思えばできたはずなのに、椎名はそうしなかった。
アーケードが終わった。また雨。もう気にしない。どうせ全身濡れている。
雨が弱くなってきた。通り雨だ。さっきの勢いが嘘みたいに、しとしとと小降りになっていく。空の隅が明るくなっている。雲が切れかけている。もう少しすれば止むだろう。
学校で雨宿りしていれば、濡れずに済んだ。三十分待てば止んだ。
でも、待たなかった。
椎名が傘を差し出して、俺が入って、肩を触れ合わせながら歩いた。水たまりを避けて、商店街を抜けて、住宅街に入って——あの十五分は、雨宿りの三十分より——
よほど面倒だった。
そう思った時点で、もうだいぶ手遅れな気がして、考えるのをやめた。
家に着いて、濡れた制服を脱いで、タオルで髪を拭いた。鏡に映った自分の顔は、雨でぐしょ濡れの情けない顔だ。前髪が貼りついて額が丸出しになっている。
左肩の布地が水を吸って重くなっていた。右肩は軽い。
軽い方の肩に、二日前の記憶と今日の記憶が重なっていた。
こてん、と頭が乗った日。そして今日、肩が触れ続けた十五分。
右肩ばかり忙しい。
洗濯機に制服を放り込みながら、そう思った。




