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椎名さんは眠そうに笑う  作者: 雨宮 沙奈
隣の席は、呼吸の距離
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第26話「五センチが遠い」


翌日。


教室に入ると、椎名はもう席にいた。


いつもなら机に突っ伏しているか、窓の外をぼんやり見ているかのどちらかだ。でも今日は違った。背筋が伸びている。姿勢がいい。妙にいい。教科書を開いて、シャーペンを手に持って、ノートに何か書いている。真面目な学級委員の姿だ。完璧だ。


完璧すぎて不自然だ。


席に着く。椎名の椅子が、いつもの位置より少しだけ——五センチくらい——左にずれていた。俺から離れる方向に。


五センチ。測ったわけじゃない。でも感覚で分かる。椎名との間の空気が、昨日までと違う。微かに広い。


椎名がこっちを見た。


「……おはよ」


声が硬い。目が合ったのは一瞬で、すぐにノートに戻った。


「おう」


俺の声も硬い。自覚がある。「おう」の二文字が、いつもより重い。口の中で転がってから出てきた。


昨日まではなかった五センチが、妙に大きかった。


結衣が教室に来た。


ドアをバンと開けて、鞄を投げるように自分の席に置いて、真っ直ぐこっちに歩いてくる。目が輝いている。朝からテンションが高い。いや、結衣は朝からテンションが高い生き物だ。でも今日は更にギアが入っている。


「昨日の!」


声がデカい。教室に響く。三列先の生徒が振り返った。


「アレ! 今日だけ教室の空気変わりすぎじゃない!?」


椎名のシャーペンが滑った。ノートに線が走る。まっすぐな黒い線が、ページを横断した。


俺は「やめろ」と即座に返したが、結衣は止まらない。


「だって! 肩で寝るとかもう完全にそういうことでしょ! ねえ凛!」


凛が席に座って鞄を開けながら「朝からうるさいよ結衣」と穏やかに返した。凛の穏やかさは結衣のブレーキにならない。むしろ「止められてない」と解釈される。

「で? 国境線ひき直したの誰?」

「美咲も見たでしょ!?」

「何だよそれ」

美咲が「え、私五限のとき寝てたから最後のほう見ただけ……」と正直に答える。結衣が「見たんじゃん!」と食いつく。美咲が「千沙ちゃんがすっごい赤くなってたのは見た」と追い討ちをかけた。


椎名が机の上で固まっている。シャーペンを握ったまま、線が走ったノートの上で停止している。


◇◇◇


一限目。英語。


椎名が、俺の方に傾かないように意識している。


姿勢がいい。異常にいい。骨格の模型みたいに背筋が伸びている。いつもの椎名は猫背気味で、肘をついて、少し前傾で、だから眠そうに見える。それが今日は、まるで別人だ。肩が開いている。顎を引いている。首が真上に伸びている。

「……違う。……そんな線、引いてない」

何なら少し左に傾いている。俺と反対の方向に。重力に逆らって。


俺は逆に、椎名の方を見ないようにしていた。視界の右端を遮断する。黒板を見る。ノートを見る。先生を見る。右を見ない。


でも、視界の右端に椎名がいる。完全には消えない。姿勢がいいぶん、存在感がある。背筋の伸びた椎名は、いつもの椎名より少し背が高く見える。


お互いが意識しすぎて、逆にぎこちない。


昨日までは隣にいるのが自然だった。空気みたいに当たり前だった。それが今日は、隣にいること自体が緊張する。五センチの隙間が、五メートルの崖みたいに感じる。


消しゴムのカスが来ない。いつもなら国境を越えてくる白い粒が、今日は一粒も来ない。椎名が消しゴムを使っていないのか、使っているけどカスが出ないくらい精密に動かしているのか。たぶん後者だ。消しカスが越境したら、昨日の距離を思い出す。椎名はそれを避けている。


でも避ければ避けるほど、いつもそこにあったものの形だけがはっきりする。


先生の声が、遠い。黒板に英文が書かれている。現在完了形。have been。ずっと続いている状態を表す時制。今の俺と椎名の状態にも時制があるなら、何だろう。現在進行形か。意識しているという動作が、今この瞬間も続いている。


二限目の休み時間。航が後ろから紙切れを投げてきた。


丸めた紙が俺の机に転がる。開く。航の字。丸くてだるそうな字。


『距離バグってんぞ』


一言だけ。


振り返ると、航がだるそうに顎を上げた。「見りゃわかる」と言いたげな顔。それだけで終わり。解決策は提示しない。問題の指摘だけして、あとは放置。航らしい。


紙をポケットに入れた。


◇◇◇


昼休み。六人。


結衣が開始三十秒で切り込んだ。


「で? 今朝の五センチ何?」


「何が」


「ちさの椅子。明らかに左に逃げてた」


「見るでしょそこ!?」と美咲が笑う。


「見なくていいとこ見てんな」


「千沙は?」


椎名が弁当を開けながら、小さく答えた。


「……違う」


声が小さい。いつもより更に小さい。弁当の蓋を見つめている。卵焼きが三切れ。ちくわの磯辺揚げ。プチトマト。視線が卵焼きに固定されている。


美咲が首を傾げた。「でもさ、千沙ちゃんが肩に寝るって相当じゃない? 普通そんなことしなくない?」


椎名が箸を持ったまま答えた。「……寝落ちしただけ」


凛が静かに麦茶のパックを机の中央へ置いた。「暑いし、眠くはなるよね」


椎名が小さくうなずいた。髪が揺れた。助かった時の動きだった。


結衣はまだ言い足りなさそうに口を開きかけたが、航がその前に弁当箱の蓋で軽く机を鳴らした。


「食え。昼休み終わる」


珍しくそれで止まった。結衣が「むー」と不満そうに座り直す。美咲が笑いを噛み殺している。


空気が少し緩んだ。


でも、完全には消えなかった。近くの席の男子が、俺が消しゴムを落としただけで「今のも肩案件?」と小声で笑う。別の女子が椎名の椅子の位置を見て、何も言わずに目だけ動かす。


笑い話に流れている。でも、教室全体があの五限を覚えている。


椎名の姿勢が少しだけ元に戻った。


背筋の角度が、五度くらい緩んだ。骨格の模型から、ぎりぎり人間に戻った。猫背には程遠いけど、朝の異常な姿勢よりはマシだ。


朝よりは少しだけ近かった。それで十分だった。


弁当の蓋を閉めながら、椎名が言った。


「……あのさ」


「ん?」


「昨日の……あれは、本当に寝落ちだから」


声が小さい。目が合わない。弁当の蓋に向かって喋っている。


「……わかってる」


「……うん」


それだけだった。それだけで良かった。言い訳なのか確認なのか分からないけど、椎名がそれを口にしたこと自体が、壁を薄くした。


◇◇◇


放課後。


帰り支度。教科書を鞄に入れる。ペンケースを仕舞う。椎名も同じことをしている。隣で、並行して、帰り支度。


立ち上がる。


椎名が立ち上がる。


鞄を持つ。


椎名が鞄を持つ。


廊下に出る。


椎名が、自然に——本当に自然に——隣に並んだ。


五センチが消えた。


朝からずっとあった距離が、帰り支度の間に消えた。椎名が意識して詰めたのか、無意識に戻ったのか、分からない。でも隣にいる。いつもの距離に。肩は触れていないけど、手を伸ばせば届く距離に。


二人とも何も言わない。


昨日のことには触れない。肩に寝たことも、結衣に騒がれたことも、朝の五センチのことも。言葉にしない。なかったことにするわけでもない。ただ、言葉にしないまま、隣を歩く。


昇降口で靴を履き替えている時、結衣が少し離れたところからこっちを見ていた。何も言わない。ただ、にやっとした。航はその視線ごと見ていたくせに、わざわざ口を挟まなかった。


昇降口で靴を履き替えた。外に出る。五月の夕方。日が長い。空がまだ青い。


並んで歩く。いつもの帰り道。


昨日のことは消えていない。右肩が覚えている。


それだけじゃない。教室の空気も覚えてしまっている。


でも五センチは消えた。


分かれ道で椎名が足を止めた。こっちを見る。


「……じゃあね」


いつもの調子だった。戻った、というより、戻そうとしている声。


距離が、戻った。


「おう」


椎名が右に曲がる。俺は左に行く。背中は見送らない。今日は、さっさと歩き出した。


右肩の記憶は消えていない。


教室だって、たぶん消していない。


明日、結衣が黙っている気はしなかった。


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