第25話「安心すると眠くなる」
五月中旬。午後。
五限目の現代文。教室が暑い。窓を全開にしても風がない。五月の中旬にしては異常な気温で、天井の扇風機が「中」になっていた。カタカタカタカタ、と休みなく首を振っている。
先生が教壇で太宰治の話をしている。走れメロスの解説。「メロスは激怒した」から始まって、友情と信頼を語っている。声が穏やかで、眠気を誘う種類の声だ。教室の半分が舟を漕いでいる。後ろの席では航が完全に目を閉じている。
椎名がいつにも増して眠そうだった。
いつも眠そうだが、今日は度を超えている。目が八割閉じている。瞼が重力に負けている。シャーペンを握ったまま手が止まっていて、ノートには途中で途切れた文字が残っている。「メロスは激怒し」で終わっていた。「た」を書く前に意識が飛びかけている。
俺は板書を写しながら、視界の端で椎名を見ていた。
首が傾いていく。
ゆっくりと。本当にゆっくりと。振り子が揺れるみたいに、椎名の頭が右に——俺の方に——傾いていく。一度少しだけ戻って、また傾いて。目が完全に閉じている。
三回目の傾きで、戻らなくなった。
——来る。
椎名の頭が、俺の肩に乗った。
こてん、と。
軽い。
思っていたより、ずっと軽い。頭の重さが肩に伝わる。小さくて、肩の上にちょこんと乗っている。
髪が制服の肩口に広がった。黒い。さらさらしている。毛先が首に触れている。くすぐったい。首筋の産毛が髪の先端を感知して、全身に微電流が走った。
匂い。
シャンプーの匂い。何のシャンプーかは分からない。花みたいな、果実みたいな、でもどちらでもない、柔らかい匂い。消しゴムの匂いとは違う。もっと近い匂いだった。
体温。
低い。椎名はいつも冷たい。指先が冬みたいに冷たいことは知っていた。肩に乗った頭も、思ったほど温かくない。なのに、そこだけ妙に意識に引っかかった。椎名が、ここにいる。
心臓が、うるさい。
急に跳ね上がった。胸の左側で、何かが暴れている。ドクンドクンドクンと規則を失ったリズムが耳の奥に響く。こんなに心臓の音がデカいのは久しぶりだ。椎名に聞こえるんじゃないかと思ったが、椎名は寝ている。完全に。呼吸が規則正しい。
動けない。
動いたら起きる。肩を動かしたら頭がずれる。ずれたら椎名が目を覚ます。目を覚ましたら——この状態が終わる。
板書が進んでいる。先生がメロスの中盤を解説している。ノートを取らなきゃいけない。右手にシャーペンを持っている。右肩に椎名がいる。右手を動かすと右肩が動く。右肩が動くと椎名が起きる。
左手でペンを持ち替えた。
書く。字が壊滅的だ。左利きでもないのに左手で板書を写すのは物理的に無理がある。「メロスは」の「ロ」が「ワ」みたいになった。「激怒」の「激」は象形文字だ。
諦めた。ペンを置く。
先生の声が遠くなっていく。教室のざわめきが遠くなっていく。世界が狭くなる。右肩の、椎名の頭の重さだけが近い。
呼吸を数える。椎名の呼吸。吸って、吐いて、吸って、吐いて。穏やかなリズム。完全に安心して眠っている。
肩の上で、椎名の睫毛が閉じている。長い。頬に影を落としている。口が少し開いている。唇の隙間から微かに息が漏れている。その息が俺の首筋にかかる。
右手の小さい手がまだシャーペンを握っていた。眠ったまま離さない。ノートの上に手がある。「メロスは激怒し」の続きを書こうとして、書けないまま止まった手。
後ろの席から視線を感じた。結衣だ。見なくても分かる。ニヤニヤしている。気配でニヤニヤが伝わってくる。航は——黙っている。沈黙の種類が「寝ている沈黙」から「何か見てしまった沈黙」に変わった。凛はちらっとだけ視線を送って、何事もなかったように前を向いた。
十分。
椎名は起きない。
教室の時計の秒針が動く音が聞こえる。カチ、カチ、カチ。一秒が長い。三十秒が五分に感じる。十分はもう永遠だ。
永遠が、終わった。
◇◇◇
チャイムが鳴った。
椎名の肩が動いた。
目が開く。ゆっくりと。瞼が持ち上がる。薄い茶色の瞳がぼんやりと世界を映す。一瞬、自分がどこにいるかわからない顔をしていた。焦点が合わない。天井を見て、黒板を見て、自分の手を見て。
視線が右にずれる。
俺の肩がある。
自分の頭があった場所がある。
椎名の顔が——
赤い。
耳だけじゃなかった。頬が赤い。首まで赤い。見たことのない赤さだった。
「ごっ——」
椎名が姿勢を正した。椅子がガタッと鳴る。机が揺れる。シャーペンが転がって床に落ちた。カラン、という音が教室に響いた。
「ご、……ごめ、……」
声が出ていない。出そうとしているのに出ない。喉が詰まっている。両手で自分の顔を覆おうとして、髪がそのまま前に垂れた。前髪で全部隠れた。耳だけが、髪の隙間から見えている。赤い。真っ赤だ。
俺は何を言えばいいかわからなかった。
肩がまだ、温かい。椎名は冷たかったはずだ。体温が低い人間の頭だったはずだ。なのに、十分間肩に乗っていた場所が温かい。椎名の体温が移ったのか、俺の体温が椎名を温めたのか、分からない。
「……別に」
声がかすれた。何をやってるんだ。自分の声がおかしい。低くてざらついている。
椎名がうつむいたまま何かぼそぼそ言っている。聞き取れない。たぶん謝っている。たぶん「たぬきは」で始まる何かを言おうとして失敗している。言葉が組み立てられていない。
後ろから結衣の声がした。
「ちさーーー! 今の何!? やばくない!?」
教室中に響く声量。デリカシーの概念がない。椎名がさらに縮んだ。机に突っ伏す勢いで顔を伏せた。
航が「結衣うるせえ」と低く言った。凛がクスッと笑った。美咲が「何があったの!?」と遅れて参入する。結衣が「千沙が藤原の肩で寝てた!」と実況する。美咲が「えっ!?」と叫ぶ。
椎名は机に突っ伏したまま動かない。耳の赤さだけが、髪の隙間から訴えていた。
◇◇◇
帰り道。一人。
椎名は文芸部に行った。帰り際に目が合った。一瞬だけ。椎名が先に逸らした。逸らす速度が尋常じゃなかった。目が合って零コンマ何秒で横を向いた。首が折れるんじゃないかと思うくらい勢いよく。
通学路を歩く。一人。いつもの道。五月の夕方。空がまだ明るい。日が長くなった。
右肩のこと。
椎名の髪の匂い。体温。呼吸のリズム。睫毛の長さ。シャーペンを握ったままの小さい手。
全部覚えている。感覚が全部拾ってしまった。抗えないくらい鮮明に、右肩が記憶している。
「……椎名の頭、軽かったな」
口に出してみた。それしか言葉にならなかった。事実だ。軽かった。それは嘘じゃない。
でもそれ以外のことが、上手く言葉にならない。心臓がうるさかったこと。動けなかったこと。十分が永遠だったこと。チャイムが鳴った時に、どこかで——本当にどこかで——「もう少し」と思ったこと。
——思ってない。思ってないだろ。
肩に残る感触を、腕を回して確認した。何もない。当たり前だ。椎名はもうここにいない。
でも手が肩に行く。何度も。歩きながら、右手が右肩に触れる。癖みたいに。無意識に。
夜。
部屋の電気をつけて、スマホを開く。
椎名からLINEが来ていた。
『……今日は……すみませんでした』
いつもの砕けた口調じゃなかった。「すみませんでした」だ。敬語だ。かしこまっている。椎名が俺に敬語を使ったのは初めてかもしれない。
『気にするな』
送った。既読がついた。
入力中のマークが出た。消えた。また出た。消えた。
椎名が何か打っては消している。画面の向こうで、文字を打って、読み返して、消して、また打っている。その繰り返しが見える。見えないけど、見える。
長い沈黙。
三分くらい経って、メッセージが来た。
『……たぬきは、安心すると眠くなるの』
スマホを見つめた。
昼の右肩が、遅れてそこに届いた気がした。
何を返せばいいのかわからなかった。指が動かない。「そうか」は冷たい。「よかった」は何が。「俺も」は——俺も何だ。
考えて、考えて、結局打ったのは。
『たぬきが風邪ひかないように気をつけろ』
意味不明だ。自分でも何を言っているのかわからない。でも送った。
既読。
少し間があって。
『……やさしい』
それだけだった。
スマホを置いて、天井を見た。
右肩が、まだ温かかった。




