◆79◆
「もう駄目です。心がかき乱されてしまい、武芸修行に身が入りません。今この時を以て、道場から籍を抜かせて頂きます」
手に道場宛ての郵便物を握り締めたレットが、自分の生前墓の上に横になって片肘を突き、景色を楽しんでいたセンガ老人に、憔悴しきった顔で言う。
「またか。もう聞き飽きたわ。で、郵便局へ行ってゲルンの顔を見る度に、その決心を翻すんじゃからのう」
センガはゆっくり起き上がって、あくびをした。
「あの人の顔を見ると、どうしても決心が鈍ります。だから、今度は黙って村を出て行くつもりです」
「顔を見なけりゃ見ないで、気になって仕方がなくなるぞ。既にお前さんの心は、強力なゴム紐であの娘さんと繋がっておる様なもんじゃ。遠ざかれば遠ざかる程、引っ張られる力は大きくなる。ま、座れ」
レットは言われるまま、センガの隣に座った。
「ワシはのう、お前さん達の事について口出しするつもりは毛頭ない」
「もちろん、センガさんにお手数をかけるつもりはありません。ただ、最後のご挨拶にと」
「と、思っておったが、どうもゲルンも猟師としてはまだまだ未熟らしい。手負いにしたはいいが、トドメの一発を撃ち込めぬまま、山中で獲物を見失いかけておる状態じゃ。このままではいずれ、獲物も猟師も疲れ果てて倒れてしまう」
「良く分からない例え話をされても困るのですが」
「こんなに分かり易い例え話はないがの。ともかく、少しだけお前さんを助けてやろう。チマー夫妻の事は知っておるな?」
「はい、リコルドが下宿していた家の老夫婦ですが」
「二人共七十代半ばを迎え、いよいよ息子夫婦の招きに応じて、村を出て行くつもりらしい」
「良い話だと思います」
「そうなると、残った土地家屋をどう処分するかが問題になる」
「売却すれば良いでしょう」
「そう。じゃから、お前さんがそれを買え」
熊は一瞬絶句した後、
「無理です。そんな財力はありません。もしあったら、こんなに悩んではいません」
「ワシから金を借りて買え。返済については無利子で五十年の分割払いにしてやる。月々にして六百分の一じゃ」
「そんな、いきなり言われましても」
「そして、この借金について、ワシは条件を付ける。お前さんが結婚した時点で、残りの借金をチャラにする、とな」
「どういう事です?」
「残りの借金額を、そっくり御祝儀に充てるのじゃよ。エディリアの法律では、結婚祝いは非課税じゃ」
「法律の事は良く分からないのですが」
「要するに」
センガ老人は墓から立ち上がって、近くに落ちていた棒きれを拾い、地面に図を描いて説明をし始めた。
「ワシはかつて、ヴォーンに月謝の前払いとして、あの道場を物納した。それと同様に今回、お前さんに結婚祝いとして、家を前渡しすると言っておるんじゃよ。
「この条件では、早く結婚すればそれだけ御祝儀の額は増えるし、遅くなればそれだけ額は減る。結婚せずに終われば、もちろん御祝儀はゼロで、お前さんは借金を全額返済する事になる。
「ともかく持家があれば、少しは結婚に対する自信が付くじゃろ?」
「はあ」
あっけにとられた熊が頷く。
「後は定職じゃな。この先、村と都市部を結ぶ流通網の充実が、絶対に必要になって来るとワシは睨んでおる。主にネット通販の拡大によってのう。じゃから、運送業をやってみてはどうじゃ? 必要資金は出してやるから」
「ありがたいお話ですが、その、突然の事で」
「当然、職に就けば、今までの様な武芸三昧は出来なくなる。じゃが、まるっきり道場に通えなくなる訳でもない。空いた時間を利用して、趣味として続けるがいい。当面は、ゲルンを嫁に迎える事を人生の目標として頑張れ。そうすれば」
センガはにやりと笑い、
「少なくとも、考えてもどうにもならん事を、くよくよ気に病む事は無くなる」
熊は思考が追い付かない様子で、センガをぽかんとした顔で見つめていた。
「いっぺんに言っても無理じゃな。ゆっくり考えるがいい」
熊に芸を仕込むのも根気が要る。




