◆77◆
道場宛ての郵便物を預かる為、レットがゲルンとほぼ毎日顔を合わせる様になってから、約二週間が過ぎた。
「のう、ゲルン。あまりウチの熊を苛めてやらんでくれんかのう。日に日にやつれて行くのが目に見えて可哀想なんじゃが」
センガ老人が、郵便局の裏手にゲルンを呼び出して立ち話をしている。
「苛めてませんよ? むしろ楽しくやってます」
元気な新人局員ゲルンは、ケロッとした顔でそう言ってから、ニンマリと笑った。
「お前さんにとっては楽しいお遊戯でも、あの熊にとっては人生の一大事なんじゃ。昨晩も、『もう耐えられません。今度こそ本当に道場をやめます』と、悲愴な表情で訴えて来てのう。知らん振りは無しじゃ。もう少し考えてやって欲しい。もしその気が無いのなら、いっそ思わせ振りな事は」
「あははは、おじいさん。熊を仕留めた事はありますか?」
「野生の熊か? もちろん無いが。いくらワシでも熊は無理じゃ。死ぬ」
「素手じゃなくて、猟の話です」
「それも無い。ああ、そう言えば、お前さんは猟師の孫じゃったの」
「小さい頃は、祖父から良く猟の話を聞かされました」
「ほう、熊も仕留めたのか?」
「はい、祖父が言うには、『熊は体が大きくて頑丈で力があるが、本当は非常に臆病な動物だ』と」
「ああ、じゃから、熊避けにはラジオを鳴らしておくと良いそうじゃな」
「大きな音を出すと、向こうからこちらを避けてしまうらしいですね。それに銃で撃っても頑丈だから、一発で上手く仕留められずに、逃げられてしまう事も良くあったとか」
「ちょっと待て。熊猟の話は良いとして、お前さんは何が言いたい?」
「熊さんを仕留めるのは、そう簡単じゃないって話です。しっかり準備を整えて、現れるのを辛抱強く待って、良く狙いを定めて撃って、手負いになったのをどこまでもどこまでも追って行って、最後にトドメの一発を撃ち込むまでは、一瞬たりとも気が抜けません」
「要するに、お前さんもレットの事を」
「そんな事言ったら、熊さんは気が動転して逃げちゃいますよ。臆病ですから。今は自分の気持ちを、じっくりと自覚してもらうだけで十分です」
「ふむ。一理あるかも知れんの」
「だから、センガおじいさん。手負いの熊さんの事は私に任せて下さい。確実に仕留めたいんです。逃がしたくないんです」
目を生き生きとさせてゲルンが懇願する。センガはため息をつき、
「そうじゃな。元より、外野がやいのやいの言う事ではなかった。お前さん達の問題は、お前さん達が解決するのがスジじゃ。好きにせい」
「はい。時間はかかっても、最後は必ず仕留めてみせます」
そこで話が終わり、ゲルンは窓口に戻り、センガは郵便局を後にした。
「恐ろしい娘さんじゃ。手負いにするのも計算ずくとはの。じゃがしかし」
センガは立ち止まって、郵便局の方を振り返り、
「あのヘタレ熊は、中々覚悟を決められんぞ。こりゃ、ワシが生きている間に、二人の結婚式には出られないかも知れんのう」
熊の苦難はまだまだ続く。




