第十五羽 名前
少女は差し出した手を止めたまま、ルカをじっと見つめていた。まるで目の前で起きた出来事が信じられないと言うように、その瞳だけが小さく揺れている。
『ヒナが・・・しゃべった』
キソのその呟きで、ルカもようやく現実へ引き戻された。
さっき自分の口から飛び出したのは、間違いなく鳥の鳴き声ではない。頭で思い浮かべた言葉が、そのまま人間だった頃と同じように口から出ていた。
(うそだろ・・・)
半信半疑のままくちばしを何度か開いたり閉じたりしてみる。
『えっと・・・』
やっぱり喋れた。しかも普通に。
『おれ今・・・本当に喋った?』
自分の声に一番驚いているのは琉夏自身だった。訳も分からず嘴へ翼を当てたまま固まっていると、少女は恐る恐る一歩だけ近付いてくる。
『わたし、キソ。あなたは、だれ?』
その問いに、ルカは思わず固まった。
(いや・・・そんなこと言われても、おれが聞きたいんだけど!?)
頭の中ではそう叫んだものの、口から出たのは別の言葉だった。
『その前に、さ・・・』
キソは首を傾げる。
『おれのこと、食べないよね?』
『・・・?』
『さっき見てたから!あのでっかいヒナ、すぱーんってやってたの見てたから!次、おれの番じゃないよね!?』
キソはきょとんとした顔のまま何度か瞬きを繰り返し、それから小さく首を横へ振った。
『うん、食べない』
『・・・よし!言ったな?言ったからな!』
『うん・・・』
あまりにも即答だった。
拍子抜けしたルカがぽかんとしていると、キソは床へ置いた小刀を拾い上げ、その横に置いてあった細長い木箱を静かに開く。
中には布や細い木片、小瓶、それに見たこともない薬草が几帳面に並べられていた。
『その翼、診る』
『え?』
『右の方・・・曲がってる』
キソはそう言ってルカの右の翼を指差した。言われてみると、右の翼の付け根がズキッと鈍い痛みが走る。
『いてっ』
『やっぱり』
キソは少しだけ安心したように頷いた。
『折れては、ない。でも、このままだと飛べなくなるかも』
そう言うと、キソはまたゆっくりと両手を差し出してくる。
さっきまでなら全力で逃げていたはずなのに、その言葉を聞いた途端、不思議と逃げる気持ちは少しだけ薄れていた。
『翼・・・触るね』
『・・・う、うん』
恐る恐る差し出した翼へ、キソの指先がそっと触れる。傷口を確かめるその手は驚くほど優しく、必要以上に怖がる必要はなさそうだった。
『痛い?』
『・・・ちょっと』
『少し我慢』
『・・・はい』
思わず返事をした瞬間、ルカは自分でも不思議な気持ちになった。
正体も分からない鳥のヒナが、突然人の言葉を喋り始めたのだ。人間だった自分なら、悲鳴を上げて逃げ出していてもおかしくない。
それなのにキソは驚きこそしたものの、怖がる様子も追い払おうとする素振りもなく、ただ怪我を診ようとしてくれている。
『あのさ・・・』
色々な毒草を取り出しながら、キソが顔を上げる。
『おれ、ルカ』
『・・・ルカ?』
コンドウルカ。たしか、そういう名前だった。自分で口にしたその名前が、妙に懐かしく感じられた。もう二度と、その名前で呼んでくれる人はいないと思っていたから。
キソは小さく頷くと、その名前を確かめるようにゆっくり口にした。
『ルカ』
『・・・うん』
人の言葉を喋るヒナという異常な存在を前にしても、キソは何も聞かずに小さな石鉢を棒で擦り始めた。
ゴリ……ゴリゴリ……
所どころが焦げた薬房に、再びその音が響く。けれど、さっきまで命を削られる音にしか聞こえなかったその音は、今はどこか不思議と安心できる音へ変わっていた。




