8 罠
「やはり放っておくわけにはいかないな」
八十神は秦野と一度は絶縁を宣言したものの、やはり秦野のことが気になって、秦野の家にバイクで駆けつけた。しかし、八十神の心配をよそに秦野の家は明りがついていて平穏そのものだった。
「ちょっと寄っていくか」
八十神はヘルメットをバイクの上に置くと、秦野の家に行った。
玄関先のインターホンのボタンを押した。
「どちら様でしょうか」
女の子の声だ。八十神はすぐ秦野の娘、和美の声と察した。
「八十神と言います」
「八十神……」
突然、和美の慌てたような声がした。
しばらくすると、和美が血相を変えて家を飛び出してくる。
「どうした?」
「お父さんが……お父さんが」
和美は泣きそうな声で何度も同じ言葉を繰り返した。
「まさか……!」
八十神は急いで家に入った。そして、あちこち部屋のドアを開け、ついに書斎で秦野を発見した。
「!」
八十神は秦野を抱き上げ、揺さぶった。もう脈はなかった。体は温かく死んでから間もない。腹からは未だに血が溢れ、絨毯にはべっとりと血がにじんでいる。凶器らしい刃物はどこにも見あたらなかった。
八十神は秦野を床に寝かせると、周囲を見回した。部屋を荒された様子はない。
「八十神さん……」
和美が青ざめた顔で入ってきた。
「一体、何があったんだ」
「知らない人がいきなり家に押し入って……お母さんとお父さんを。私は押入に隠れていて助かったの――」
和美は興奮した様子で言った。
「そうか……」
「どうしてお父さんはこんな目に?」
「わからない。警察には連絡した?」
「いいえ。恐くて動けなかったの」
「わかった。とにかく君は警察へ電話するんだ」
「はい」
和美は部屋を出ていった。
八十神はもう一度しゃがんで、秦野の死体を見た。
「手際がよすぎる」
八十神は顎を撫でた。――もし、黒須の手下が殺したのなら、もう少し長官に抵抗の跡があってもいいはずだ。まして、相手の凶器が刃物となれば。
「おや」
秦野の手が握り拳になっている。八十神が彼の手をゆっくりと開いてみると、白いボタンが出てきた。
「ボタンだな。犯人のものだろうか」
八十神はボタンをハンカチに包んでポケットに入れた。
「八十神さん」
後ろで声がして、八十神は振り向いた。
「電話をしました」
和美が言った。
「そうか。お母さんはどこにいる?」
「台所です」
「わかった。君は自分の部屋へ戻っていなさい。後は私がやるから」
「はい」
和美は元気のない返事をして、書斎を出ていった。
「叔父さん……」
八十神は目を閉じて、秦野の亡骸の前で合掌した。
三分もたたないうちに家の外からパトカーのサイレンの音が聞こえてきた。
「仇は取りますよ」
八十神は秦野に永遠の別れを告げて、書斎を出た。玄関ではドンドンとドアをノックする音が聞こえる。
「やけに早いな」
八十神はゆっくりとした足取りで玄関まで行くと、ドアを開けた。外には私服の刑事二人と制服警官二人がいた。
「警察の者ですが」
刑事の一人が警察手帳を八十神に見せた。
「私は長官の知り合いで、八十神と言います。どうぞこちらへ」
八十神が刑事たちを秦野の倒れている書斎へ案内した。
書斎に入ると刑事はかがんで、秦野の遺体を調べ始めた。
「刺殺ですな。死んでから、そうたってない」
刑事は八十神に確認するように言った。
「僕が来た時には既に殺されていました。台所には奥方の死体もあります」
「あなたはどんな用事でここへ」
「ちょっと話があったもので」
「こんな夜分にですか」
「ええ、一刻を争うものでしたので」
「どんな話ですか?」
「答えられません」
「そうですか。答えていただかないと、不利なことになりますよ」
「どういうことですか」
「ここの娘さんが警察に電話してきたんです。男が自分の両親を殺したってね」
「バカな。僕が犯人なら、こんな堂々としているか。第一、彼女に電話するように言ったのは僕だ」
その時、階段を慌てて降りる音がしたかと思うと、すぐに警官が書斎に飛び込んで来た。
「警部、二階の部屋で女の子が縛られています」
「何だって!」
八十神は唖然とした。
「どうです。おそらくあなたは娘さんが警察に電話をかけているところを捕まえ、縛って部屋に閉じ込めた。そして、さも客人のように振舞って我々を欺こうとした」
「穴だらけの推理は聞きたくないね。彼女に会わせろ」
「君は容疑者だ。それはできんね。さあ、署まで同行願いましょうか」
二人の警官がそれぞれ八十神の両腕を掴んだ。
「放せ」
八十神は体をひねって、振り放そうとした。その途端、刑事が八十神の手首に手錠をかけた。
「殺人の現行犯で逮捕だ」
刑事は落ち着いた声で言った。
「今、こんなところで遊んでいる暇はないんだ」
「それは我々も同じです」
二人の警官は八十神の両腕をがっちりと押さえ、書斎を出て、玄関に引っ張っていく。
八十神はその時、階段の上の方で自分を見ている和美に気づいた。
なぜだ?
八十神は和美の顔を警官に外へ連れていかれるまで見ていた。
「さあ、乗るんだ」
警官は無理矢理、八十神を押し込もうとする。
「お断りだ」
八十神は警官は押し退けた。
「何のつもりだ」
刑事は言った。
「あんた、もう一度、よく考えてくれ。俺が本当に長官を殺したと思うか」
「これから調べればわかる」
「そんな時間はない。いいか、もし俺が犯人なら、なぜあの娘を殺さなかった。彼女を縛っている暇があったら、殺した方が早いだろう」
「うるさい。車にその男を乗せろ」
そう言うと、再び二人の警官が八十神を車の後部座席に押し込む。
「早急に応援をよこすよう連絡しておいてくれ」
そう仲間の刑事に言うと、刑事は一人その場に残り、パトカーは走りだした。
「調べてみるか」
刑事は家に戻った。
何気なく秦野が殺された書斎を覗き込むと和美が机の引出の中を探っていた。
「何をしているのかね」
刑事の言葉に和美は慌てて机から離れた。
「……」
「縛られたところは大丈夫かね。救急車を頼んでおいたから、もうすぐ来ると思うよ」
「すみません」
和美は落ち着かない様子で、軽く頭を下げた。
「和美さんと言ったね」
「はい」
「救急車が来るまで少し話を聞かせてもらっていいかな」
「ええ」
「電話を警察にかけてきたのは君だね?」
「はい」
「ご両親を殺したあの男との面識は?」
「ありません」
「君はどうして二階の部屋に縛られていたのかな?」
「電話をかけている時、男に見つかったんです」
「あなたが警察に電話をくれてから、約十分で我々が現場に到着したわけですが、その間、あの男がなぜ逃げなかったのか。何か話していませんでしたか?」
「わかりません。何かおかしいことでも?」
「いえね、あなたのご両親を殺したぐらいの男ですから、あなたを見つければ、あなたを生かしておくはずはないと思うんですよ」
「そんなこと、私に言われてもわかりません」
「あ、失礼しました。時に警察へはどの電話でおかけになりました?」
「携帯です。二階の自分の部屋にいる時、下で悲鳴とか争う物音とかが聞こえたので、恐くなって」
「それは変だね」
「どうしてですか」
「君は警察に『知らない男が両親を殺した』と言ったんだよ。しかし、君は電話をした後、男に見つかって、縛り上げられたんだろう。どうしてご両親が殺されたと?」
「本当にすごい悲鳴だったから」
「ふむ、それも変だね。ご両親は抵抗もなく刃物で一突きに殺されている。悲鳴を上げる暇はなかったと思うんだが」
「刑事さん、私は被害者なんですよ。私を疑ってるんですか」
「いいや、そうじゃないんだ。ただ、疑問点はクリアにしておかないとね」
その時、玄関のベルが鳴った。
「救急車が来たのかな」
刑事は和美を残して、部屋を出ていった。
和美は一人になると、さっと顔をあげ絨毯の裏に隠したナイフを手にした。そして、刑事を追うように書斎を飛び出し、廊下を玄関に向かって歩いていた刑事の背後からナイフを構えて襲いかかった。
玄関のドアが開く。
「八十神……」
刑事が驚いた顔で八十神を見る。和美がものすごい形相で、今にも刑事の背中にナイフを振り降ろそうとする。
八十神は懐からメスを抜いて、投げた。
メスが刑事の肩のすぐ上をよぎった。
「何をするんだ」
刑事は思わず八十神につかみかかった。
「後ろを見な」
八十神は低い声で言った。
刑事が振り向くと、和美が右肩を押さえて、うずくまっていた。そのすぐそばに血のついたナイフが落ちている。
「どうなってるんだ」
刑事は当惑した表情で言った。
「見た通りです」
八十神はナイフを遠くへ蹴飛ばして、言った。「この娘が犯人だったんですよ」
「しかし、動機は?」
「彼女に直接、聞こうじゃないか――さあ、言うんだ」
八十神は和美の服の襟をつかんで、無理矢理立たせた。しかし、和美は八十神と視線を合わせまいと首を横に向けている。八十神は和美の後頭部に手で触れた。
「何を聞いても無駄だな。どうやら彼女は操られているようだ」
「一体、どういうことだ」
刑事はことのいきさつが、つかめなかった。
「マルスです」
「マルス?」
「それから、このボタン、長官が握っていたものです」
八十神はハンカチに包んでいたボタンを刑事に預けた。「おそらくこの子のパジャマのボタンでしょう」
「あんた、何者だ?」
「刑事さん、パトカーの警官たちには謝っておいてくれ。殴って済まなかったと」
八十神は手錠を刑事に返して、家を出ていった。




