17 別れ
「何かしら、あの音」
その時、遠くからエンジン音が聞こえてきた。
わずかに霧のかかった遠くの道を見ると、ヘッドライトを灯した一台のオートバイが喜美子たちのいる方に向かって走ってくるのが見えた。
オートバイは喜美子たちの十数メートル手前で止まった。
フルフェイスのヘルメットをかぶったライダーがオートバイを降り、喜美子たちの方へ歩いてくる。
「高宮あゆみか……」
ライダーは縛られたまま座っているあゆみを見て、言った。
「八十神ね」
あゆみは言った。
「香奈子を取り返しに来た」
ライダーはヘルメットを取った。
「あなたが八十神さん?」
喜美子が尋ねた。
「君は久坂喜美子だな」
「え、ええ」
「裕美から話は聞いた。迷惑をかけて済まなかった」
「日高さん、助かったんですか?」
「ああ」
「あのぉ、弘田さんが大変なんです。すぐに見てあげて下さい」
八十神は路上に寝かせられている香奈子のそばに歩み寄った。
吐血で汚れた香奈子の口のまわりを八十神はハンカチで拭いてやった。そして、八十神は香奈子の左手を握った。
「忠士さん……」
その時、香奈子が細く目を開け、微かな声で言った。
「迎えに来たよ」
八十神は優しく微笑んだ。
「裕美さんは……?」
「彼女は無事だ」
「そう……よかった」
「すぐに救急車を呼ぶよ」
「ううん、もういいの。忠士さん」
「ん?」
「キス……して」
「ああ」
八十神は香奈子に軽く口づけをした。
あなた……愛してる
香奈子は目をつむった。それきり、もう二度と目を開けることはなかった。
八十神は香奈子の左手を一度強く握りしめると、香奈子の胸にそっと置いた。
「弘田さん……」
喜美子は涙ぐんだ。
「てめえっ!よくも俺を操りやがったな」
智也はあゆみにつかみかかった。「俺は女は殴らねえ主義だが、おまえは違う。ぶっ殺してやる」
智也は拳を振り上げた。
あゆみは体をすくめる。
だが、次の瞬間、智也の振り上げた手を八十神がつかんだ。
「やめておけ」
「放せ!この女のせいで弘田さんが死んだんだぞ。悔しくないのか」
「ロープで縛られてる無抵抗の女を殴るのか」
「だったら、ロープを解いてから、殴ればいいんだな」
「彼女も被害者だ。許してやれ」
「どういうことだよ」
「君、ナイフを貸してくれないか」
八十神は喜美子に言った。
「はい」
喜美子は八十神にナイフを渡した。
八十神はナイフであゆみのロープを切った。
「血が出ているな」
八十神は服の袖を破り、包帯代わりにあゆみの頭に巻いた。
「ごめんなさい」
あゆみは目を伏せて、言った。「こうするしかあなたに会う方法がなかったから」
「どういうことなの?」
喜美子が言った。
「彼女も僕と同じように組織に誘拐された学者なんだ」
「彼女が?」
「本当なら一年前、彼女は僕と一緒に組織のアジトから脱出するはずだった。だが、脱出には危険があったため、彼女を残していったんだ」
「ずっと待っていたのよ。あなたが現れるのを。でも、いつまで待っても、あなたは助けに戻ってきてはくれなかった」
「何言ってんの?あなた、別に拘束されてるわけじゃないんだから、逃げようと思えば、いつでも逃げられたはずじゃない」
喜美子が言った。
「逃げて、どこへ行くのよ。組織を裏切れば、殺されるわ。警察だって信用できない。私を助けることができるのは八十神だけなの」
「自分だけ助かればいいの?あんたのせいで弘田さんが死んだのよ」
「おとなしくしてれば、こんなことにならなかったわ」
「それじゃあ、智也とあたしをキスさせたのはどういうことなの?」
「キ、キス?」
智也が目を丸くする。
「香奈子を苦しめてやりたかったから。八十神の愛を一心に受けてる香奈子が憎かったのよ」
「どんな理由があっても、あたしは絶対にあなたを許さないから」
喜美子がマシンガンの銃口をあゆみに向けた。
「あんたに言われたくないわ。あんただって、香奈子に銃口を向けたでしょ」
「それは――」
「あんたは香奈子の言葉より私の言葉を信じたのよ」
「喜美子、どういうことだ?」
智也が訊く。
「くっ」
喜美子はマシンガンの引金に指をかけた。
「やめておけ。君は家へ帰れば、普通の女の子だ。わざわざ人殺しになることもあるまい」
八十神は喜美子からマシンガンを取り上げ、その場に捨てた。
「それにしても、無茶な真似をしたものだ。今、僕のところへ逃げてきたって、君を守ってやる力はないぞ」
「そんなのわかってるわ」
あゆみは目を伏せて、言った。「でもね、私はこれ以上、悪魔の科学者を演じたくないの」
「だが、これで君も命を狙われるぞ」
「死ぬのは恐くないわ。一年前、あなたと組織を脱走すると決めた時から死を覚悟してたから。ただ一人で死ぬのは嫌なの。死ぬ時はあなたのそばで死にたいわ。香奈子みたいに」
あゆみはすっと立ち上がった。そして、八十神の手をつかんだ。
八十神があゆみを見る。
「あなたが脱走した後、組織が――いいえ、黒須が何をしたか知ってる?私たち科学者全員に改造手術を施したのよ。二度と裏切らないように」
あゆみの目が青白く光った。
「あなた、サイボーグ……」
喜美子が口を覆った。
「嘘だろ……」
智也が愕然とする。
「二人とも逃げろ!!」
八十神が叫んだ。
「八十神さん……」
「喜美子、来い!」
智也が喜美子の手を引っ張って、その場から離れた。
「一緒に死んで。組織に裏切りが知れれば、遠隔操作で自爆装置が働き、私は殺されるわ。そうなるくらいなら、殺される前に私はあなたと一緒に死にたい」
あゆみは後頭部の後ろにある時限自爆スイッチを押した。「これで私の体は動かないわ。あなたのつかんだ手ももう動かない」
「こんなことをすれば、黒須の思うつぼだぞ」
八十神はあゆみの手を外そうとしたが、全く動かなかった。
「私にとっては黒須がどうなろうと日本がどうなろうと関係ないわ。私はあなたと一緒にいたいだけ。こうなったのもあなたがいけないのよ」
「高宮……」
「もう四分を切ったわね。マシンガンで私を撃っても無駄よ。自爆が早くなるだけだわ」
「高宮、君の気持ちはうれしいが、僕は死ぬわけにはいかないんだ」
「どうやっても手は外れないわよ。諦めて、私と一緒に死んで。私、あなたのこと、本当に愛してるの」
「悪いが、断る」
八十神は電動ナイフを手にした。
「どうする気?」
「君が手を離さないなら、僕の手を離すさ」
「まさか」
八十神は自分の手首に電動ナイフのスイッチを入れ、押し当てた。
「ぐっ」
八十神が顔をしかめる。
手首から吹き出した血を浴びながらも、八十神は一気に左手首を切断した。
八十神はあゆみから離れた。
「待って。私を置いていかないで」
「さよならだ」
八十神は左手首を押さえながら、後ろも振り返らず駆け出した。
それから数分後。八十神の後ろで大きな爆発が起こった。
「八十神さん」
喜美子たちが八十神に歩み寄る。
「サイボーグにされた彼女の苦しみに比べれば、左手は安いものさ」
八十神は苦しい表情を浮かべながら、ぽつりと言った。




